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[自然][樹木・花][久保泉校区]は5件登録されています。
自然 樹木・花 久保泉校区
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誰故草(たれゆえぐさ)
桜の花の咲く頃から、脊振南麓の古生層地帯に、小さなあやめそのままのかわいい薫紫の花が、群をなして咲く。昔は「雛あやめ」「姫あやめ」と呼び、子供が花あそびをしていた。 明治30年(1897)、愛媛県で見付けられ、当時の植物学者牧野富太郎博士によって地名をとって『えひめあやめ』と命名された。ところが既に世界植物学会では洋名の登録があり、日本でも古い地誌(『芸藩通志』(※安芸国広島藩の地誌)及び『西備名区』(※備後地方の郷土史書))に『誰故草』と呼ばれていることを知られ、5年後に『本名を誰故草、一名をえひめあやめ』と訂正発表されて以来、学術書も辞書も「誰故草」で出てくる。 この野生植物はなかなかの気難し屋であるが、一般的に考えられるのは、 1)土質土壌と酸度の関係、 2)土中湿度と排水、 3)気流と極端な気温変化及び雨量、 4)日照方位と植被率の関係、 5)種子の発芽と活着条件、 6)それに盗株防止である。だがその他に、 7)昔のように秣場(採草地)であった頃は数回草刈をし、秋口の草を冬になって野焼きをしていた。 今は、自然保護の名目で葛かやの茂るにまかせていいものか。天童山・日の隈山・大分県の自滅と同じになりはしないか。 1)白絹病などの病害と花昌蒲のような嫌地性対策、 2)水源となる上部の植生品種と腐葉土の厚さ、要求微量要素、 3)共生と単植、 4)結実は虫媒か風媒か、人工交配は必要がないか、 5)移植の時季・踏圧・どろんこ植え、 6)根群の水のうと種まくら、などについての研究は不充分である。 愛媛県・大分県・山口県の一部では、消滅を理由に指定が解除された。日の隈山もそうだが、消滅の要因は何だったのか。県や市の報告書の不備もだが、今後の基本的研究と対策・保存会の実践活動に期待する。 誰ゆへに乱れそめ来し花なれや みちのしりへの里ならなくに 〔広島県西備名区〕
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銀木犀
県道小城・北茂安線の南400mの折地地区(下四)増田樸氏方の庭先きに根廻り2.3m目通しで二枝に分かれ、高さ10m余、樹令300年を越すといわれる名木銀木犀があった。ひひらぎ科、雌雄異株。 夏の日差しがいくらか和らいだと思う頃、どこからともなくいい薫りが漂って来る。春は白木蓮の蕾が、秋には木犀の薫りが古里の四季を教えてくれた。誰かがこの薫りは「極楽の匂い」だよと教えてくれた。秋の彼岸前後だからか、よか人ばっかいの久保泉と言うのだろう。 むかし、馬上のもののふがここを通るとき、いずこからともなく匂って来るこの花の香にしばし駒を止どめ、腰の矢立から筆をとり出し、すらすらと詩歌を書きとめたであろう。「駒止めの銀木犀」とは、よくも名付けた秀句たることよ。 金木犀の花は橙黄色で、いささか強烈な薫だが、銀木犀の花は青白色に近い白色で、和らかくふくいくたる芳香を放つというべきか。 昭和4年、名木として天然記念物に指定された頃は、伊賀屋駅を降りるとその薫に、ああ郷里へ着いたと一安心したもの。傘の形の優美な樹相も想い出される。昭和28年、県の再指定を受けた頃から、北の枝に樹勢の弱まりを感じ、専門委員の関谷・馬場先生を始め、県林業試験場・県林務課・営林署の各専門技師に来て貰い診断をお願いした。白蟻・葉ダニ・白紋パ病・一時冠水等による根群活動の変化、老令化などの意見は出たが決定には至らず、32年枯死。現在小株はあるが残念なことだった。
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県営模範林
川久保藩邑主神代直宝(鍋島直大の従兄)は、明治20年頃山林原野350町歩を川久保村に、明治38年1月山林95町余を佐賀県に寄贈した。貰い受けた佐賀県は、林業の合理的経営のテストケースとして『県営第一模範林』とした。 早速、その年(1905)の3月から、松・檜・杉の植林を始め3ヶ年で造林を完了した。植林後の数ヶ年は地元民の協力によって、下草刈・つる切り・枝打を続け保育して来た。 その甲斐があって、露出した山肌に緑が蘇り、大雨も急に流れ出さず、土砂の崩壊もなくなり、少々の干ばつでも川の水は絶えなくなり、久保泉の水田も潤い作物も多く獲れるようになった。 敗戦(1945年)前後の建築資材不足の頃は、伐期令には少し早かったが3分の2を伐採した。 〔伐期令標準は松35年、檜45年、杉40年が、伐積成長量最大のとき〕 敗戦後の混乱で、新植事業なかばの昭和24年ジェディス台風で伐採地に土石流が生じ、西原西の谷は土砂に埋った。 この頃は、干ばつ・洪水が続き山河は荒れた。 昭和26年に水源かん養兼土砂流出防備保安林に編入され、逐次新植され、また下刈・つる切り・枝打ちが町民によって続けられた。 林道も年々延長され、やがて大小野に通じるようになりそうだし、保安林だから5ha〜3ha以下の小面積皆伐方式がとられ、平成3年の2回の連続台風による倒木を教訓として、林種転換その他根本対策が考えられているようだ。
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宮分の鐘掛松跡
宮分鳥居原集落の北に、土地の人が「鐘掛松」と地名をさしていっている。 今は道筋も、川筋も直線化しているが、元は道路も川も大木の松を中央にして曲っていた。樹齢700年を越すとさえ言われた程で、根廻り6mはある老松。樹姿も美しかった。 敗戦後枯れたが、松食い虫の痕跡は無く、何人もの人が臼を造った。この松は、白鬚明神の神木と言われ、戦時中松根油を掘るときも、神木の名でこれだけは除外された。 この松が「鐘掛松」と呼ばれていたのは、戦国時代戦斗開始を知らせる鐘を吊るし、且つ士気を鼓舞していたという説話による。 また、戦に勝つときは枝が上に栄え、敗け戦の場合は枝が下へ下がると言われ、それだけに対応策を講じたと伝える。そういえば、日支事変から大東亜戦と言っていた頃は、地につく程に枝が下がっていたし、敗色強まった頃から樹勢が衰え、終に枯れてしまった。 徐福が千布に出ないで、ここを通りここで一休みし、山様を調べて登山道を決定し、天神山から水分け、ひどのへのコースを選んだとも伝えられるが、年代が違い過ぎる。
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上和泉の金立森
上和泉集落の東にタカタ山または金立森というのがあって、昔は老松が生い茂っていた。徐福一行はここに来て休んだが、松風の音で夜は眠られず、『波の音聞くまい山の仮り住まい 苦はのがれぬ松風の音』と詠んだという。泊った祠を「元金立社」といい、上和泉上古賀の人達は代々免田(祭田)を持って、年1回の祭りを続けていたという。