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[人物][人物][本庄校区]は8件登録されています。
人物 人物 本庄校区
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梅林庵藩祖・鍋島直茂が修学と初陣
直茂は、天文7年(1538)本庄の館で鍋島清房の二男で生まれ、幼名を彦法師と称した。 天文10年(1541)4歳の時、小城の千葉胤連の養子となり10年を過ごす。同20年、14歳で養家を辞し佐賀へ帰り、梅林庵で2年余り手習、学問を修得した。天文22年、諸将の謀略で一時筑後に逃れていた龍造寺隆信が佐賀に帰り、諸将を退却させ村中城に入った。これに際し、直茂は龍造寺軍で参戦した。16歳の時で梅林庵から出陣した。これが直茂の初陣となった。
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龍造寺隆信の母親と慶誾尼
慶誾寺は、戦国大名龍造寺隆信の母慶誾尼が開基の寺です。慶長3年(1598)、慶誾尼の願いで東与賀の流長院をこの地に移しました。慶誾尼が、2年後の慶長5年に亡くなると、法名を慶誾妙意大姉とし、ここに葬りました。同時に寺名が般若山慶誾寺となりました。 慶誾尼は、戦国時代九州三大勢力(肥前・龍造寺、薩摩・島津、豊後・大友)に数えられ、肥前、筑前、筑後、肥後、豊前の一部と壱岐、対馬まで傘下にし、五国二島の太守とうたわれた龍造寺隆信の母であります。また、藩祖鍋島直茂の父清房に再婚し、直茂の義母でもあります。豊臣秀吉にも通じ、子隆信や直茂への指南役、相談相手として、戦国時代の女の実力者でした。生前墓である逆修墓は、高傳寺にありますが埋葬されている墓は慶誾寺にあります。墓所の中程に龍造寺隆信の弟で多久家の祖長信と2代多久安順から6代茂明までの墓塔が並んでいます。鍋島藩政では、親類同格の格付けで、領地を治めていました。
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鍋島直正夫人盛姫
盛姫は11代将軍家斉の最も愛する姫で15歳のとき、12歳の花婿直正に文政8年(1825)12月27日輿入をなす。直正は天保元年(1830)17歳になり家督を相続し、10代藩主となった。当時の藩の財政は度々の風水火災にて窮迫していたので藩政改革を決意した。 天保6年(1835)困窮の佐賀藩に追い打ちをかけるように佐賀城二の丸が焼失した。この時盛姫の斡旋によって幕府から築城費を2万両貸与された。これが基となって天保9年(1838)に新城は完成した。直正が右近衛少将に昇任したのも盛姫の働きによるものであった。 また盛姫は進んで藩の改革節減に協力し費用を節約した。当時の騒然たる社会情勢の中にあって、英明な直正は西洋知識を導入し、長崎警固に励み、維新の人材を生み、数々の業績を残した。盛姫は夫君を助け貢献したが、37歳の若さで、弘化4年(1847)に逝去した。高傳寺墓地内に「文粛夫人」と標された墓がある。
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朝倉弾蔵尚武
明治7年(1874)4月13日早朝佐賀城内の刑場の露と消えた朝倉尚武は、通称を弾蔵という。天保13年(1842)佐賀藩士の家(東寺小路、久納屋敷の南)に生まれ、弘道館に学んだ。特に兵学に優れていたという。 維新戦争では、佐賀藩隊の軍監付きや小隊長として奥羽に転戦凱旋後、東京遊学を命ぜられて昌平黌に入り、明治4年(1871)に帰郷した。 この年、佐賀藩の兵制改革で二個大隊が編制され、一番大隊長に任命された。 廃藩置県の際には、政府の命令で、一大隊を率いて上京。陸軍少佐として東京鎮台に入った。間もなく帰郷して養蚕を始めた。明治6年(1873)に佐賀県権大属となったが、8月辞職して上京。10月征韓論が決裂して副島、江藤の辞職に遭い、江藤と協議の上、11月佐賀に帰った。 そして、同志の中島鼎蔵、山田平蔵、生田源八、櫛山叙臣らと協議して征韓党を組織し、朝倉、中島、山田と隊伍の編制を担当した。 佐賀戦争では、征討軍に対する陽動作戦として三瀬峠に陣し、福岡県早良郡内にも出没した。