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[遺跡・跡地][遺跡][大和町]は16件登録されています。
遺跡・跡地 遺跡 大和町
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国分尼寺
現国分僧寺前の十字路より西へ約300m、大昌寺跡という所がある。これが国分尼寺跡と考えられている。春日小学校東側の道を今もなお大昌寺馬場と呼んでいるが、その道の北端に当たる所に正覚寺の石門の建った家がある。ここが尼寺南入口と見られ、この地域に1坪(1町2反)余の寺域を考える事は妥当と思われる。国分僧寺のように4坪(4町8反)の広さはなかったようである。正式の名前は法華滅罪之寺といって尼僧約 10人が住んでいた。境域は南側が東西に62間(111m)、東側が南北60間(108m)の条里制の1坪と見られ、周囲に堤防があったのは築地のあとであろう。今は周囲の土塁も破壊されているが、南を除く三方の土塁の外側に空堀があり、土塁は空堀の土を利用して造られたと思われる。年移り今はその跡もなく、住宅地や工場地に変わっている。伽藍配地は礎石移動のため今のところ全くわからない。 ほかに8個の礎石が尼寺の八木弥太郎氏宅に、庭園内庭石としてあったのが、今は又移動して行方不明のままである。 徳川時代の初期、再建の時ほとんど移動し、現在では更に根本的に開墾のため移動して、建造物の復元推定に役立つ物はない。ただ柱座が75cmの物、63cm,くらいの物、48cmの物と3種あったことはほぼ推定される。遺瓦の鬼瓦と平瓦は奈良時代と認められる物が出ているが、巴、唐草が発見されていない。あるいは大昌寺復興の際に処分したのだろうか。
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石井樋
石井樋は、嘉瀬川から多布施川へ水を分ける取水施設で、治水の神様といわれた成富兵庫茂安の指導により、元和年間(1615~1624)に造られたとされる。取り入れられた水は佐賀城下の生活用水や農業用水として使われ、石井樋には、土砂の混じった川の水を象の鼻、天狗の鼻など石で作られた施設を組み合わせて土砂を沈め、きれいな水にする工夫がされたり、流域の水害を防ぐはたらきも持ちあわせている。 しかし、昭和35年(1960)嘉瀬川上流に川上頭首工が造られ、石井樋の役目はいったん終わったが、平成5年より調査・発掘・保存などを行ない、平成17年に現在の石井樋が復元された。 また、石井樋のある石井樋公園内には、「石井樋のすべて」、「成富兵庫茂安の生涯」、「佐賀平野の水」をテーマに学べる資料館である、「さが水ものがたり館」が平成17年12月4日に開館しており、石井樋の機能などを映像や模型を使って紹介されている。
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久留間遺跡
出土品=石器類、土器類、種子類等 この遺跡は「久留間カミ塚遺跡」という。「カミ塚」というのは、弥生式土器のカメなどがたくさん出たことから土地の人が「カメ塚」を「カミ塚」に転化しただろうといわれている。 大和町で学術的発掘調査をされた最初の遺跡である。昭和24年(1949)ジュディス台風によって、東平川の堤防が決壊しようとしたので、それを補強しようとして、耕作地から土を掘り起こした時、多数の土器が出土したことに端を発し、昭和25年(1950)九州綜合文化研究所が中心になって調査した。遺跡の推定面積は約6500㎡で、調査したのはそのごく一部である。4つの住居跡の断面が確認され(未確認1)、竪穴住居が主であるようだが、発掘されていないので住居の形態や構造は明らかでない。 又泉と1.75mの隅丸方形の「洗い場」が発見され、洗い場からは、木わくか土止めに使われたと見られる木材と足場に当たる所には葦が敷きつめられていた。遺物の中で、石器としてはサヌカイトの打製の柳葉(やなぎば)式の石鏃や石庖丁、磨石(すりいし)、凹石(くぼみいし)等が出土しているがその数は少ない。 土器は中期の須玖式も若干あるが、後期の高三瀦式が中心で壺、高杯(たかつき)、浅鉢、甑(こしき)、器台等が著しく多数出土しているのが注目され、ロクロを使った土器もあるので、窯跡(かまあと)ではないかという説もあるが、これは今後の発掘調査を待つより外にない。 植物の種実としては、もみがら、瓜の種、そば等の栽培植物の種子が検出され、そのほか山グミ、シイ、クリ、ドングリ、アカガシ、白ダモ(くすのき科)レンゲ等の種子が出土している。
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前隈山古墳
山頂に築造され、封土上には葺石が見られ、内部主体は竪穴式石室といわれるがはっきりしない。
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水上古墳
現在密柑畑になってその姿はないが、丘陵の先端に築かれ、前方部と後円部に石室がそれぞれあって、西側に羨道が設けられていた。封土上には葦石や円筒埴輪があり、土師器や須恵器の破片が散布していた。
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男女神社西古墳
丘陵の屋根に築かれたもので、町内では最も小さいものである。内部主体や副葬品は明らかでなく、葺石や埴輪も発見されていない。
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風楽寺古墳
池上地区の東の水田中にあり、現在は共同墓地になっている。
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森の上古墳
