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[人物][人物][久保田町]は43件登録されています。
人物 人物 久保田町
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村田 若狭
文化11年〜明治6年(1814〜1873)政治家 久保田邑主。龍造寺政家の後裔。名は政矩、慶吉郎、「西麒」と号す。 深掘邑主鍋島孫六郎の次男で村田家を継ぐ。表高1万3080石、物成4300石を有す。家督を相続直後、邑地の海面を干拓して良田となし、大に民力の扶植に努めた。藩主鍋島直正及び直大の信任を得て常に家士を長崎に遊学させ蘭学を修めさせ郷校を再興し、西洋文物の普及を図った。文久年間には幕府の蘭医ボードインを招き長崎に病院を建てた。種痘を奨励し、銃砲製造所を創立。蒸気船の模型を作り嘉瀬川に浮かべる等科学的研究に熱心であった。明治の初め佐賀藩の執政となり、封土奉還の議を主張廃藩置県に功あり。プロテスタントのキリスト教を信仰し、諸藩の重職にして受洗のさきがけとなった。幕府の命により、長崎警備のため藩から度々出向、同地滞在のフルベッキに英語を学び、家臣が港で拾った英書に興味を覚え読み始めた。従来それは『聖書』であったとされるが、伝道用のトラクトであり、フルベッキは改めて『聖書』を与えて指導すること4年、慶応2年4月6日(1866年5月20日)弟綾部とともに受洗した。藩主鍋島直大も好意を寄せ、棄教させることなく彼を引退させた。その後久保田村に隠棲、漢訳『聖書』の邦訳に励んだ。グリフィスのフルベッキ伝によると、彼は日本伝道は日本人によるべきであると、2青年をフルベッキに託し、将来のキリスト教の発展を祈り、微笑しつつ没したという。 大正4年11月、正五位を追贈された。墓は元小路の大雲寺にある。享年59歳
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江口 六蔵
文政6年〜明治23年(1823〜1890)政治家 久保田町の快万に生まれ、思斉館に学びのち同館の都検を勤める。快万寺子屋を経営、庶民教育に尽力した。明治11年(1878)長崎県管轄下の頃、佐賀郡選出の長崎県議会の議員となる。明治12年長崎県臨時県議会で副議長となる。(議長は小城郡選出の松田正久)明治13年7月県議会議員を辞任、同年同月2代目杵島郡郡長に就任。明治16年5月9日、佐賀県が長崎県の管轄から独立し佐賀県議会が発足すると、同年7月から翌年4月まで佐賀県議会議員に選ばれた。 明治15年2月には九州民憲党委員。同年5月、九州改進党肥前部会の本部常任委員および規則審議会の議長に推された。明治22年(1889)4月、町村制施行により久保田、徳万、新田、久富の4ヵ村が合併して久保田村を設置、江口六蔵が久保田村初代村長となった。墓碑は上恒安の龍顔寺内にある。享年69歳
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蒲原 敬一
弘化2年〜明治44年(1845〜1911)官吏・政治家 久保田村久保田宿の石川又蔵の次男として、出生。蒲原佐内の養子となる。 明治20年(1887)2月、沖縄県の司獄官となる。能吏として重く認められ、しばしば賞賜を受けている。明治35年(1902)5月、官を辞して帰郷し、第10代久保田村長に就任。激しかった政争を良く取りまとめ、久保田村を和楽の地となし、村財政を建てなおすなど大きな業績を果たす。大正元年(1912)12月、その功績を称え碑が建立された。撰文は、貴族院議員の峰栄太郎。碑と墓は久保田町上恒安の龍顔寺内にある。勲七等 享年66歳
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大島 定吉
安政3年〜昭和17年(1856〜1942)政治家 久保田村搦の大島龍七の3男として出生。学才には乏しかったが機智に富み、喧嘩太郎で有名だった。押しの強さには定評があり、議論をして人に譲ることはなく、頭の閃きが早く、その才覚他に類例なし、反骨精神で村会議員は勿論、佐賀郡会議員まで掌中にした。村内の政党は石川又八を初め政友会優勢な中で、大島は1人憲政会で活躍した。昭和9年佐賀板紙株式会社の流す悪水問題が、漁民との間でようやく解決した時、大島は会社と村当局が結んだ和解契約を不満として裁判所に提訴した。会社・弁護士、本人・弁護士。それに県の調査・調停と様々な動きがあったが解決に至らず、結局は当時の漁業組合長高森豊吉の調停で、大島もこの訴訟を取り下げた。蓄財に長じ、その財源は有明海であった。魚漁が得意でアゲマキで大儲けをし「アゲマキ定」のあだ名もあった。カキを養殖加工し、中国の上海まで輸出し巨額の富を貯えた。晩年は、大正8年(1919)4月、久保田塗料製造株式会社を創設、同村新田に工場を建て、カキ殻を粉砕し塗料を製造した。社長に大島定吉、取締役に中島松二郎・古賀醸一郎が就任した。享年86歳
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本野 一郎
