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[人物][人物][嘉瀬校区]は7件登録されています。
人物 人物 嘉瀬校区
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古賀清右衛門(緞通碑)
生年月日不明、元禄12年(1699)7月10日没 扇町出身、農家に生れたが志を立て韓国に渡り、中国伝来の「毛氈」の手法を学び、帰国して「扇町毛氈」を創作した。堅固で多様な色彩、紋様が人気を呼び、当時扇町一帯に10数軒の機織屋があって繁栄した。これが藩に認められ「鍋島緞通」として藩の御用商品となり、一般庶民間の売買は禁止されていた。 幕府への献上品ともなり藩の貴重な商品となっていた。明治維新で職を失った士族救済のための「士族授産」として技術指導が行われたという。顕彰碑(緞通碑)には「緞通由来記」が刻まれている。 墓は扇町の苗運寺に在る。
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松永安平
生年月日不明 明治16年(1883)12月8日 没 扇町に生れる。明治13年、扇町の苗運寺境内に栄昇小学校が設立された。その際、校地並びに校舎を寄付し、学校設立に大きく貢献された。その功績を称える頌徳碑は大正16年に苗運寺境内に建てられている。
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鵜川徳次郎
明治11年(1878)2月9日生れ、昭和20年(1945)6月21日没、69歳 学校敷地寄付。嘉瀬町嘉瀬津在住だった。 明治23年(1890)10月30日の小学校令改正で、嘉瀬村の小学校が統合され、学校が新築されたが、その時の敷地を寄付(今の青藍団地全域)。その後、昭和20年(1945)に、国道南に校舎が新築移転した。その折も校地並びに校舎建設資金を再び寄付した。また、学業と善行に俊れた生徒に「鵜川賞」があった。頌徳碑は嘉瀬小学校玄関の東の校庭に建っている。
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中原勇夫
歌人 佐賀大学名誉教授 明治40年4月1日生れ、昭和56年4月25日没 74歳 嘉瀬町天草江に生れる。著書 「今泉蟹守歌文集」「中世和歌集」他、歌集 「年輪の序」「常歌」「続常歌」他、ひのくに短歌会主宰、佐賀県短歌協会を結成し会長を務めた。 佐賀県文化賞、佐賀市政功労者表彰を受賞した。佐賀市高伝寺と伊万里市自然公園に歌碑がある。
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高柳儀八
海軍中将 明治24年(1891)4月17日生れ、昭和48年(1973)12月29日没 81歳 嘉瀬新町に生まれ、新町の分教場で学び、後に海軍兵学校入学・卒業。昭和16年(1941)戦艦大和の第2代艦長、終戦時は海軍兵学校副校長。 戦後は、郷里の嘉瀬村で教育長や公民館長初代長生会長(現老人会)を歴任。 館長時代に公営結婚を唱え429組が挙式。俺の一生は「艦館」だったとよく云われていた。達筆で公民館にも額をもらっている。生家は嘉瀬川の拡張で今はない。 墓は中原の臨滄庵から東京へ移転。
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一編舎十九 蒲原大蔵
天明3年(1783)生まれ、安政4年(1857)4月2日没 75歳 金立の大門で28年間創作、活動をし、作品は20作余りある。肥前史談会古書刊行部会で昭和3年12月10日発行。非常にユーモアに富み、面白く可笑しく飽くことがない。墓は中原の臨滄庵にある。
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内田清一
明治13年(1880)5月12日生れ、昭和14年(1939)4月5日没、野田出身で、明治37年より大正4年まで、旧制中学校の柔道教師を勤める。大正4年以降、製紙、印刷、水産、紡績など各種会社の社長となり会社経営に携わる。大正5年より佐賀市会議員当選4回、佐賀県会議員当選5回。政界でも活躍した。明治44年には私立佐賀実科女学校を佐賀市与賀町に創設、校主となり女子教育にも傾注した。私立実科女学校は幾らかの変遷を経て現在の佐賀清和学園に引き継がれている。胸像が清和学園の中庭に建っており、墓は赤松町龍泰寺に在る。