六角耕雲、勝谷親康、今泉千枝らが幹部として戦ったが、戦い利あらず、朝倉は後事を六角耕雲に託し鹿児島へ走った。3月10日市来駅で官憲に自首、佐賀に護送されて斬罪となった。34歳。 三瀬峠(佐賀市三瀬村大字三瀬字境峠、福岡市早良区大字曲渕との境界の峠)における朝倉勢はわずか10挺の小銃しか持たなかったが、征討軍と福岡県貫属隊を大いに悩ませた。これを見た征討軍の山田顕義少将が「ここの佐賀兵を指揮しているのは、多分、朝倉弾蔵に違いない」と言ったという。 明治16年(1883)ごろ、司法卿時代の山田顕義が佐賀を訪れた際に、乾亨院(佐賀市中の館町)にある朝倉弾蔵の墓に参った後、山中一郎の墓参もして両家に香典を届けたという。山田は朝倉とは陸軍少佐時代の旧友であり、山中には、山田が外遊したとき世話になったからということらしい。 また東京で朝倉が江藤に会った時、江藤が「もし佐賀で挙兵したら何人ぐらい集まるか」と問うと、朝倉は「二個大隊ぐらい集まる」と答えた。後で朝倉は「実力では二個大隊どころか、二個小隊もない」と語ったという。 朝倉は豪快な武人であった。友人の徳久恒範が朝倉に「鹿児島の桐野利秋に会ったらどうか」と勧めたところ、朝倉は「桐野は単なる人殺し男である」と答えながら、続いて「それでも桐野が自分と事をともにするというなら自分は辞せない」と桐野を褒めた。そこで徳久が桐野をなじると、朝倉は「もし桐野と自分が同数の兵力を持って戦ったら、自分が桐野の首を頂戴できる。」と言って大笑いしたそうである。 幹部12名と共に賊徒の汚名を受け処刑されたが、その後明治22年(1889)2月11日に大赦令により青天白日の身となる。 墓は中の館の乾亨院にある。(乾亨院は水ヶ江城の本館のあった所で、永正年間(1504〜1521)に龍造寺家兼が建立したと言われ、水ヶ江龍造寺家の一門、特に諫早家の祖を祀る。四徳山と号し、臨済宗南禅寺派。本尊は聖観世音菩薩、明治7年の佐賀戦争で戦死した熊本鎮台兵の合葬碑がある。)
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百武志摩守と圓久尼
九州五国二島(肥前、肥後、筑前、筑後、豊前、壱岐、対馬)の太守龍造寺隆信公の重臣百武志摩守夫人は俗名を藤子(斐子)と呼び、後、仏門に入り剃髪して圓久尼と称した。 女子はかねて大刀無双の誉高く武道の達人であったばかりでなく、博く和漢の学に通じ、婦人としての修養研鑽に努め、その人格は当時衆人の敬慕する所であった。百武家に嫁して以来、志摩守出陣の場合は、その身もかいがいしく武装を整えて後に続き、槍の柄に兵糧、草鞋等を着けて、家人に持参させていた。戦国争乱の時代とは言え、婦人としての心掛誠に感心の外はない。 天正12年(1584)3月、龍造寺隆信公は大軍を挙げて島原に出陣されたので、当時筑後、蒲船津の城を預っていた志摩守も留守を夫人藤子に委せてこれに従って行った。 ところが不幸にも3月24日隆信公戦死の悲報が伝わったので、藤子の方は夫志摩守の戦死も疑いないものと思い、居城を出て郷里八田に帰り、直ちに百武家の菩提寺である与賀町の浄土寺に入り、惜し気もなく剃髪しその名も圓久尼と改めた。やがて夫志摩守戦死の悲報が伝わった。勿論かねて覚悟の事ではあったが今更のように悲しみ、念仏に日を過しながら専ら夫の冥福を祈ったのであった。 圓久尼は、その後鍋島直茂公の懇望によって止むなく再び郷を離れて蒲船津城に入り、島原陣に生き残った家人を集め、僅かの兵力をもってこれを守ることになった。女子の身として先には一城の留守居を務め、今また引続き守城の任に当るとは、その剛毅武勇の程敢て男子に劣る所が無かった証拠ともいうべく、隆信、直茂両太守の信頼の程もまた知るべきである。 隆信公戦死の後、筑前立花の城主戸次道雪、岩屋の城主高橋紹運はこの機に乗じ、大友氏の兵を加えて天正12年(1584)9月15日龍造寺に反旗を翻した。そして龍造寺の諸城を攻略するため、まず筑後の西牟田、酒見、榎津等の民家に火を放ち続いて蒲船津の城に攻め寄せたのである。圓久尼はかねて覚悟の事とてちっとも騒がず、自ら武装を整え大長刀を小脇にかいこみ、城戸口に出で必死となって防戦したので、寄せ手も大いに驚き容易に近づく事が出来なかった。