文久2年〜大正7年(1862〜1918)官吏 久保田の小路出身、本野盛亨の長男。フランスのリヨン大学に学び、帰国後外務省に入り翻訳官、参事官、政務局長心得・公使館書記官等を歴任。この間、明治26年には、法学博士の学位を獲得している。明治31年には特命全権公使となりベルギー、フランス、ロシアに派遣される。日露戦役前後の困難な外交交渉に功績をあげた。同41年には全権大使となり再びロシアに在勤、日露協商条約を締結した。大正5年寺内内閣が成立すると請われて外務大臣となり、第1次世界大戦の難局をよく処理した。一郎は性寡黙、直情径行の人。しかし外交官らしく多趣味で、謡曲、ビリヤード、碁、将棋、写真、書、絵、彫刻などに堪能であった。読売新聞社初代社主。子爵、従二位勲一等旭日桐花大勲章を贈らる。享年56歳
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石川 又八
明治10年〜昭和10年(1877〜1935)政治家 久保田村久保田宿、石川謙助の長男として出生。大阪市立高等商業学校卒業。明治36年頃、農業改良に熱意を傾注し、正条田植奨励のリーダーとして活躍。村内の篤農家を中心に晩生稲一本化の時代を力説、大正2年の全国5石収穫懸賞会でその成果が認められ入選した。同年9月12代久保田村長に就任。佐賀郡会議員に連続当選、大正3年10月郡会議長となる。佐賀県議会議員2回当選。同7年、昭和7年佐賀県選出衆議院議員に2回当選、国政の場でも活躍した。日露戦争に従軍、功により従七位勲五等功五級、陸軍歩兵中尉。農業を営み、佐賀県農工銀行取締役。その他、古賀銀行・窓乃梅酒造株式会社取締役。日宇土地株式会社・田中丸呉服店監査役を兼任、実業界の重責を担った昭和2年、大立野の魚問屋を株式会社石川魚市場に改組。同3年、久保田搦耕地整理組合、初代組合長となり、面積228町の干拓工事に尽力した。西肥板紙株式会社の創立発起人の1人である。墓・頌徳碑は久保田町小路の妙鎮寺の境内にある。書は鳩山一郎、撰文は学習院教授太田保一郎。享年58歳
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市川 潔
明治13年〜昭和25年(1880〜1950)政治家 久保田村小路にて、市川太兵衛の次男として出生。もと古賀の住人で、龍造寺の子孫といわれている。現在の姓は旧藩政時代より使用してきたものといわれている。祖父伊兵衛は戸長役場当時の筆生用掛として勤め、父太兵衛も行政に関与していた。本人は郡役所の書記として4年勤め、その後、東邦電力佐賀支店の営業課長として敏腕をふるう。ついで松島炭坑の用度課長などを歴任し、県下炭山の開発者として名を知られていた。その外、郵便局長、信用組合監事、漁業組合理事長、消防組頭、協会代議員等その功績は広汎に亘る。大正9年(1920)2月、15代村長に就任。基幹産業である農業の振興に力をいれ、当時としては画期的な事業であった、電力による機械潅漑の方式を取り入れ、全村に設置し農民の水利の便を図り、農業の合理化・近代化を1歩前進させた功績は誠に大であった。昭和3年(1928)12月、人格識見を認められ、17代村長に再就任する。その間、教育の機会均等・村民の融和を図るため上・下2校の小学校を合併した。村長のほか久保田駅の合同運送会社社長、久保田自動車商会代表社員などを勤めた。享年70歳
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御厨 栄
明治15年〜明治40年(1882〜1907)官吏 久保田村上新ケ江、御厨卯兵衛の4男として出生。明治33年県立佐賀中学校(現佐賀西高校)を卒業。刻苦勉励し、翌年外務留学生試験に合格、オランダ留学を命ぜられ、横浜港より日本郵船の若狭丸にて渡航、着任地ハーグに到着。語学習得のためハーグの中学教師にオランダ語の文法・作文・会話を学ぶ。退役陸軍大尉方に止宿、朝夕夫妻の語学指導も受け語学の習得に励んだ。明治39年オランダ国在勤の外務書記生に任命される。翌年、第2回万国平和会議委員付きに任命される。同年6月よりハーグにおいて都筑馨六全権大使の下で翻訳に従事、苛酷なまでに多忙な日々であった。同年10月、肺結核のためブロノーヴォ病院に入院、外務省・大使館の手厚い配慮にもかかわらず容態は悪化12月6日同病院にて死去。ハーグ市内の墓地に埋葬。第2回万国平和会議の功労が認められ、勲八等瑞宝章に叙せられる。享年24歳。 御厨卯兵衛の3男袈裟一は、明治28年県立佐賀中学校を卒業、熊本高等学校を経て東京工科大学に入学、電気工学科を卒業した工学士である。長崎電灯会社で実習し、傍ら脊振の山を跋渉し広瀧川の水力を研究し、水力電気事業の設計をし卒業論文とした。その雄大にして緻密な理論・構想は多くの人々に示唆を与えたと思われる。その才能を将来に輝かす事無くこの世を去った。享年27歳 兄弟の墓碑は上新ケ江桂秀院の墓地にある。
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下平 多作
明治20年〜昭和43年(1887〜1968)政治家・獣医師 杵島郡朝日村大字中野字川上、下平作一の次男として出生、小学校卒業後は県立佐賀農学校に進学。牛馬等の家畜に興味を持ち、更に大分県立農業学校獣医学科に学び、一段と向学心に燃え東京帝国大学農学部獣医学講習科に入学、研鑽を重ねる。卒業後久保田町徳万において獣医師を開業。昭和20年佐賀郡市畜産組合を創立、組合長に就任。推されて佐賀県畜産組合連合会会長の要職に就き優れた手腕を発揮した。この他、県種牝馬組合長・県獣医師会長・県装蹄師会長・県鉄鋼製品工業組合理事長等を歴任。農業との関わりが多く県農地委員、県農業委員協議会会長、県農業保険審査会委員等、20余の公職を兼任し奔走した。昭和22年、第1回村議会議員の公選に出馬し当選。昭和24年、芦刈村外5ヵ町村(小城町・三日月村・川上村・久保田村・南山村)で、競馬組合を設置したが、下平議長はその役員として活躍、ジュディス台風後に復興競馬等を開催、多額の収益をあげ災害等の復興に貢献した。昭和26年の第2回公選にも当選、人柄と識見を認められ議長に推挙され、爾後3期12年間議長を務める。その間に県町村議長会会長としても活躍した。その功績が認められ、昭和35年黄綬褒賞、昭和42年勲五等旭日双光章に輝いた。享年84歳
