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[人物][人物][兵庫校区]は21件登録されています。
人物 人物 兵庫校区
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中野子徳太郎
明治5年、上分曲里に生まれた。同20年4月佐賀市有隣館に入学普通科を修了し、24年9月東京国民英学会に入学、25年9月早稲田東京専門学校に転じ、英語、政治科を学び28年卒業した。さらに欧文正鵠館に入学し英語を数年間研究して帰郷した。29年佐賀市西肥日報社に入社し大いに健筆を振るった。33年4月から西肥仏教中学英語教員の嘱託となった。 38年推されて県会議員に当選し、かたわら北方炭礦傭船ノルエー汽船ブリマ号の事務長として、日本及び清、韓の各港間を巡航した。42年3月県議に再選され、4月に副議長に推され、以後連続4期当選し、大正6年4月議長となった。この間一方村では明治43年、村長に選ばれ村政の功績も顕著で村民の信望も厚く、その高名はつとに県下に知られ、村民の期待も大きかったが、不幸にして大正11年12月、51歳で病没された。
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柴田徳一
明治4年8月堀立に生まれた。明治23年佐賀中学尋常科を経て、8月特別認可私立東京法学院へ入学、26年7月邦語法学科を卒業して39年会計検査院属に任官、40年官を辞して帰郷した。同年村長に推挙され、43年病気のため辞職した。 大正8年9月佐賀郡会議員に当選し、郡制廃止に至った。大正10年佐賀県会議員に当選し、14年3月再選、また昭和2年1月兵庫村長に推挙され、その後村長の職にあること実に20年に及んだ。終戦による追放令で村長を辞めたが、誠心誠意村の発展に努力された功績は多大である。
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中野子功
豪農中野子徳太郎の長男として明治38年9月11日伊賀屋に生まれた。資性豪邁で才能衆に秀で、佐賀中学を卒え早稲田大学に学び、昭和3年7月兵庫村役場に奉職した。父は前記の通り県会議長として県政に貢献したが、この親にしてこの子あり、その才幹はつとに村民の注目するところ、昭和8年には村警防団長に推され、同11年には兵庫村助役に抜擢された。時に年令33歳であった。政治的手腕と行動力はよく村民を誘導し、中央教化連合会より教化村に指定されたが、これは氏の功績によるといえよう。昭和13年3月県会議員に当選したが、病身の村長を助け村治の責任を一身に負い、また翼賛壮年団長、八田江水利組合議員、県参事会議員などの要職を兼ね、東奔西走寸暇もなかった。特に教育教化の面に、氏は本村の伝統を守りその実績をあげた。しかしその体力には限界があった。村会終了の後、俄かに健康を害し病床についたが、昭和20年5月13日忽然として他界された。父中野子徳太郎氏も51歳の若さで村長、県会議長の現職のまま逝去されたが、氏もまた議員在任中41歳でその才腕を惜しまれつつ他界された。
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小野哲一
明治28年1月、若宮で生まれた。大正9年東京帝大法学部政治科を卒業し、同年12月横浜正金銀行に入社し、同銀行の本店ならびにニューヨークなど海外の支店長、支配人として活躍し、頭取席、東亜部次長を最後に昭和21年8月、同銀行を退職された。 しばらく門司市の岡野パルプ株式会社の取締役を勤めたが、同年10月郷里に帰り、佐賀市長として連続2期8年にわたって町村合併の困難な市政を担当して、その大役を果し大佐賀発展への基礎をつくった。昭和42年2月、73歳を以て逝去されたが、生前の功績によって勲五等に叙せられ瑞宝章を授与された。
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秀島常次郎
