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[人物][人物][鍋島校区]は23件登録されています。
人物 人物 鍋島校区
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成富兵庫茂安
佐賀市には兵庫町という町があり、三養基郡には北茂安町がある。また三根町の半分は、もと南茂安村と呼ばれていた。これらはすべて戦国の武将龍造寺隆信の家臣で、その死後鍋島直茂、勝茂に仕えた成富兵庫茂安の名にちなんだものである。また、北茂安町には、北茂安音頭が生まれた。佐賀大学名誉教授内山良男氏作詞、唐津松浦文化連盟委員松下又彦氏作曲のもので、その新民謡には茂安の徳をしのんだ一節がある。 ハア 成富公のナイナイ ご遺徳偲びチョイト 土手のあたりで鳥が舞う サテピーチクパーチク賑やかに このように死後300年たつ今もなお、兵庫は治水の神として、あちこちで年に1度は「兵庫さん祭」といって、近くの農民が集まり、彼の遺徳を偲んでいる。成富兵庫茂安こそは、鍋島が生んだ第一級の偉人である。 成富兵庫茂安は、成富甲斐守信種の二男として、永禄3年(1560)鍋島町増田で生まれた。増田地区東北隅嘉瀬川堤防には、昭和42年2月同町公民館有志の発起で、「成富兵庫茂安公誕生の地」の碑がたてられている。 その記念碑の題字は池田知事の筆で、裏には宮田佐賀市長の撰文になる功績を称える碑文が刻まれている。除幕式には、増田子どもクラブのよい子たちが歌う「成富兵庫の歌」が早春の嘉瀬川堤防にはずんだ。 茂安は資性豪勇、智慮深く、17才の初陣に、偉功をたてたのを初めとし、寛永11年(1634)9月病没するまで75年間、前半は今山戦は勿論、朝鮮の役はじめ、大小幾多の戦闘に参加し、武勲を顕はした武将として知られている。 また築城、治水、土木工事の達人で、荒蕪地を開墾し、干拓工事を起したり、新田を作ったり、或は植林をなすなど幾多の事業を行って藩の財政を豊かにした。 即ち中年頃は江戸、京都、駿府などで築城技術の名手として招かれ、次の様に佐賀以外の各地で名をあげた。 慶長6年二条城普請 慶長8年江戸市街修理、運漕水路開発 慶長11年江戸城修築 慶長13年駿府城築造 慶長14年名古屋築城 このように茂安は、豊臣直系の加藤清正と共に、各方面の工事に参画し、手腕をふるい、しばしば当意即妙の技を演じ、数々の逸話を遺している。それは「成富家譜」にくわしい。 こうして兵庫は「鍋島家に成富兵庫あり」と名がとどろいた。一方武士としての心ばえもいさざよく、加藤清正から1万石で招かれたとき、鍋島武士のならい「たとえ肥後一国を賜わるとも応じがたく侯」と謝絶したことは有名である。
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高木秀臣
天保4年(1833)江里に生る。明治3年伊万里県大属となり、6年文部省出仕、7年司法省に入り、累進して20年東京控訴院検事長に補せられたが、大正5年83才の高令にて逝去。若い頃脱藩上洛の罪によって、小城大野山金福寺に蟄居中の江藤新平の世話をして、佐賀城外丸目に移転の便宜をはかったこともある。時に元治元年江藤32才。高木33才であった。長男甚平はベルリン大学卒業後東京高商教授、次いで日本銀行に転じ、次男祐吉は東京大学工科卒業後実業界に入り、孫高木八尺は法博東大教授であった。
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小林芳郎
安政4年(1857)佐賀藩士南里与助四男として出生、即日岸川小林文蔵の養子となる。司法官を志し明治16年判事補に任じ、累進して大正2年大阪控訴院検事長に補せられた。その間取扱った事件としては、大正2年米騒動、京都府疑獄事件(豚箱事件)朝日新聞主筆鳥居素川筆禍事件などがある。大正11年80才の高令にて逝去す。
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本村善太郎