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高森 豊吉
明治23年〜昭和59年(1890〜1984)政治家 久保田町上恒安に於いて、高森和三郎の長男として出生。謹言実直、人の意見に耳を傾ける人で、若い頃は税務署に勤務・後役場職員となり、その手腕が認められ収入役・助役と昇進し、昭和7年(1932)1月、19代久保田村長に就任。戦時体制下で苦難に満ちた村政を担い、終戦に至るまでの14年間、ひたすら村民の健康・安全を願い、国への協力にも余念がなかった。昭和20年(1945)8月15日、太平洋戦争終結後は失意にしずむ村民を激励し、食料の確保・物資補充等困難な業務に追われた。進駐軍の占領政策により公職を辞した。その間、昭和7年には石川又八・古賀銀三郎・中島松二郎等と久保田搦耕地整理組合を設立。有明海に面した広大な沃野の造成に着手し干拓事業の先駆けをした。しかし、一部漁業者に干拓反対の声があがり、高森村長は新漁業組合を設立、組合長をつとめて反対の有明海漁業連合会の干拓承認を得た。 太平洋戦争末期、物資欠乏の時代の対応が認められ、高森は帝国耕地協会、農林大臣等から数度にわたり表彰を受けた。久保田搦耕地整理組合3代組合長として干拓事業に活躍した。晩年は町の歴史の調査研究に情熱を燃やし、町史編纂委員長として4年の歳月を経て、昭和46年(1971)10月、『久保田町史』が発行された。亭年94歳
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村田 隆長
明治32年〜昭和43年(1899〜1968)政治家 久保田邑主の末商、父虎吉郎の二男として久保田村徳万にて出生。東京高千穂中学校卒、明治大学法科予科2年終了後、大正15年(1926)2月、佐賀百六銀行取締役に就任。戸上電気顧問、秋田製鋼次長等を歴任。昭和21年(1946)4月、20代久保田村長に就任、翌年公選で同村長に当選した。昭和26年4月再選、その後昭和42年(1967)3月まで、20年間の長きに亘り村長を勤め、同年4月町制施行により、4月1ヵ月間初代町長に就任した。 その間、終戦後の占領軍対策に奔走し、村民の精神的な動揺を鎮め、物資欠乏の時代を食料増産運動で、村民の奮起を促した。昭和24年の大水害では、村をあげての復旧事業に奔走し、特に嘉瀬川改修工事の必要性を県や国に陳情工事の完成に尽力した。昭和32年には久保田村新田に役場の新庁舎を建設。思斉小学校の校舎建築も推進した。村長としての永年の功績が認められ、昭和41年1月全国町村会会長の表彰を受ける。昭和43年1月、地方自治施行20周年記念知事表彰を受彰した。家庭裁判所参与兼調停員、佐賀簡易裁判所司法委員も兼ね、同所功労賞を授与される。菩提寺は元小路の大雲寺である。享年68歳
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古賀 了
明治37年〜平成9年(1904〜1997)政治家 久保田村久富において、古賀銀三郎の長男として出生。大正6年(1917)久保田村立新田尋常小学校卒業、旧制佐賀県立佐賀中学校入学。大正10年(1921)佐賀中学校4年修了、佐賀高等学校入学。大正13年(1924)佐賀高等学校卒業、東京帝国大学(経済学部)入学。昭和3年同校卒業、久留米歩兵第48連隊入隊。翌年除隊、農業に従事する。同7年佐賀県立佐賀図書館に勤務。この間、国際情勢は緊迫し満州事変・上海事変が勃発、同10年佐賀信用販売利用組合連合会勤務。同12年支那事変勃発、久留米歩兵第48連隊応召、召集解除後の同15年上海毎日新聞入社。翌年退社、株式会社丸善石油入社上海支店に勤務したのは昭和16年、日本が太平洋戦争に突入した年であった。昭和20年(1945)太平洋戦争終結。大陸雄飛の夢は消え、上海を引き上げ郷里久保田に帰り、食糧難と物資欠乏の厳しい中で農業に従事し、日本の将来について深く考えるところがあった。昭和22年久保田村農業会資産処理委員長・久保田村農協設立発起人代表就任。同23年久保田村農業協同組初代組合長就任。昭和26年(1951)推されて佐賀県経済連会長、同年佐賀県議会議員に当選。昭和33年佐賀県農協中央会会長・同拓殖農協連合会会長就任。翌年34年佐賀県農民政治連盟創立、会長に就任。既成政党の農政に飽き足らず、農民のための政策を樹立推進しようと旗幟を掲げ、堅い決意の下に発足した。この運動は九州は勿論のこと全国各地で組織化が進められ、昭和35年10月全国農政連盟結成。同年11月の衆議院議員選挙に佐賀県農政連から立候補した古賀了は、第1位で当選。農政代議士として国会での活躍が期待された。昭和35年(1960)国会において首班指名の際「古賀了」に1票を投じた話は後世に残るであろう。一方県経済連の再建、農協中央会の基礎作り、国・県と広範な重責を担った。昭和42年(1967)町制施行後初の町長選に立候補し当選。以後4期16年町政に尽力、その間、町内2農協の合併・圃場整備事業、庁舎建築等の大事業を完成し、昭和58年町長を勇退。勲三等瑞宝章、久保田町名誉町民、鑑真和上嘉瀬津上陸記念碑建立発起。全国・県町村会自治功労者受賞。享年93歳