明治33年2月10日若宮で生まれた。大正8年3月佐賀師範本科1部を卒業して、高木瀬小学校訓導任命以来各校訓導を歴任し、昭和7年兵庫小学校首席訓導となった。昭和17年小副川小学校長となり、以後県視学に補せられ、藤津、佐賀教育事務所長を経て、昭和25年3月兵庫中学校長となった。28年依願退職したが、教育功労者として県教育委員会より表彰された。 昭和30年以来兵庫町公民館運営委員長となり逝去されるまでその職にあった。30年4月佐賀市議会議員に当選し、2回8か年市政に参画された。郷土の教育関係の仕事はもちろんのこと、広く地方自治に参画され、博識多才円満な人柄はそのすべてを解決し、まとめられた。昭和48年、永年にわたり教育、学術文化の向上に多大の功績があったので、勲五等瑞宝章を授与された。病身を忘れ多年にわたる活躍のための過労か、授賞まもなく同年11月30日、73歳で永眠された。兵庫町民の哀別の情はまことに深く、その逝去を惜まない人はなかった。
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小柳勇
大正14年2月堀立に生まれ、昭和16年3月佐賀中学校を経て、4月海軍甲種飛行予科練習生として土浦海軍航空隊に入隊し、続いて海軍第28期飛行練習生となった。昭和18年卒業と同時に海南島、比島、上海などに渡って、太平洋戦争の最前線で航空隊員として活躍した。幸いにして復員したが、兵庫町青年団の再建に尽くし、県連合青年団の体育部長、総務などの要職に就き青年団の発展に貢献した。昭和26年上京して国会記者となり、参議院議員特別秘書を勤め、昭和34年帰郷した。県会議員選挙に当たり、全町挙げての推薦によって立候補を決意しみごとに当選した。34歳で当選以来毎回トップで当初より4期、土木、総務、産業の各部委員長を歴任して力量を発揮した。「誠実に生きること」をモットーに人々の手足となり、労苦を惜しまず、わけ隔てなく人に接した。 昭和49年病魔の犯かすところとなり、「なすべき約束を十分果たせなかったことが残念だ。」と人々にわび永遠の眠りにつかれた。 年齢いまだ49歳、惜みてもあまりある人材であった。葬儀は2月24日、兵庫小学校体育館で挙行された。26団体の合同葬となり、会葬者は式場にあふれ、運動場はもはや駐車の余地がなかった。
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宮崎林三郎
安政4年(1857)4月、瓦町上分に生まれた。父栄蔵は村治に功績を残したが、氏は専ら農業に従事した。教育はわずかに寺子屋で読み、書き、そろばんを学んだのみで、兵役を終えてから商業の道に進み相当の財産をなしたが、中途不運にも資産を一時に失った。その上、平素の眼疾が悪化し、遂に失明するに至った。「富をつくるのは永遠の計ではない。家運を挽回するためには堅実な仕事を残すことだ。」と悟り、盲目の身にもかかわらず、発明考案に一生を捧げようと決意した。氏は、わが国が天然の漁業国でありながら漁網製造のすべてが旧式であることに着目し、漁網製造を始めた。 しかし、成功するに至らなかったので発明の方針を手近かなものに変え、繩ない機の発明が農家の福利増進に最適と考えた。これが宮崎式繩ない機発明の発端である。 何ごとも一朝一夕で成るものではない。苦心さんたん、家計は衣食に困るまでに窮迫した。職工の賃金なども不払のままであった。滝弥一(鍛冶屋)、滝屋佐一(大工)は先年来、雇われて同機の製造を助けてきたが、盲目で赤貧洗う貧乏でありながら林三郎夫妻の燃ゆる情熱に感動し、無報酬で発明に協力していた。 8年の歳月、あらゆる苦労を乗り越えついに繩ない機は完成したが、皮肉にも世間はその価値を認めなかった。林三郎は人に売るよりも一家を挙げて繩ないを実行し、機械の真価を証明しようと考えた。やがて村民は機械の利便を認めながら、高価であるとの理由から購入するものがなかった。両職人も仕方なく涙をのんで暇をとった。 林三郎はついに絶望し、病床にしんぎんしたが、夫人はよく貧困と闘い、病床の夫を助け、子女を励まし女の道を全うした。氏もまた妻の姿に決然と起ち上り、家具はもちろん、櫛、かんざしまで金に代え、職工を探し廻り、再びその製造を始めた。 時あたかも日露戦争が勃発し、繩の需要はうなぎ上りとなり、機械による大量生産に追われたが、機械に不慣れのため製品の粗悪さが目立ったので、家人を技術訓練のため各地に遣わし、やっと世間の信用を得るところとなった。こうして宮崎式繩ない機の名声は、一時に高まった。 我々は郷土の先輩のこの苦心をかみ締め、単に発明の結果を賞するよりも、盲目の身を以て農家の福利増進を念じ発明に執念した気概と夫人の内助の功を手本とすべきである。
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原口甚七
