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[人物][人物][久保泉校区]は3件登録されています。
人物 人物 久保泉校区
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神代家(親類藩)
神代家は、人皇8代孝元天皇の孫・武内宿禰を元祖とし、高良山玉垂の宮に仕え高良山に住んでいたが、源平の頃高良山の北麓神代村に移った。元寇の役のとき増水した筑後川で、筑後以南の軍勢を船を繋いだ浮橋によって渡した功により、幕府の感状を貰っている。以来、久留米東北部の地頭職であった。 戦国中期、筑後の蒲池・西牟田に攻められ、一族と筑後の地頭土豪達27人が松浦の波多氏を頼って行く途中、千布の陣内氏と仲良くなり、婿に迎えられ、神代勝利が生まれた。 勝利は山内の将に迎えられ、龍造寺と相争いその子長良の代に大友と共に佐賀城を攻めたが、鍋島の夜襲を受け大敗。鍋島直茂の甥(家良)を養子に迎えて4,300石の知行を受け、一時芦刈に移封されたが、川久保に戻り鍋島家良(直茂の甥)・直長(勝茂の10男)・直利(光茂の次男)を次々と邑主に迎え、親類藩として1万石の領主となり、明治の時代まで栄えた。 龍造寺氏との攻防は、当時のいくつもの戦記に面白く述べられているが、勝利初め代々の領主は大小の溜池・水路開さく・新町開発等の善政をしいたので、主従の関係は他藩に無い親密なものがあった。特に最後の邑主神代直宝は、95町余の山林を県に寄付第一模範林として植林させ、緑と豊かな水で町を潤して呉れた。また350町歩の山林原野を川久保に無償払い下げ、今日の蜜柑産地として町民の懐を潤おした。士族授産竹細工奨励は堅ろう「川久保物」として県内外に有名になった。 町民は、神代家の住民に対する業績を感謝しこの恩情をいつまでも忘れないで、語り伝えたいものである。
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中島哀浪
(1883〜1966) 「佐賀は文学不毛の地」との評は、佐賀の人が中央で華やかな活動をしなかっただけで、豊かな文学風土は長い間、先人達によってはぐくまれてきた。むしろ維新前後の沢山の英傑や戦時中の軍人の影に隠れて、皆が気付いていないに過ぎない。 ここでは、われわれに最も身近な1人、郷土が誇る歌人中島哀浪を取りあげる。哀浪は北原白秋・若山牧水と並ぶ九州三大歌人の1人で、久保泉で生まれ育ち、佐賀を離れず郷土を格調高く詠み続け、自ら好んだ郷土の清らかな泉の上『坐泉堂』で息を引き取った。 1万を越す詠草・詩・随筆、50有余の校歌の作詞、特に郷土の名物きゃら柿の歌200首は「柿の歌人」と言われ、豊かな人情味あふれる独特の風韻は「哀浪調」として、日本歌壇にその名を残した。 彼の佐賀中学時代、同級の高田保馬(後の経済・文学博士)佐賀画壇の統帥山口亮一、一級下の下村湖人(次郎物語の作者)などと文学グループを作り、中央歌誌に投稿を初めた。また白秋や牧水とは、早稲田大学で同じ下宿に起居した。 歌誌「ひのくに」の創刊から、もう70年を越した。 彼の代表作 柿もぐと木にのぼりたる日和なり はろばろとして脊振山みゆ の歌碑は彼の菩提寺妙福寺入り口に建っている。これは「敗戦後の郷土に、文化の灯を」と乞い願う村の青年団や文化団体いずみ会が、「ひのくに」の協賛を得て昭和23年10月に建てたものである。 宮分の蛍橋のたもとの「坐泉堂」は昭和27年古稀記念に子弟や平野建設から贈られたものがあるが、今は無い。 平成2年、令息草市潤編の『中島哀浪全歌集』は、約1万の短歌を収録し、年譜・初句索引を付す貴重な図書。
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横尾 柴洋
横尾紫洋は、春日の高城寺で学び、20才で長州(山口県)・京都・江戸に遊学。日光東照宮の豪華さに比べ、当時の皇居の荒廃を見て歎き、事を構えようとして露見。郷里に帰ったが再び京に上り、関白九条家の侍講(天皇・将軍へ講義する職)となった。幕政批判をする紫洋をおそれた鍋島家は彼を引取ろうとしたが本藩の帰国命令に従わなかったので、捕えて佐賀で斬刑にした。51才、幕府の目を恐れてのこととは言え、江藤新平同様、惜しい人材を処刑したものだ。 ♪高い山から谷底みれば、瓜やなすびの花ざかり の俗謡は彼の作。これは幕府におもね、皇室をないがしろにする輩を諷刺したもの。