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深川 嘉一郎
文政12年〜明治34年(1829〜1901)実業家 久保田村福富の酒造業、古賀文左衛門の長男として出生。20歳の頃まで家業の酒造業に従事していたが、後分家して深川の姓に変わり佐賀の道祖元に移り住む。明治3年米商会社を創立。佐賀藩主から汽船「神幸丸」を借り受け、長崎-大阪間の航路を開き、年々発展拡張し、明治10年には大川の若津に支店を設け、遠く航路を海外に拡大し海運業の発展に努める。同17年には同地に造船所を設立し、海外航路の船舶を建造するなど、若津の発展に貢献した。明治28年以来、地所会社、セメント会社、種子島・屋久島開発会社等を設立、佐賀の深川として世に名声をとどろかせた人である。大正13年に架橋された嘉瀬橋は、若津の深川造船所で製作された鉄橋であった。晩年嗣子文十に家業を譲って仏門に入った。墓は久保田町中副の圓光院にある。享年72歳
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堤 治之
明治11年〜昭和8年(1878〜1933)実業家 本庄村の内田清秀の三男として出生。久保田村の豪農といわれた、堤善太郎の養子となる。幼い頃から学問を好み郷里の小学校を卒業後、東京の中学校に入学、さらに私立大学の名門校慶応大学に進学、将来を実業界に志しその道を研鑽するため、横浜の日本生糸貿易株式会社に就職した。入社後は自分の才能を発揮し、期待される社員であった。 明治33年家庭の事情により同社を退社、帰郷して家業に専念したが、やがてその手腕を認められ地方実業界に活躍することになる。横浜より帰郷したのちは地方財界に貢献すると共に、推されて佐賀信託株式会社の取締役に就任し、同社の発展に尽力した。その後、大正5年7月には、福岡市上土居町に一族を出資者に加え、資本金30万円を投じて堤信託株式会社を設立し、自ら社長となり複雑多岐な2大事業の経営を着々とすすめ、九州に信託事業を展開した。その事業の内容は庶民銀行の性質を有する、中産階級以下に必要な一種の金融機関であった。佐賀県下で最も早くこの事業の有望なことに着目し、同志を糾合し創業した斯界の先覚者であり、県内1〜2といわれた多額納税者であった。享年56歳
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古賀 文一郎
安政6年〜昭和20年(1859〜1945)実業家(酒造業) 久保田町福富の古賀善八の長男として出生。銘酒「窓乃梅」12代社長。元禄元年(1688)初代古賀六右衛門酒造業を創業、古賀家は歴代酒造業を継承し今日に至る。 代々研究熱心で、9代の文左衛門は安政の頃摂津西ノ宮にて7ヶ月余の研究を重ね「西ノ宮土産」なる醸造記録を持ち帰り、酒造の改良に勤めた。祖先の酒造に対する熱意を受け継いだ文一郎は、明治11年20歳の春、熊本の時計店において、精巧な検温器を発見、酒の醸造過程での温度の作用するところ大なるを発見、従来の施設を改良し独特の温度の計量法を加え在来酒に優る酒を醸造した。度々灘の地を訪れ、精細緻密研鑽を重ねて新しい醸造法を考案した。数々の研究発表は、九州・県の酒造界の人々の注目するところとなり、選ばれて酒造研究所取締役及び醸造監督という名誉職に推され斯界に貢献した。明治33年五二会発展に尽瘁した功により功労賞・銀杯を授与される。同39年九州の酒造業の発達・改良に尽力した功により農商務大臣より功労賞・金一封を授与される。明治44年特別大演習の際は明治天皇陛下、大正3年には閑院宮殿下御来県に際し、実業功労者として拝謁の栄に浴す。 14代久保田村長。永里地区に3段余歩の試作田を与え、経営農会の指導をした。会員の建立した頌徳碑が部落の稲荷神社前にある。墓は中副の圓光院にある。享年86歳
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森山 定太郎
明治4年〜昭和6年(1871〜1931)実業家(銀行) 久保田村徳万にて資産家森山嘉平の長男として出生。一家は慈善公共の志篤く郷里の人々に敬愛されていた。大正5年(1916)9月、同地に金融機関の設備なく不便多きことを察し、その親戚にあたる橋本栄治と提携し、資本金50万円を以て株式会社「西肥銀行」を創立す。森山が頭取となり経営基礎を鞏固にすると共に、地方産業の開発に活力を注ぐ。生来純朴で思想頗る穏健、彼の西肥銀行の創業日なお浅きに拘らず地方に信用厚く、業務着実に伸張す、その原因は数々あると思われるが、業務に対する情熱と誠意によるものと思われる。之より先森山・橋本の両氏は各村において貸金業を営んでいたが、時勢の推移にともない四囲の事情が奮起を促し銀行設立に踏み切った。当初佐賀郡久保田村徳万に設置し、その後神埼郡神埼町に支店を、同郡三田川町吉田に出張所を開設した。大正7年6月末現在、支店出張所2カ所、取引先47ヵ所を数えた。大正12年(1923)本店を佐賀市松原町に移した。昭和3年4月、百六銀行に合併され、同行も当時住友銀行の経営下にあった。18代久保田村長(昭和6年)墓は小路の妙鎮寺にある。享年60歳
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山崎 時三郎