明治43年4月、愛知県農会編集の『全国篤農家列伝』に、本県から兵庫村原口甚七、東川副村堤善太郎、西川副村山口覚太郎、芦刈村土橋徳三、岩松村古川亮雄の4名が挙げられ、その業績が記載されている。 原口甚七氏は弘化3年(1846)10月5日兵庫村瓦町に生まれた。代々庄屋を勤めたが、父は家を出て一家をたてた。氏はその長男である。18歳の時、父の家業を継いだが家産も豊でなく、学業を修める余裕もなかった。21歳の時父を失い、艱難辛苦家業に専念した。明治3年親兵に選抜されて東上し、4年後帰村した。再び農業に従事し、その改良増収を期して専心努力の結果、1反歩につき実に11俵2斗の類例のない収穫をあげ、人々を驚かせて氏の名は一躍近村に響いた。その後も農業を本位に養蚕の副業にも努力した。こうして明治43年に至ったが、各種の共進会や品評会で幾多の賞与や賞状を受けること数十回に達した。 佐賀県で害虫駆除を奨励した当初、農民は害虫の何であるかを知らず、「気候によって発生し、気候によって死滅する。」と考え、かえって氏の害虫駆除を妨害することもあった。人々のあざける心を気に留めず、害虫の駆除予防を黙々と実行した。氏は県から害虫駆除委員を嘱託され、県内に害虫駆除予防実行組合が設置された際には、同区が最初に選定され、その成績優良によって授賞、模範地区に指定された。組合長としての氏の業績は誠に顕著であった。氏は区民と申し合せて毎月各戸10銭以上の貯金を継続していたが、明治41年を期し、勤倹貯蓄組合を設立して勤倹力行の奨励普及に努めた。原口甚七氏は原口又二の祖父である。
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田口英山
明治7年5月本庄町高柳に生まれ、曹洞宗鎮西学校、東京高等中学、さらに東京神田国民英学会高等科で英語研究2か年、明治32年1月、曹洞宗管長から特任で長興寺住職となった。布教のかたわら、多くの公共事業に関係したが、主な事績を列記する。 一、明治35年3月から佐賀孤児院事業に従事した。 一、明治41年1月、居村に青年会を創立し会長を勤むること26年。 一、大正5年から県下の処女会、婦人会を巡回して生活改善、精進料理の指導にあたること100回以上、大正11年曹洞宗管長から生活改善布教師の任命を受けた。 一、大正10年知事より、佐賀県社会事業協会の顧問に推薦され、昭和2年11月にはその理事に就任。 一、その外、地区の少年少女を集めて毎週土曜会を開き、夏休みには寺内で夏季学校を継続すること15年、また県知事の嘱託により日本赤十字社及び愛国婦人会事務に従事すること9年、賞与を受けた。なお全国処女会指導講習会、全国教化団体講習会、全国児童保護事業大会に佐賀県代表として派遣された。 一、表彰 大正13年3月31日、佐賀郡長から社会教育功労者として表彰状、置時計1個授与、大正15年10月、特別大演習に際し、本県功労者として、平素の功労に対し摂政宮殿下より紋菓子を賜った。 昭和5年2月11日、佐賀県知事より、佐賀育児院事業の功績顕著を賞され、賞状ならびに純銀盃一組(三段)を授与された。 昭和24年8月15日、75歳で示寂。
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村岡清三郎
明治14年2月、堀立に生まれた。同34年佐賀中学校を卒業して37年小学校本科正教員の免許状を得て日新小学校、西郷小学校の訓導を勤めた。大正元年10月、私立成美高女の教員嘱託となり、大正4年中等学校教員免許状をとり、大正9年成美高女の教諭となった。 退職後兵庫村史編さんの際総合執筆を懇望され、編さん会長柴田徳一、世話係宮崎八郎と協力し、資料の整理分類執筆に長期に渡って努力した。また教育家としてその功を認められ、高等官五等待遇従六位に叙せられた。
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古賀廉造
法学博士古賀廉造は佐賀市高木町に生まれたが、少年のころから中野吉の叔父、松永源十郎宅で成長した。後上京して刻苦勉励、法学を修め内務省に任官した。原敬(元首相)と肝胆相照らす仲となり、累進して警備局長、関東都督府長官(関東庁長官の前身)として敏腕を振るった。 当時佐賀県出身の中村純九郎(北海道長官、貴族院議員)水町袈裟六(会計検査院長)西久保弘道(東京市長)と親しく将来の大物と嘱望されたが、個性が強く、政界の人々としばしば意見が対立し、潔く職を辞して、自然を友とし、東京池尻に居を定められたが、まもなく逝去された。佐賀市南堀端にある故副島種臣伯の記念碑は古賀博士の書である。
