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[建造物][橋・井樋等][勧興校区]は30件登録されています。
建造物 橋・井樋等 勧興校区
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善左衛門井樋
橋ではなく、多布施川にはこうした「井樋」が数多くあり、細かな水路への水取入れ口になっている。 昔は木製でしたが、段々と鋼鉄製の巻上げ式に変わってきている。
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ポンポン井樋
佐賀の人は、親しみをこめて「ポンポン井樋」と呼ぶ。 サイフォンの原理を用いた構造の井樋で水が流入吐出する際に音をポンポンと発することからであろう。 多布施川より松原川への取水の井樋の事で、以前は常に流れが渦を巻き、子供達の格好の遊び場所であった。ここから取り入れられた流れは、今では鯉が泳ぐきれいな川となり、松原神社北を憩いの場の水系としている。
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楠公橋(なんこうばし)
「楠公橋」は、勧興公民館の南を流れる十間堀川に架かる橋でその名は楠神社にちなんでつけられたものである。 明治3年の架設で社寺を除くと公道に架かる橋では、市内では最古のものであろう。 この橋が架かった三年後の明治6年に、楠神社から西に伸びる道が「楠公通り」と命名された。 又、ハローワークに通じる処にも「楠公橋」があるがこちらは昭和42年とだいぶ後に架けられたものである。
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御幸橋(みゆきばし)
唐人町土橋横から県庁通りに入る場所に架かる橋。 明治35年、明治天皇統監の陸軍大演習が熊本地方で行われた。その帰途、天皇陛下を佐賀にお立ち寄り下さるよう大隈重信を通して運動したが成らず、ご名代として小松宮彰仁殿下がお越しになられた。 殿下は、その年の11月に佐賀駅到着の後、竣工したてのこの橋を通られ、県庁の行在所に入られた。殿下がお通りになるため「御幸橋」と名づけられたものである。 当時の「親柱」が龍造寺八幡宮の社務所東に保存してある。
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聖堂橋 れんさい橋
愛敬島4号水賂の十間堀川への注ぎ口に架かる橋。 その名は、大財村にあった「大財聖堂」にちなんでいる。 元禄5年(1692)、儒学者武富廉斎は、私財を投じ邸内に広さ約千四百坪の聖堂を完成させた。 武富廉斎は、享保3年(1718)正月26日没、享年82歳であった。 墓は始め聖堂内の一角にあったが宅地整理の為、呉服元町の称念寺に移された。 また、聖堂跡地の少し北側に廉斎の名を偲ぶ「れんさい橋」もある。
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明十三(あけとみ)橋
橋の親柱にかすかに「明十三橋」と刻んである。 明治13年、架設時の佐賀郡長武富良橘の命名による。 佐賀白山の豪商、武富家は明人十三官を祖としその一族は、白山町や勢屯(せいだまる)町、大財村に居住した。 「大財聖堂」を建立した武富廉斎は、中国の明時代内乱を避けて室町末期の日本に亡命した十三官の曾孫である。
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善左衛門橋(ぜんじゃあばし)
善左衛門橋(ぜんじゃあばし)(明治33年6月) 護国神社境内の北西隅に隣接して、多布施川に架かる長さ8メートルの石橋。明治式の低い欄干。現在も橋桁の上に渡した橋板の石組が露れている。以前は土橋で洪水の度毎に流された。住民が石橋への架け替えを藩に願い出たが許されず、伊勢町に住む宇野善左衛門が見かねて私財を以って架橋することを条件に藩の許可を得た。彼は橋づくりの専門、橋の土台に直径約40センチの松の丸太を井の字に組み、その真中に石柱の橋脚を立てた。明和元年(1764)7月10日に竣工し、渡り初めの費用も一切、善左衛門が出したと言われている。
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西峯院橋の親柱
「西峰院西橋」を渡ると次に橋がかかっていてその傍らに、「西峯院橋」という親柱が倒れている。その為、地図を見ると、この橋が「西峰院橋」という表記がある。 本来の「西峰院橋」は、紡績通りに架かる橋であったが道路拡張工事の為、この親柱だけがこの場所に移転されたものである。 現在、紡績通りの「西峰院橋」にはきちんとした表示がない。
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大島橋
成章中学校の北門西に架かる橋。 親柱の造りは、同年代(1950年)の六反田橋に似ている。
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二本松橋
唐人神社西側にある橋で架設は、昭和10年とかなり古い橋。 昭和9年には、成章中学校の「校南橋」なども建設されていて全体的な造りも同じような感じ。
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かわず橋
「かわずばし」とおもしろい名前で小さな橋ですが、しっかりと親柱がある。 架設も昭和31年と50年近く経つ古い橋。