明治20年〜昭和45年(1887〜1970)実業家 久保田村徳万の山崎嘉助の次男として出生。思斉小学校4年を卒業。嘉瀬村の青藍校に入学したが、家計が苦しく1年で退学した。その後、天秤棒を担ぎ、ところ天・提灯等の行商をし、遠く六角・白石まで売り歩いた。その間も向学心に燃え、夜は蒲原塾に通い写本し漢学を学び、数学は宿直の先生を訪ね代数・幾何などを学び、同年輩の者に数学は負けなかった。小柄な体であったが、思斉校では剣道、碇道場では柔道の稽古に励み心身の鍛練に努めた。15歳のとき佐賀県庁の給仕として採用された。勤務成績良好で1年たたぬ間に抜擢されて臨時雇いとなる。 月給7円50銭、上司井上書記官の書生として松原の屋敷に寄居し、夜は栄城塾で英語を学び、朝は4時起床で大財の漢学の先生の指導をうけ、6時半から官邸の掃除その他の仕事に励み、17歳で教員の検定試験に合格した。他界した母の残した100円持って、東京での学究を志し上京した。中学卒業を目指し最短の道を選び4年の3学期に編入試験をうけ合格した。中学校を卒業する迄も学費や下宿代に追われることが多く、アルバイトに奔走したが、人々の厚意に助けられ優秀な成績で日比谷の海城中学校を卒業した。 官費で学習出来る学校として海軍兵学校を選び受験したが、身体検査で不合格になった。その後、知人の世話で神埼郡の三瀬小学校で代用教員をした。月給13円50銭。再び上京し鉄道院で働き、生活費は最小限に切り詰め、常に学費を貯えた。明治42年の春、念願の長崎高等商業学校に合格した。しかし、学資を稼ぐため長期休業の間脊振の広滝発電所に勤務。長崎では英・数・漢の塾を開き、長崎米穀取引所では土・日・夜と働いた。 広滝発電所勤務の折り上司の計らいで、関東・関西に電気事業視察の機会に恵まれ、東京大学の山川博士との出会いが実現し、大いに見聞を広め、卒業論文は「電気事業経営論」という膨大な諭文であった。卒業後、煉瓦製造販売店の会計係として就職、会社の発展に寄与し、博多窯業株式会社として新しく経営形態を改めるに当たり、過去の実績が認められ初代取締役支配人となる。昭和28年東洋精機社長、日本ハーダースジュース会長、東京石炭統制株式会社社長。昭和36年11月藍綬褒章を受賞。享年83歳
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鶴丸 廣太郎
明治23年〜昭和19年(1890〜1944)実業家(海運業) 久保田村上恒安の鶴丸安太郎の長男として出生。思斉小学校から青藍高等小学校に進学、この頃から同郷の三学寺住職円盛和尚との交情は年と共に深まり、人生観に大いに影響を受けた。成績もよく師範学校進学を勧められたが、家業である農業に専念した。明治39年(1906)17歳の時一念発起して武雄税務署にはいる。佐賀税務署を最後に、20歳の時、苦学を決意し1人上京した。円盛和尚の忠告を振り切っての上京であったが、生活は苦しかった。福岡県の遠賀税務署長をしている先輩を知り、この人の勧めで再び遠賀税務署に勤務することになった。遠賀税務署は若松にあり、北九州唯一の石炭の積み出し港が控えていた。ここでも広太郎は敏腕をふるい、上司にその才能を認められたが辞して、商事会社、造船会社と発展し、周囲の人々の信任を得、身軽に働いた。やがて、海運業・造船代理店業の支配人となったが、会社閉鎖の憂き目をみる。無一物から立ち上がって、3人の同士と共に鶴丸商店を開業。懸命の努力が実り、関係業者間の信頼は日毎に増し、鶴丸の名を高めていった。度重なる危機にも逞しく立ち向かい苦難を乗り越え、昭和10年(1935)鶴丸は個人経営から株式会社になり、広太郎が社長に就任した。昭和13年(1938)株式会社鶴丸商店は、鶴丸汽船株式会社に改称。昭和15年(1940)全国機帆船連合会が設立され、初代理事長に鶴丸広太郎が就任した。愛郷心が強く関係の寺社に応分の寄進をしたり、自分を育ててくれた村へのご恩返しと、青少年のため武道場を建築寄贈。当時の高森村長に自ら申し出て、村に毎年奨学金を出すことを決め、昭和18年まで続けた。また、母校の校舎不足を知り小学校の南に校舎1棟4教室を寄贈した。初めて自分の家を持ったのは、昭和10年、小倉市日明に建てた。日明小学校後援会長時代も、校舎1棟の建築費を市に寄付。その外、教育に関する色々な援助を惜しまなかった。昭和19年(1944)太平洋戦争の末期に近い11月病に倒れた。墓は芦刈町光楽寺にある。第1回海の記念日に逓信大臣より感謝状を授与される。若松地区機帆船組合より広太郎の寿像が贈られた。従六位に叙せられる。享年55歳
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原田 政雄