木角出身。京都大学法科卒業後東京大学大学院にて刑法専攻中、時の大蔵大臣武富時敏に認められ、秘書官として20余年間その側近に終始し、大正6年弁護士に登録し次第に敏腕を認められ、国鉄事件、二・二六事件(久原房之助、眞崎大将関係分)、九州電力背任事件、神兵隊事件など天下の大事件を担当した。これは彼の信望と実力を如実に物語るものと言えよう。こうして昭和27年認証官たる最高裁判所判事に就任したことは郷土の誇りであり、退官後も法曹界の重鎮として活躍した。彼の郷土愛と母校愛とは人も知る通りで、常に郷土の振興発展を念願とし、後輩の指導啓発に努力しつつあり、町民の信望と敬慕を集めた。28年大水害には、直ちに被害状況と死傷者の有無問合せの電報と、多額の見舞金を送った。また母校鍋島小学校には勧学旗(2回)を寄贈し、昭和30年には新時代の子どもたちの心の糧として校歌を贈った。鍋小のよい子たちはいつも恩情あふれる校歌を口ずさみながら、大水害にも大火災にも屈せず頑張りつづけている。
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堤長定
植木出身。嘉永6年(1853)生れで明治7年佐賀戦争には血気21才で少年隊に属し、3月23日寒水川、田手川の戦にて勇戦した記録がある。彼は資性剛直、清廉潔白で教育事業に特に熱心であった。当時鍋島町内には小学校が数カ所に別れ非常に不便であったので、一町一校の学校建設のため、東奔西走して町民の同意を得て、遂に明治16年養正小学校が創設された。彼は教員として或は学務委員として本町教育に貢献すること30有余年不滅の功績を留め大正13年72才にして長逝した。七賢人の島義勇の甥にあたる。
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吉田熊一郎
東新庄出身。教育界に長く職を奉じ、精励格勤県知事表彰を受け、佐賀郡三反田小学校長を最後に現職を退き上京、金融界に活躍すること10余年にて帰郷し、以来学務委員、学校後援会長に選ばれ村教育発展に尽瘁した。彼の住宅は由緒ある佐賀藩鷹屋敷であり、その壮大な庭園には今尚その名残が偲ばれる。
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千住九三郎
増田出身。明治2年生。22年鍋島小学校教員に任命され、以来その職にあること30余年にて多大の功労を残し大正8年12月退職に際しては、全村その謝恩会を開き、金盃1組を贈呈した。
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古川栄
本村出身。明治28年佐賀師範を卒業し、直ちに青藍高等小学校教員に就任し、翌年異数の抜擢にて新田小学校長に任命され、その後教職にあること15年、鍋島小学校長に任命されてから最後の御奉公として鋭意奮闘内容改善、校風振興に努力し、その功績顕著なりとして知事表彰を受けた。退職後村会議員2期務めた。明治43年古川校長以下小学校全教員協力編纂した「郷土案内歌」は昔の鍋島風景を如実に語っている。
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石丸久光
元陸軍工兵中佐。蛎久出身。明治45年陸士卒。大正3年青島戦に戦功抜群にて、近衛隊附となり昭和7年予備役となり帰郷し、青年学校指導員となり郷土青年の指導訓練に精進し、昭和12年村助役に推され、村政に参画し村民の信望をあつめた。終戦後村教育委員長として教育振興に全力を傾注した。昭和28年6月大水害当時蛎久区長として消防団青年団員を指揮して徹宵堤防補強作業を続けたが、26日午前8時40分決潰し、最後まで堤防上にて警戒中の彼は濁流に呑まれ殉職した。至誠剛直で愛郷心が強く、鍋島の発展と教育の振興に、青年の様な夢と熱をもって活躍した人であった。
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千綿ちか
明治17年3日月生。明治35年佐賀師範卒業後若木、桜ケ丘各学校の教職にあること16年。其後推されて方面委員、母性補導委員、愛国婦人会鍋島分会長などの公職につき、村教育厚生方面に多大の貢献をなし、終戦後昭和26年村会議員に当選、昭和30年には多年の宿願であった幼稚園を設立し、人間形成上最重要な幼児教育に体当りで取りくみ、若者の様な夢と情熱をもって絶えず前進しようとの熱意に燃えていた。然し天は女史に齢をかさず昭和39年4月病のため81才にて没した。幼稚園は五男安正氏が遺志をつぎめざましい発展をとげている。女史の女性らしい物腰、かんで含める様な口調、理路整然とした講話は今もなお婦人会での語り草となっている。