そのうちに、榎津から馳せつけた中野神右衛門清明の援助を得て幸に危急を脱することが出来た。 かくて勝利を得た圓久尼は思い出深い蒲船津の城を出て八田の旧宅に帰った。その後「尼の身として城番は不似合である」と直茂公に申し上げたので、直茂公も深く考えられてその願いを聞き届けられた。 その後、郷里にあって靜かに念仏しつつ亡夫の冥福を祈り続けて、元和元年(1615)8月16日波瀾多き一生を終ったのであった。法名を圓久妙月大姉という。 市内多布施三丁目天祐寺に、安らかに眠る御墓の前にぬかづく時、戦雲の巷に咲いた一輪の大和撫子散って星霜ここに400年、日本婦徳の亀鑑としてりりしい女子の生涯が、髣髴として我等の心に甦り、言い知れぬ感に打たれるのである。
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石井如自
石井如自の墓が常照院にある。本名は又右衛門忠俊といい、別名を嘲鴎子ともいった。元禄14年(1701)12月24日没す。法名を養法院安節日時居士行年67歳。 石井如自は佐賀藩の名門家である石井久左衛門(正純)の二男である。父は如自が6歳の時死し、祖父茂忠(九郎右衛門)に育てられた。20歳の頃にはすでに歌道や俳諧を深く研究していたらしく、鍋島光茂時代の御歌書役であった。 明暦2年(1656)安原貞室が師匠松永定徳没後、師の遺撰集を補訂して『玉海集』を上梓したが、貞室が補った部に如自の句を入れてあるほどだから、当時佐賀藩の如自の句がいかに高く評価されていたかがわかる。当時の俳諧は主として、滑稽、洒落を題材としたものが多く、言葉の組合せなどに苦心していた。 如自はこれらの内容に満足することが出来ず、心の俳諧を作りたいと松江重頼を仲介して、談林風へ近付いていった。この重頼は貞徳の高弟であって、かつて『毛吹草』という大著書を出した事もあるが、この貞門の作風にあきたらず、一派を立てた人である。 重頼は別号を惟舟ともいっていたが、長崎への旅行の途次、佐賀に立ち寄った事もある。寛文12年(1672)刊の重頼の『時世粧』には如自の撰句をその集の巻頭に載せている。 大日本人名辞書には、談林派伝系の西山宗因の下に井原西鶴等と並んで石井如自の名が連ねられている。 「如自の句」 盗人と いはまに手出す わらびかな 月夜よしと 巻は夜よし 簾かな 雪の中に 夏は来にけり 卯木垣 月見るや 額のなみの 末の松 花ちらす 童部は風の 子どもかな 試筆にも 齢はゆずれず すずり石 朝日影 にほへる山や 早松茸 懐や 道のゆくての 冬こもり 石井如自は『葉隠』で「大器量の者にて候」と評されるほどの人物で、佐賀近世文壇の先駆的作家である。また光茂は歴代、佐賀藩主のなかで最もよく和歌を嗜んだ。蛎久天満宮に連歌を奉納し、以来佐賀の例となった。
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日軌上人と華道
佐賀の去風流の生花は上飯盛の常照院第17世日軌上人が、まだ嘉瀬町妙福寺にいたころ、京都にて去風流家元第2世、蘭皐舎子來師について奥義を極め、家元の第3世を受け継いで帰佐し、去風の生花を佐賀に広めた。 この日軌上人が去風流家元第3世、花兮庵寒崖(カケイアンカンガイ)で、佐賀における去風流の祖である。 寒崖は佐賀に帰ってから、各所で花会など開いて大いに流布に努めたが、その花風は上下の称賛を得て、8代藩主治茂の傾倒するところとなる。従って、去風流は、たちまちお国流となって明治時代まで伝承されたのである。
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中野實翁
上飯盛集落南東部の一角に中野實翁生誕記念碑がある。翁は安政元年(1854)この地に生まれた。九州電燈鉄道始め多くの企業の経営に参画し、取締役や社長を務めた実業家である。一方では子弟教育や社会福祉事業にも大きく貢献された。大正11年(1922)の本庄尋常高等小学校の新校舎建築に際し、その費用5萬円を当時寄附されている。大正13年(1924)には、衆議院議員になった。 また、翁を称える中野實翁頌徳碑が本庄小学校校庭に建てられていた。