明治32年〜昭和29年(1899〜1954)菓子製造業 久保田町徳万(町東)昔の長崎街道添いの菓質屋(菓子製造販売と質屋)の原田卯三の長男として出生。家業の菓子製造は、砂糖菓子・羊羹などで祝儀用の須賀台も作っていた。小学校の頃は清潔を好み、絵の上手な少年であったが手先が器用で独楽回し等は芸人並みの美技を見せた。高等科卒業後は家業を手伝い、菓子製造技術の習得や販売に従事した。商売の方法も卸売を止め小売りのみとし、父と共に天秤棒を担いで菓子を売り歩き、厳しい家業に耐えることを学んだ。働き者の父は帰宅してからの売り上げ計算・帳面整理と多忙な1日の繰り返しを見聞し、商人としての経営能力を身につけていった。家での研鑽に満足できず、両親の承諾を得て家を離れ、佐賀市の「曙」をはじめ、長崎の「松翁軒」「凪州屋」等一流の店舗を転々として、熱心に修業を重ね、ゆく先々の店で、旺盛な研究態度を称賛された。大正末期、飯塚への転出を勧められ熟慮のすえ、昭和2年1月、飯塚市住吉町に店舗を開設「千鳥屋」と命名千鳥饅頭を創製、カステラ、丸房露と共に3品専門の店主となったのは27歳の春であった。苦節30年、親より伝授された不撓不屈の精神と、もって生まれた商才に一段と磨きをかけ、菓子の品質向上と優れたアイデアによる宣伝等、千鳥の名声は九州は勿論全国に広まった。昭和11年4月、飯塚商工会議所議員に当選、終焉の時まで理事・監事を歴任、商工会を中心に地域社会の発展に寄与した。 千鳥屋の精選された菓子は、品評会等に出品する度に高く評価された。昭和8年5月、第9回全国菓子品評会に千鳥饅頭を出品、壱等賞金牌受賞。その後毎年開催される全国菓子大博覧会、品評会に優秀な成績を残している。昭和29年、京都市で開催された全国菓子博覧会では、名誉大賞牌を授与された。品名カステラ。同年4月、高松宮宣仁親王殿下へ、全国名菓代表として京都「都ホテル」において千鳥饅頭をお手渡し献上の栄に浴した。同年10月13日他界した。墓碑は久保田町草木田の龍光寺にある。享年56歳
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森永 良次
明治37年〜平成4年(1904〜1992)建設業 久保田町徳万(町東)、森永半次郎の次男として出生。大正11年3月旧制佐賀県立小城中学校(現小城高校)卒業と同時に家業の土木建設業に従事、以来50余年の長きに亘り、持って生まれた才能と卓越した事業手腕に、不屈の闘志を持って、公共事業をはじめ一般工事の完全施工と優秀な業績は衆人の認めるところである。とくに、過去30年間に発生した幾多の豪雨災害の発生時には、社の総力を傾注して応急措置及び復旧工事に命がけで奮闘努力し、会社の利益を度外視した完全施工により民生安定、地域開発に寄与した。主な工事は得仏橋・厳木ダム工事用道路・城内公園等。 昭和24年佐賀県建設業協会が発足して以来、評議員・理事を歴任、後には副会長として職務に専念、建設業者の資質の向上、会員相互の融和と協力を強調し、業界発展のため尽瘁した業績が認められ、昭和35年黄綬褒章受賞、昭和50年春の叙勲において、建設功労者として勲五等瑞宝章に輝いた。享年88歳
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堤 善六
明治13年〜昭和39年(1880〜1964)製瓦業 久保田村大字久富北田で製瓦業を営む堤乙吉の長男として出生。小学校の成績優秀で、当時としては数少ない進学を希望し、昭和27年佐賀県立佐賀中学校(現佐賀西高校)に入学。勉学に励んでいたが、学業半ば病気のため退学し、療養ののち家業の製瓦業に従事した。 明治33年、輜重兵第12大隊に入隊。退役後日露戦争に出征、戦功により勲八等白色桐葉章に輝く。その後釜山、鎮海湾において船舶荷受問屋および米穀問屋を営み、傍ら瓦その他建築材料の販売をする。帰郷して大正6年推されて村会議員となる。以来3期連続議員を務め、政治的手腕を評価された。この間、大牟田市に於いて肥筑物産株式会社販売主任として就職。また肥筑窯業会社監査役、久保田商工運輸会社取締役および専務取締役、八阪九商計算会社監査役などに選任される。大正15年5月、佐賀米穀取引員を認可され、佐賀市赤松町に於いて仲買店を開業。 製瓦事業は、明治7年の創業で九州でも老舗として、県内外に知られていた。大正8、9年頃の製造高は年間150万枚、売上高は当時の金で12万円にもなった。瓦の取引所は県内は勿論、長崎・熊本の各県、福岡県の門司・小倉・戸畑・八幡など、遠くは朝鮮半島の釜山、馬山、群山、木浦などまで取引をし繁忙を極めた。明治44年、福岡県地方大演習の際に明治天皇陛下の拝謁の栄に浴した。九州、沖縄八県連合共進会その他の博覧会において銀牌・銅牌などを受賞す。石炭・コークスの販売も兼業とした。享年85歳
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千々岩 健六
明治30年〜昭和52年(1898〜1977)鉄工業 久保田町北田において、鉄工場を営む父梅太郎の次男として出生。父梅太郎は商魂逞しく明治35年(1902)に福岡県豊前炭坑の傍らに鋳物工場を始め、明治41年(1908)久保田駅前に移転、工場を再開するが事故により早逝した。健六は20歳の若さで家業を継ぎ、叔父(忠次・熊六)が後見した。経営は順調で、大正12年の工業年鑑佐賀欄には、唐津の黒木、佐賀の真崎・千々岩鉄工場のみが記載されている。主な製品は炭坑機器、石油発動機、船舶部品(長崎造船所納品)などであった。大正11年西肥板紙株式会社設立時は、同工場の機械製作・裾付けに活躍した。太平洋戦争中は、航空機部品(ジュラルミン製)手榴弾等を製作し、軍需産業の一翼を担った。主な得意先は佐賀板紙・小城炭坑・岩屋炭坑であったが、昭和49年に廃業した。昭和26年村会議員に当選。妻キサとの間に5男2女の子宝に恵まれ、いずれも英才教育の道を歩ませ、小学校5年から旧制佐賀県立小城中学校(現小城高校)へ進学させた。長男健児は東京大学教授・日本機械学会会長・千葉工業大学教授を歴任、他の兄弟も国・県・大手会社の要職につき活躍する。本家は三男の三次が継ぐ。墓は三日月町の勝厳寺にある。享年79歳
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近藤 末(旧姓田中)