野口礫石の敷山神社跡の南にあり、昭和18年(1943)に発見された。封土ははっきりしないが、箱式石棺が約1.2mの高さに盛られた18m平方の畠の中から発見された。石棺は南北の方向に置かれ、長さ2m、幅54㎝、高さ50㎝で、中に枕石が南と北に置かれている。北枕には男性と見られる大形人骨と、琴柱形(琴の絃を支える琴柱に似た形)石製品及び竹櫛8、南枕には女性と見られる小形人骨と国内製の素縁帯変形文鏡と竹櫛8が発見され、その外に剣、刀子(短かい刀)、鍬先、鑓鉋が出土している。この古墳は合葬墳で、特に注目されるのは琴柱形石製品である。 これは畿内の前期古墳から主として発見され、九州では唯一の出土例である。これは装身具か宝器か、その用途は明確でないが、ごく限られた人にのみ副葬され、大和朝廷へ服属した地方豪族の存在を物語るもので、5世紀後半に築成された中期の古墳とされている。琴柱形石製品と竹櫛は祐徳院博物館に陳列されている。
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高畠古墳
大正11年(1922)に発見されたが今はなくなっている。封土の径約20m、高さ約2.4mの円墳で、内部主体は小口積みの竪穴式石室である。主軸の方向はほぼ東西で、その中に長さ1.8m、幅75㎝、深さ84㎝ぐらいの箱式石棺があった。石棺の内部には両方とも東枕にした男女の仰臥伸展葬(おおむいて足を伸ばした)の形で合葬されており男が北側、女が南側であった。副葬品としては鹿角製刀装の直刀、石突5、登龍形剣、蕨手刀、刀子、鉄鏃50などの武器類、鉄鍬、斧頭2、鎌、鑓鉋などの農工具、○製内行花文六孤鏡、めのうの勾玉2、水晶玉2、細型碧玉製管玉32などの玉類、その外紡錘車(糸をつむぐ道具)や鈴4、鉄櫛、骨鏃11などが出土している。この古墳は多量の鉄製の武器や農工具の出土が注目され、これらの副葬品から司祭者的な性格を持つ地方豪族の姿がうかがえ、中期の古墳と考えられる。
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小隈古墳
小隈山古墳の西南約80mの所にあって、地区の人は「マル山」と呼んでいた。昭和33年(1958)土取り工事中に発見され、調査されたもので今はない。封土の径18m、高さは北2.7m、南2mで、封土上には葺石が認められた。内部主体は封土のほぼ中央に4基の箱式石棺が不規則に置かれていたが、2基はすでに破壊されていた。石棺はいずれも2−3枚の板石を立てて側壁とし、前後は1枚の石をそれぞれ立てて囲み、上を数枚の板石でおおっている。石棺の長さは約1.8m前後、幅は40㎝前後、高さ30㎝前後である。床は礫床が1基で他は粘土床とし、内部には鉄丹が塗られていた。 遺体は1体のものと2体のものとがあり、副葬品として1号棺から硬玉製匂玉2、碧玉製管玉が10、4号棺から碧玉製管玉と仿製の内行花文鏡が発見された。内行花文鏡は径10.4㎝、七花文の質のよい白銅鏡で、文様もしっかりしており、仿製鏡としては県内では類例のない逸品である。この古墳の内部主体が4基である円墳であることから、家族墓的性格を持つ墓制への移行を示す5世紀後半の中期古墳として注目された。
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男女神社西南円墳
小形の竪穴式石室の中から位至三公鏡が出土し、古墳時代中期の築造と考えられる。現在は蜜柑園となりその跡は見られない。
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礫石古墳群
森の上古墳の北方に当たる段丘上に、横穴式石室の円墳が数10基あったが、密柑園造成のために今は見られない。4基の円墳に円筒埴輪、1基に馬形埴輪を配置していたことが、その破片の出土から確認された。この古墳群からは鉄刀、刀子、鉄鏃、鉸具(くつわ)、勾玉、管玉、小玉等が発見されている。
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男女神社東方古墳群
標高90から130mくらいの丘陵上にあったが、今は見られない。ここでは67基の横穴式石室の小円墳が確認され、その中の8基は複室を持っていた。副葬品としては六獣鏡、管玉、鉄刀、刀子、鎌等が発見されている。封土上には須恵器を割って捨てたらしい跡が見られたので注目され、墓前祭が行われたのではないかと考えられる。ここから出土した甕(須恵器)が祐徳院博物館に保管されている。
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星熊山古墳群
巨石を使った横穴式古墳が4基確認されているが、いずれも盗掘されている。
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野田山古墳群
蜜柑園造成のためなくなったが、竪穴式石室の古墳も含まれていたようで、円筒埴輪や馬形埴輪が発見されているが、副葬品は不明である。
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東古賀遺跡
東古賀遺跡は脊振山系の南に拡がる標高11〜12mの平野部で大和町の東端しに位置し一部は旧佐賀市と接している。 遺跡は平安時代中期、中世の遺構が主体である。また調査区内には古代官道が東西に走るが、中世後期以降に堀状として大きく掘削されており、関連する遺構は検出されていない。官道が中世に堀状に掘削されていた例は西の鍵尼遺跡の数箇所で確認されている。平安時代の遺構は掘立柱建物跡、小型な竪穴住居跡、井戸跡、土坑墓、土坑がある。緑釉陶器を副葬した墓や100点以上の完成品を廃棄した祭祀土坑、井戸跡等から出土した石帯(巡方、丸鞆)などの遺物から在地領主または在庁官人クラスの存在が考えられる。 鎌倉時代の遺構は掘立柱建物跡、井戸跡、溝、土坑墓がある。土坑墓からは完形の龍泉窯系青磁碗2個が出土しており在地小領主クラスが主体者と考えられる。その他の遺構として戦国時代、近世の大溝が確認されている。