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中島ヤス
明治30年20才の若さで養正校へ奉職のかたわら、近隣の子女裁縫其他女子日常の心得について教えを乞う者集り、いつしか私塾が形づくられた。明治37年佐賀市に移転、その慈愛深い懇切な指導に教え子の数も次第にふえ、大正12年佐賀裁縫女学校、昭和4年佐賀高等裁縫女学校、昭和18年佐賀高等実業女学校、昭和21年佐賀旭高等女学校、41年佐賀女子高等学校と改称、女子短期大学設立、53年佐賀女子短大附属佐賀女子高等学校と改称され、学長坂田力三、高校長岡崎喜久にて学生数2069名のマンモス学園に成長した。これ実に女史の順和礼譲、敬愛奉仕の精神に徹し、勤労を尊び、忍耐と感謝に終始する遺徳の賜と言うべきである。
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田中直一
蛎久出身。明治7年生。父祖の遺業たる酒造業をつぎ実業界に活躍し、永年酒造組合長の栄職にあり、大正14年には県会議員に当選し、昭和11年に実業功労者として知事から表彰された。
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富崎高一
木角出身。明治7年生。人格高潔で進取の気象にとみ、明治39年佐賀県属に任ぜられ、学務課をふり出しに土木主任を経て、理事官に進み、退官後は、おされて村長に就任、次で郡農会長に推され後県会議員当選2回、その間昭和5年鍋島駅新設、村内県道の整備などに尽瘁し、新鍋島建設の礎石を築いた先覚者として村民感謝の的であった。満洲視察旅行中事故のため、歩行不自由となり第一線を退き、木角に悠悠自適した。隠棲後も彼の郷土を愛し、青年を愛する熱情は変らず、農民特に青年の来訪を歓迎し、共に時局を語り、農を談じ時のたつのを忘れる事もあった。昭和33年3月死去。85才。
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井手雄次
明治12年生。本村出身。長じて軍に入り日露戦争に従軍、戦功顕著であった。除隊後大正8年村会議員当選2期、その間村産業組合理事、村農会総代3期、また多年警防団長として活躍し、終戦後は教育委員に当選し、村教育振興に献身した。
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犬塚正雄
蛎久出身。長崎医専卒業後父の遺業をつぎ、日夜村民の保健医療に奔走し、傍ら社会事業に献身し、青少年の指導、知識の啓発、風紀の醇化に努力し、また小学校校医として、児童の体力向上に努めその功により昭和29年知事表彰を受けた。その間消防団長として活躍したが昭和32年2月死去。 彼は田舎医としては稀な名医であり、仁医であり、しかも研究心旺盛で、最後の病床にありながら専門書を枕頭から離さなかった。誰よりも鍋島と農民と子どもを愛した人格者であり、その高潔な人となりは今に至るまで語り草となっている。彼こそは農民と一体となりきったほんとの農村医であった。
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池田種三
森田出身。明治39年佐賀中学卒業。小学校教員となり、大正9年には校長となり、金立・春日・本庄・東与賀小学校を歴任し、辞任後は村会議員、産業組合長として村政と産業の発達改善につとめ、終戦後教育委員公選にあたり見事当選し、また昭和24年から36年まで公民館長として、新時代の人づくりのため努力を傾注し功績顕著なものとして昭和36年全国表彰を受けた。誠に温厚なる教育者型の人格者であり、また話術の功みなことで知られた。
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久野源四郎