明治37年〜昭和63年(1904〜1988)看護婦 久保田町永里において、田中房吉の六女として出生。久保田村立思斉尋常高等小学校を卒業後、久保田町立実科女学校に入学、中途より日本赤十字社救護看護婦を志し、大正13年(1924)資格取得、広島・下関陸軍病院に勤務。昭和4年から3年間、佐賀県師範学校付属小学校勤務、学童の保健・体位の向上に尽力した。満州事変勃発により、選ばれて日本赤十字社臨時救護班要員として召集され、龍山陸軍病院・会寧陸軍病院に勤務、戦傷病者の看護にあたる。戦争の非情な情景に胸を打たれ、救護班解散直後『銃後に叫ぶ』という戦争体験記を発刊、国民の心構えに警鐘を鳴らす。日本赤十字社山口支部病院総婦長兼講師を務める。懇望されて、日本赤十字社朝鮮本部病院の総婦長・講師として京城に赴任。寄宿舎の舎監として看護婦の監督に当たり、生徒の教育に専念した。特に、朝鮮人と日本人との融和に努力し、院外で婦人会の講師として活躍した。日中戦争が厳しさを増す中で、戦地将兵の苦難を思い戦地勤務を熱望、日本赤十字社の推薦により陸軍直属として大陸に渡り、昭和14年(1939)上海兵站病院看護婦長として活躍。昼間は傷病兵看護に奔走し、夜は『陣中看護記』の執筆に夜を徹し、昭和20年(1945)1月、日本赤十字社推薦図書して5千部が発行された。戦後の著書に『新日本の黎明−衛生日本建設のために−』、『涙の看護日記五十年』(日赤教え子たちの比島敗走秘話)がある。復員後は郷土の久保田町立思斉中学校に養護教諭として奉職。財団法人児童福祉施設めぐみ園理事10年。晩年良緑に恵まれ佐世保市に住む。享年83歳
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下平 マサ
明治25年〜昭和51年(1892〜1976)助産婦 杵島郡橘村大字大日の大木徳二の四女として出生。下平多作と結婚。 明治44年10月、久保田町徳万(町西)において助産婦を開業。以来50余年の長きに亘り助産介助に従事し、こどもの取り上げ件数は1万数千件に及ぶ。最近は自宅分娩をする女性はほとんどないが、昭和40年代までは自宅分娩がほとんどで、衛生知識にも乏しかった当時は、母性の健康管理から育児指導に至るまで、助産を通じて衛生思想の向上に尽力した。昭和28年受胎調節実施指導員の資格を取得し、当地区域の家族計画推進のため昼夜を分かたず指導にあたり、とくに久保田干拓入植者の80世帯の指導にあたっては、交通機関もない地域で、連日愛用の自転車で往復10数キロの道程を通い指導に専念した。 昭和10年から佐賀南部地区助産婦会支部長として、永年に亘り会の運営・後進者の育成指導に努められた功績が認められ、厚生功労者として勲六等宝冠章に叙せられた。夫多作も昭和46年自治功労者として叙熱を受ける。夫婦揃っての叙勲は稀である。享年84歳
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高柳 快堂
文政7年〜明治42年(1824〜1909)画家 久保田村の元小路の八田盛章の三男として出生。高柳権太郎の養子となる。外務大臣であった本野一郎の叔父である。通称文次、別名高致。鹿瀬老漁人・窪水漁夫と号す。佐賀の武富圯南に漢学・画法を学び、長崎の僧釈鉄翁に南画を学ぶ。また大阪の篠崎小竹および岡田天州に師事詩文を修め、後また中村竹洞・田能村直人に師事、心技ともに深まり南画の名家として並ぶ者が無かった。快堂は当時有田の白川に居住し、子弟の教育に勤める傍ら陶画を描き、山水・草花の妙を極めた。その頃、黒牟田製4尺の巨鉢に画いた染め付け龍虎は、筆力雄輝の名作と称賛された。明治33年皇太子殿下佐賀行啓の際、御前揮亳の光栄に浴した。また、京都南画学校の副校長を勤める。(長男豊三郎は名古屋商業学校長、後3代読売新聞社長となる。)享年85歳
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遠田 階贍
弘化2年〜昭和2年(1845〜1927)宗教家 岐阜県美濃加茂市福田の広瀬清蔵の四男として出生。7歳の時大阪府岸和田市の泉光寺住職鳳山和尚のところで得度。その後佐賀県小城郡小城町岩松の妙鏡院、天継院、四国徳島の慈光寺と転々と修行を積み同寺の陽開禅師は僧としての才能を高く評価した。文久3年久留米の梅林寺の羅山禅師の下で修行すること数年、更に故郷に近い岐阜の正眼寺の雪澤禅師の下へと修行三昧に明け暮れた。 明治11年5月、佐賀県久保田村の寿昌寺より請われ、遠田と姓を改め住職として仏道に精進し、寺の本堂・庫裏の再建など檀徒と共に寺門の興隆に献身した。道義に厚く請われるままに本山の参事職を務めること3回、地方取締役19年、住職33年の永きに亘る。明治43年3月住職を退穏。その後も請われて関係寺院の再興や布教活動に尽力した。享年83歳
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力久 辰齋