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下村運之助
下渕、下村竹一家の家紋は唐松の芯である。下村生運の第3子、下村利充に始まるこの家紋から、下村利充家の末裔と考えられるが、分家の年代など不明である。下村竹一の祖父である運之助は宮本武蔵の二刀流の流派を伝え、その免許皆伝を得ている。この免許皆伝の巻物は竹一氏が所蔵している。だいたい一国一名に代々伝えられているので、運之助以後は、この二刀流の免許皆伝を得た者はいない。 ついでに本町出身の武道家をあげよう。 剣道:本告寅吉(稗蒔)蓮池藩師範、本村健吉(立野)台湾警察四段錬士、松永万太郎(傍示野)六段 柔道:宮崎八郎(若宮)六段(昭和13年当時、県有段者会長)、大島治喜太師範 明治20年、伊賀屋に生まれた。佐賀中学を経て京都武専を卒業し、明治43年警視庁に奉職した。その後剣道に精進し、当時この道の第一人者で、大御所であった中山博道範士に次ぐ実力者と称され、居合九段、範士として警視庁の師範となった。昭和20年逝去された。
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岸川健一
明治21年3月29日、岸川辰一の長男として東渕で生まれた。兵庫小学校、佐賀中学校を経て、明治44年5月陸軍士官学校を卒業し歩兵少尉に任官。昭和3年8月少佐となり、昭和12年大佐に昇進した。同13年7月麻布連隊区司令官となり、同15年3月、第6守備隊長として満州虎林に赴任、同16年3月少将となり第29旅団長に栄進した。その後独立混成第17旅団長に転じ、同20年3月中将に昇進し第63師団長となり、6月興安南省通遼に着任した。終戦後はシベリア吟府特別第45収容所に抑留され、29年6月10日、奉天省撫順で戦病死された。 遺骨は昭和30年に内地に送還されたが、生前の勲功により正四位勲一等旭日大綬章を贈られた。
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松本弘二
兵庫町出身の洋画家で、二科会の重鎮であった。明治28年9月東渕に生まれ、昭和48年6月、78歳で逝去された。佐賀中学を中退し、東京鍋島邸内で画塾を開いていた県出身の高木背水に洋画を学び、その後黒田清輝画伯に師事し、34歳の時に渡欧、パリの美術学校に入学したが、山口亮一などの東京美術学校出身の官学系画家とは別の道を歩いた。 26歳で初入選、終始二科会を中心に活躍、総理大臣賞、青児賞などを得たが特に海外での評価が高く、個性的な新鮮さがあり、画壇の異色的存在であった。
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小林鍵次郎
氏は中野吉で、真島貞二郎の二男に生まれ、9歳の時父親に死別した。7人の幼児を抱えた母の悲壮な姿が忘れられないという。進学をあきらめた氏は、高等小学校卒業後農業を手伝ったが、通信教育を受けて勉学を怠らなかった。大正7年、福岡の簿記学校に学び、40人中5人の採用試験に合格して当時の福岡銀行に入社した。 大正10年、日本の大不況に不安を感じた氏は、どんな辛苦をなめても学識を広め、事業を起し身を立てようと決意した。氏は銀行をやめて上京し、東京神田紺屋町の境野香料店に就職した。会計係を勤めながら、日本大学商科夜間部に入学、大正14年3月卒業し、同年4月日本橋四丁目薬品商小林鍵次郎の養子となった。 昭和14年、香料商を独立開業し、薬品商を廃業した。開業当初は天然香料の産地調査、成分、調合香料の研究に没頭し、販路の拡張など人知れぬ苦心と努力をかさねた。 昭和25年、養父の遺志を継いで2代目小林鍵次郎を襲名した。昭和48年、日本橋本町に8階建のビルを改築して本社を置き、別に株式会社小林香料化学研究所、小林不動産株式会社を設立経営している。氏もまた郷土が産んだ立志伝中の一人である。 昭和9年5月、東京香料商組合理事に就任以来同会の理事、相談役を勤め、その他各種団体、地域公共の役員に推挙され、功労者として幾多の褒賞を受けたが、昭和45年に勲五等双光旭日章を授与された。 氏の長男は東京大学を卒業後、フランスソルボンヌ大学に2年留学後現在東京大学の教授である。他の2子もそれぞれ立教大学経済学部、学習院大学経済学部を卒業し同社の専務、取締役として活躍されている。 氏は郷土を思う情に厚く、小、中学には二宮金次郎の銅像、グランドピアノ、放送機具、体育館の引幕などを寄贈され、またプール建設や図書館移転拡充の時にも多額の寄付をされている。兵庫農協が資金に窮した際に相当の資金を融通してその再建に貢献された。中野吉の地区公民館の完成は主として小林氏の寄付によるもので、地区住民は深くこれを感謝し、公民館の敷地に氏の表彰碑を建立した。