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太平橋
どんどんどんの森東の天神通りに架かる橋。
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琵琶橋
愛敬町・国相寺南にかかる橋である。 水路や堀に囲まれたこの付近の地形が「琵琶」の形をしていたと言われる。 残念ながら、親柱の文字は消えかかっている。
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みかえり橋
同じく夕日町水路にかかる「みかえり橋」である。 ここより少し、東の大財通り四つ角にこんもり雑木が茂っている所がかつて、処刑場跡であった事に由来する名といわれている。
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極楽橋
愛敬町の夕日町水路にかかる、その名も「極楽橋」。
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護國神社・太鼓橋
佐賀縣護國神社の境内に渡る太鼓橋である。 以前はこの橋の下で泳ぐ子ども達も大勢いたが、いまでは少し下流の川遊び場が設けられ一般開放されている。
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三角(みすみ)橋
昭和35年(1950)架橋。 「開運橋」の次に多布施川にかかる橋である。 多布施川水系が、ここから二手に裏十間川と大覚寺水路に分かれる。 この地点で水路が三角になるためにこう呼ばれたもの思われる。 コンクリート構造の親柱は、「六反田橋」に似ている。 架設年代も近く、当時の設計も類似しているのであろう。
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くすのさかえ橋
県庁前の北堀を一気に渡る「くすのさかえ橋」。 建設の為に、お堀の大楠が移植された。
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東魚町橋
裏十間川にかかる昭和11年架設の古い橋である。 藩政時代、魚屋はここ東魚町と西魚町以外は禁制であった。
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更生橋
NTT佐賀支社の西にかかる橋で「更生橋」と意味ありげな名前である。 昭和の初期、近くに裁判所がありそこへ通ずる橋なのでこの名になったのかもしれないが、記録が定かではない。
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校西橋
その名の通り、成章中学校の西門にかかる橋。 校南橋と同じ、昭和9年の建造。
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校南橋
成章中学校の南の十間堀川にかかる橋で、昭和9年竣工の古いもの。 りっぱな親柱と強固な欄干が特徴的である。
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六反田橋
愛敬町の歓楽街にあって、親柱が特徴的な橋である。 1950年製でコンクリート橋の重厚感を持たせるために、このような外観を施したものと考えられる。
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鈴蘭橋
向榮橋の次に、十間堀川にかかる橋である。 当初は、恵比須橋と呼ばれていたが、白山恵比須班の人達が力を合わせ市の補助などを受けて施工された。 この橋の奥が「すずらん通り」と呼ばれる
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向榮橋
昔は、「土橋(どばし)」という名で呼ばれていた。 江戸時代には、お城下と唐人町を分ける十間堀川にかかる数少ない橋のひとつであった。
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松園橋
「松園橋」は、その名の通り、松原とその北側にあった「銅像園」をつなぐ橋。 大正12年11月10日、鍋島直正公銅像の除幕式があり、その日の内にこの橋の竣工式と渡り初めが行われた。
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松原橋
県庁通りと中央通りにふたつの橋がかかるが、両方とも「松原橋」となっている。 中央通りの方は、佐賀市のメインストリートの橋という事もあり、欄干の素材や親柱の看板名共にとてもきれいな石造り。
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太鼓橋
松原神社東正面の太鼓橋。 松原神社は、藩祖・鍋島直茂を祀るため、8代藩主・鍋島治茂が、安永元年(1772)に創設した。社前の石橋も同年5月15日に完成している。
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楽天橋
この橋を渡ると向こうには何があるのかと、期待するという。 眼鏡橋、橋の南は飲食店の歓楽街。
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三百紀(みほき)橋
松原神社西北、飲み屋街東入口。 橋が改造されて「みほきはし」と刻んだ親柱が南から北の道端に移された。西南にある親柱「藩祖三百年祭記念工人」とある。