明治39年〜昭和52年(1906〜1977)宗教家 久保田町大立野東、力久辰三郎の次男として同地にて出生。父辰三郎は初め漁業を営んでいたが、のち宗教家として活躍した。当時日本で数少ない霊能透視の大家となり、韓国にまで名を知られる大千里眼であった。辰齋は若い頃神戸で電車の運転士や税務署勤めをしていた。父の他界後、昭和元年20歳のとき初めて宗教的立志を決意する。その後20年、独学・独歩・修学・修行を続け、昭和22年多久市筋原の山上に善隣会を立教、瑞鳳園精神修養道場−天地公道善隣会を立教。その間、昭和9年の文部省主催の全国宗教会議に、神道実行教九州代表として出席、東京日比谷市政会館の大講堂には、神道・仏教その他諸教団の代表が参加、発言された内容は戦時体制下の国策に関することで宗教本来の問題ではなかったので、最終日に緊急発言のかたちで「救世宣言」をした。 善隣会は後善隣教に改称されるが、神道と天台仏教が習合した考えかたで、行を重視するが、その1つに「百日千里の行」が代表的行で、生家を起点に久保田の香椎神社、天山神社、清水の観音の3社に参り、生家に帰り着くのは日暮れ時である。この行を百日続けるのは可成の難行である。 善隣教は昭和27年7月29日、宗教法人「天地公道善隣会」となり、辰三郎を道祖、辰齋を教祖と称し、現在は教主から継主へと続いている。信徒は九州・四国を始め、関東以西各地に散在し、アメリカにも支部がある。 聖堂のある善隣の園は、福岡県筑紫野市原田にある。享年70歳
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中島 松二郎
明治8年〜昭和33年(1875〜1958)社会教育者 久保田村久富の中島松右衛門の長男として出生。 若い頃から英才の誉れ高く、俊敏で数理に明るく外柔内剛意志堅固、熟慮断行の人で、人に接しては必ず説得心服させる人徳を備えていた。藩の塾で漢学を学び、聖賢の道を会得し人の和則ち勧戒和平の基なりという信条を以て、ひたすらに地域社会の安寧と繁栄のために一心を傾け、日貫きによる蓄財法を考案したのは弱冠25歳の時であった。当時約130余戸の久富部落は村内最下位の貧弱な生活状況で、特に漁民は困苦その極に達し世相は賭博闘鶏等の悪風習跡を断たず。この更生の改善策は貯蓄奨励と飯米の確保に在りと、先輩諸兄と諮り東奔西走全戸加入が実現した。各戸日々1銭を貯金し必要に応じ組合員に貸し付け、借りやすく知らぬ間に返済できる社会共済金融機関である。貯蓄心が高まり悪習も自ら追放し一躍模範部落に変わった。昭和13年干拓地完成と共に24町歩の美田を取得し各戸に配布し、いわゆる半年飯米確保の目標を達成した。大正5年推されて村会議員となり26年間、自治教育に尽瘁した。産業組合の設立と共に専務理事となり、その発展に寄与す。久保田搦耕地整理組合の発起人となり、完成に至るまで献身的に奔走した。中島松二郎翁頌徳碑は久富の御髪社境内にある。墓は久富の寿慶寺にある。享年84歳
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内田 常吉郎
不詳〜明治42年(不詳〜1909)教育者 久保田町内田喜右ェ門の長男として出生。青少年教育に情熱を傾注した人である。 佐賀市水ヶ江にあった干城社は、明治18年干城学校となり、陸軍士官学校の進学予備校であったが、内田常吉郎は同校の英語教師であった。明治29年、佐賀市与賀町127番地に必習学館を設立、中学校・実業校進学希望者の予備校であった。学習内容は、読書・算数・作文・習字・漢文・英語・倫理で修業年限は1年で、生徒数は100人ほど、館主・館長も常吉郎であった。明治42年、常吉郎逝去のため廃校。その後弟の内田清一は、社会の進運に伴い女子教育の発展の必要を強調し、県知事の認可を得て同地に佐賀実科女学校を設立した。 大正7年(1918)には文部省認可の佐賀実科高等女学校となり、大正12年7月現在教員数28名、生徒数370名。大正13年4月、文部省認可の高等女学校となり、清和高等女学校として発足した。校主は内田清一、校長中島善之であった。
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原田 千之
大正4年〜大正8年(1915〜1919)勤務期間 教育者 西松浦郡西山代村大字久原の出身で、西松浦郡視学等を勤めた。 その当時、最も残念に思ったのは、西松浦郡小学校教育界で師範学校入学者の少ないことで、とくに女子は2年に1人位であった。そのため佐賀・小城方面から年々任用はされるが、長く留まらず、日々の授業に熱意が欠け遺憾な点が多かった。そこで、その救済策として、師範学校入学者の卵とも言うべき、尋常科準教員養成所設立の急務を思付いたが、当時いずれの郡にも該当施設はなく、郡会に発案しても賛成を得ることが出来ず、生徒からの月謝で嘱託教員3名を置いて開設した。入学者は各小学校の高等科卒業生より男女40人の生徒を集め就業年限は1年で、県庁では修業生には無試験で尋常小学校準教員の資格を与えるとの了解ができ、郡内教職員の補充難を緩和することができた。それは明治43年の4月のことであった。 思斉尋常高等小学校校長、僅か4年の勤務であったが、「動的教育」という新教育方法を徹底させた。つまりドルトンプランの日本版というべきものであった。自主性・主体性を育てる、積極的なグループ学習の形態であった。辞書を使わせ、予習を重視し、生徒にディスカッション(討論)を盛んに行わせ、教師はこれを指導する。常に問題を持ち、質問・討論し問題を解決する雰囲気を作り上げた。原田校長の講話は、用意周到で原稿は巻紙に筆で書き、しかも朗読ではなく、威厳があり説得力のある話し方であった。久保田に偉大な影響を与えた名校長であった。当時の思斉校は県内外からの学校視察が絶え間ないほどであった。当時の村長石川又八は、教育の重要性を説き、特に女子教育躾教育が大事であることを強調し、大正3年(1914)久保田村立実科女学校を設立、初代校長は原田千之であった。