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真崎義男
氏は明治42年9月27日、若宮で生まれた。父は与一、母はシマの末子である。父は氏の生後10月の時に死亡し、母は12歳の長男以下5人の子どもを抱え苦労を重ねた。幸に母の生家は隣村で伯父は村長を勤める名家で、祖父母の愛撫と援助によって成長することができた。 7歳のころ、ふとしたことで足が痛みだし、医者からリューマチと診断され、以後2年近く尽せるだけの治療と看護を受けたが、下肢の強直は回復せず、遂に竹の杖にすがって歩く身となった。学問の好きな氏は学校近くに行っては子ども達の勉強ぶりをそっと見ていた。氏は当時窓辺で聞いた「夏も近づく八十八夜……」の茶摘みの歌が忘れられないという。 やっと復学することとなり、学校側では留級の可否が論議されたが、1年生当時の担任であった吉岡先生の主張が通り3年生に編入された。勉強は好きであったが体操は出来ないので、体操の時間はいつも教室で1人こつこつと自習していた。氏は勉強が出来たせいか、人にいじめられることもなく順調に成長した。6年に進級し、親類や村人までが仕立職人がよい、針うちさんがよいと勧めたが、船津先生が「こんな頭のよい子を進学させないのは惜しい」と、兄弟達を説得し受験することとなり、見事に佐賀中学へ入学することができた。 氏が中学5年になると、校長は裁判官に、国語の教師は脚本家志望にと勧めたが、家族の者の意見で歯科医がよかろうと昭和3年4月、大阪歯科医学専門学校に入学した。当時の経済不況は「大学はでたけれど」という映画のように、東大卒業のいなか廻りの警察官がいた程である。「白米1俵、4斗入りで農家の売価が5円」下宿料は1か月20円から28円程度で、遊学するのも並大抵ではなかった。転々と下宿を探しては代り、家庭教師や歯科医師の手伝いなどをして学費を稼いだ。やっと学校を卒業して、昭和8年1月、正式に真崎歯科医院を開業し食うだけは困らなくなった。しかし、昼間は京都府立医科大学の選科研究生第1号として、なお歯科研究に打ち込んだ。夜間は自宅で開業医として働き、よくも体が続いたものだ。 そのころ、真崎歯科によく遊びにきていた陸軍少佐、間野氏の勧めで香川県人、篠原正一の長女、とし子さんと結婚した。氏は26歳、妻は22歳であった。まもなく2児の父親となった。日支事変は泥沼に入り、研究を止めて伏見とさらに河原町四条の両方で開業した。
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西中野の郷士、中野庄四郎
天正2年(1574)、龍造寺隆信の跡継ぎ政家御一家並びに御家中、幕下知行付によると、 一、102町 中野庄四郎 佐嘉郡古瀬中野郷士とある。 佐賀には中野姓が両統あって、この中野庄四郎は、古瀬郷中野村の城主中野杢助一統の祖である。他の一統は中野神右衛門といい、武雄のわかれで西目の中野(武雄市朝日町字中野)の城主である。 中野庄四郎の子孫に良純という人があるが、鍋島勝茂の寵愛が厚く6組頭から御年寄役に進み、明暦3年(1657)、勝茂が江戸で逝去の時、哀悼のあまり当日麻布の大泉寺で殉死した。時に45歳であった。
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鍋島生三入道と監物