明治15年生。佐賀農学校卒業後、明治39年杵島郡農業技手となり、大正7年長崎県農会技師に進み、朝鮮東山農場、飯田農場、長崎県愛野農場、北支山開関農場など各地に勤務、昭和19年佐賀県に入り技師として農業指導に従事した。また昭和25年から引続き佐賀県産業振興会理事として多年産業教育発展に尽瘁した。ために鍋島村長から村政功労者表彰、県知事から民生委員功労感謝状、文部大臣から産業教育振興功労者表彰をうけた。 また曲った事のきらいで世話すきな勤勉な実務家であった。 また彼が佐賀農芸高校創立のため、日夜寝食を忘れ奔走したことは人も知る通りである。
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片渕慶吾
明治26年角目生。独立独歩の精神に富み、商機を掴む鋭敏な頭の所有者であった。青年頃角目で雑貨商を開いたが、建築材料の有望なことに着目し、昭和3年紡績通りに建材店を創設し、千代子夫人と共に日夜業績発展を計り、以来50年。その間多少の屈折はあったが、卓越した手腕とたゆまない努力によってあらゆる苦難に耐え今や堅実な歩みを続けている。
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片渕初次
明治30年角目生。青年時代から篤農家として知られ、諸種の改良事業に努力し、養鶏園芸殊に菊作りの工夫改良に若い情熱をうちこんだ。彼の園芸研究熱と愛郷心の深さは町民の等しく知るところとなり、昭和3年農会総代、産業組合理事、郡市籾摺組合副会長、小学校建築委員、養鶏組合副会長、県花卉園芸評議員、等の公職を歴任した。なかでも昭和24年には花市場を創設し、戦後新鍋島農業の基礎を園芸に開いた功績は多大である。尚特筆すべきことは昭和2年県下農家代表として昭和最初の新嘗祭献穀用稲栽培の指定を受けたことである。晩年は眼病のため第一線を退き専ら信仰生活に入り、念仏感謝の日日を送っていたが、昭和52年8月80年の生涯をとじた。
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鷲崎理四郎
安政2年(1855)生。明治2年佐賀藩兵に入隊、4年より西海道鎮台分隊へ入隊した。辞任後は柔術の錬磨に精励し、明治27年東新庄に柔術道場を開き門弟を教導し、28年推されて村会議員に当選し(2期)34年には鍋島村助役に推挙され、36年村長に就任し、更に42年再選され村政の改善に精励、郷土の発展につくす処大であった。
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千綿万三
江里出身。明治35年佐賀農学校卒業後、日露戦に従軍し、41年より牛津小学校訓導となり、44年4月郡農業技手をへて県技手に進み、昭和9年地方農林技師に昇任、11年退職、この間24年間地方の農事改良などに功績多大で昭和11年村長に就任した。長男美二君は日大卒業後国鉄に入り、40年退職、42年佐賀市議会議員に上位当選し、豊富な技術知識と、さわやかな話術と、議会人としての旺盛な勉強ぶりとは人も知る通りで、町民の期待も多大であったが、不幸病を得て49年7月死去した。
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久野健太
角目出身。明治39年農学校卒業後郡農業技手として就任。大正9年朝鮮にて東洋拓殖株式会社嘱託として活躍、昭和12年帰国後、村会議員、農会副会長におされ、13年助役、15年村長に就任敏腕をたたえられた。
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池田利夫
森田出身。昭和5年早大卒業後、朝鮮総督府に勤務し続いて、満州国国道局に移り昭和9年帰国し、早良鉱業所勤務、昭和16年鍋島村助役、21年村長就任、市村合併と共に支所長を務め、辞任後昭和30年県議会議員に当選した。35年農協長におされ献身的に努力したが、不幸難病におかされ38年死亡した。農民は深く彼の死をいたみ農協葬をもって送った。 昭和28年大水害の時は村長として、対策本部長として33日間1日も帰宅せず、陣頭指揮をつづけ復日に努力した。彼は嘉瀬川はすでに危険水位に達し更に降り続いていたので、6月25日夜独りで森田の堤防上にて警戒監視をしていた事は部落の人たちも知らぬ人は少ない。彼こそは誰よりも鍋島を愛した人であった。彼はまた細心堅実な反面、誰からも親しまれる明るい性格の人であった。