鍋島生三入道は鍋島加賀守直茂の一門で、天文22年(1553)に生まれ、幼時から賢く他に優れていた。性は剛直、忠誠で非常に孝心深く、また仏教に帰依して入道となり、生三斎と号した。 元亀3年(1572)龍造寺隆信は姉川城主信安を目達原に移し、その後に鍋島清久の嫡男清正の子、周防守賢純の三男道泉(生三斎)を城主とし、信安の所領を継がせようとした。 やがて鍋島直茂が後事を託するに足る人材を求めた時、下村生運も「高楊庵住持道泉は御家と御縁の方であり、希代の器量人であるから、還俗を仰せつけられるようお頼みなされては。」と申し上げた。直茂は早速生運を使者として通うこと数十度、ようやく道泉の承諾を得た。それでも髪だけはといって、入道姿のままで押し通した。 下村生運入道、藤島生益入道、鍋島生三入道は、鍋島に三入道ありで有名であったが、この三入道の二人までが、兵庫の住人であったことは、当町区の誇りであろう。 生三入道は堀立の光円寺の開基で、享年77歳であった。監物は生三入道の子である。その知行所は堀立および他の2か村にわたって、288石であった。光円寺住職生三(しょうさん)家はその子孫である。堀立分外野地区の東方、土手に沿うて濠に三方囲まれた約4反歩(3969平方メートル)の一角屋敷があるが、これを生三屋敷という。今は多くの人々に分割されているが、数十年前はここの茶摘みは初夏を迎える農家にとって楽しい行事の一つであった。
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神代左京と真崎村
老松神社の一の鳥居に彫られた銘の終りに、「延宝七歳春日、鎮西肥前州佐嘉郡巨勢荘真崎村、大檀主神代左京太夫物部氏直良」とある。元来神代氏の知行は久保泉村から西郷、境野にかけてあったが、巨勢荘真崎村とあるから真崎村にも知行があったと思われる。 真崎村は現在の若宮と推察される。若宮には神代方の豪勇、西村惣衛門がいたが、神代方勇士の末孫の方々が居住されていたことからも考えられる。某記録に残る真崎屋敷は今の若宮六丁野、宮の前松永宅の西側にある一角の田(公門氏所有)と言い伝えられる。
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成富兵庫とその恩恵1
成富兵庫茂安は、永禄3年(1560)佐賀郡鍋島村増田で生まれた。父は成富信種といい、隆信に仕えた勇将である。兵庫は幼名を新九郎信安、後に茂安と改めたが、信は隆信の信、茂は直茂の茂を賜わって改めたものである。「鍋島家に成富あり」と他藩にせん望された。加藤清正は1万石をもって任官を勧めたが、「譜代の主家を捨てられぬ」とこれを断った。 直茂が今山の敵陣を襲った時、茂安は父信種に出陣を願った。父は固くこれを止めたが聞かず今山に行き戦場を見て帰った。茂安11歳の時である。直茂はこれを賞して左右の臣として重く用いた。以後国内を始め筑前、筑後、肥後、薩摩などの戦いに従軍すること数十年、至る所敵なしで幾多の戦功を立てた。朝鮮の役では鍋島茂里とともに、藩の先鋒となった。吉州の戦いでは、その一隊で敵の大軍を斬りまくり、唐島の戦いでは敵船数隻を捕獲している。また上国に使者となり、あるいは諸侯に往来し、その応待は見事であった。 とくに彼の治績は、土木水利にかつ目されるものがある。市の江川の末流を引いて、巨勢の荒野に流入し、兵庫の沃野を開拓したことは、郷土史の上で忘れることはできない。また永島川を改修し、三法潟郷に新田を開墾し、三根の諸村に樹木を植えて佐賀城を隠し、遠くから見えないようにした。佐賀城を別名沈み城というのはこうした意味だともいう。 成富兵庫の水利土木工事のうち、最大なものは石井樋の天狗鼻、象の鼻の施工である。この結果、灌漑と飲料水は確保され、支流末流に至るまで水量豊かに、広く幾万の人々の生活を潤した。また千歳川の築堤は、北は千栗村から南は坂口村に及んだ。その長さは12km余、外堤には竹を密植し、水漏れを防ぎ、本堤には多数の松を植えて堤防を固めた。この堤防が完成してから佐賀の東方地帯は、例年の水害から免れることができた。
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成富兵庫とその恩恵2
成富兵庫の生涯をみれば、その前半は幾多の戦いに大功を立て、後半は治水事業に卓越した頭脳と妙技を発揮し、民衆の利益を図った。戦乱の際には兵馬を走らせ、国が治まれば開発事業に全力を打ち込み、文字通り寸暇もなかった。兵庫が救民済世の傑士と敬慕されるのも当然のことであるが、我々は歴史を知ると共に、過去の偉人の遺産に報恩の念を忘れてはならない。 明治44年11月15日、明治天皇が肥筑の野に行幸の折、その功を賞せられて従四位を追贈された。 成富兵庫茂安の名を町名としたこのゆかりの地に、みたまを合祀し300年の式年祭典が各地で行われた。(昭和9年) 兵庫の川西部の渕地方は、鍋島山城守の所領であったが、もともと茂安の知行3.200石の中から分地して山城守がもらったものである。