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[人物][人物][勧興校区]は15件登録されています。
人物 人物 勧興校区
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武富 時敏
安政2年(1855)、佐賀藩士武富良橘の長男として生まれる。始祖十三官より十世にあたり、明治14年、九州改進党を結成し明治16年県会議員に当選する。明治20年佐賀郡長となり郡の財政を改革、明治23年国会議員となる。内閣書記官長を経て、大正3年大隈重信内閣の時、大蔵、逓信両大臣を歴任した。又、佐賀県下の日刊新聞黎明期において「肥筑日報」を発行して縦横の論議を発表したことも有名である。墓は、武富廉斎と同じく呉服元町「称念寺」にある。
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相良 知安
日本の医学をドイツ式に整え、現代日本医学の基礎を確立した功績者である。佐賀藩医の子として生まれ、長崎・精得館などに進み、帰国後、佐賀藩主鍋島直正の侍医となる。明治2年、鍋島直正に従い上京し、医学制度改革を命じられた。その後、従来の蘭英医学を廃し、日本はドイツ医学に依ることを主張し、その必要を説いた。
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久米 邦武
天保10年(1839)、佐賀市八幡小路に生まれる。幕末、江戸にて昌平黌に学んだ後、明治維新とともに新政府に仕えた。明治4年、岩倉具視の欧米視察に同行し帰国後、「米欧回覧実記」を著した。その後「国史眼」を編集し、古文書学を樹立し、日本古代史の学問的研究に先鞭をつけた功績は大きい。佐賀市八幡小路に息子・桂一郎とともに生誕碑がある。
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久米 桂一郎
慶応2年(1866)、久米邦武の長男として佐賀市八幡小路に生まれる。洋画家。 20歳でフランスに渡り、ラファエル・コランに入門する。この頃、黒田清輝と出会い.明治26年に帰国する。その後、二人は自由闊達をモットーに「白馬会」を創設した。
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岡田 三郎助
明治2年(1869)、佐賀市八幡小路に生まれる。幼時に上京し、旧藩主鍋島直大邸で百武兼行の油絵に接し画家を志す。明治27年、久米桂一郎が指導する天真道場に入門し、その後「白馬会」創設に加わる。同30年にフランスに渡り、ラファエル・コランに師事する。正確に絵を描き、多くの色を使った彼の絵は、世界各地で開かれる展覧会に日本を代表して出品された。昭和12年、日本で最初の文化勲章を授与される。 また、工芸美術の収集、指導にも努力した。郷土佐賀の美術界発展に尽くした功績も大きい。
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山口 亮一
明治13年に生まれ、勧興小学校より佐賀中学校へ進む。明治39年、東京美術学校・西洋画科に入学し、岡田三郎助らの教えを受け、「白馬会」に出品する。その後、帰郷し故郷の風景や花など日本画、洋画を通じみずみずしい作品を多く残す。大正2年に、久米桂一郎らと共に「佐賀美術協会」を創設し後進の育成にも力を注いだ。山口亮一旧宅は、明治初期に白石町須古から与賀町に移築されたものである。
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青木 繁
明治15年(1882)久留米市生まれ。明治の洋画壇に「彗星のごとく現れた画家」が青木繁である。明治15年、久留米に生まれ22歳で東京美術学校を卒業した。そして白馬会展に「海の幸」を出品して一躍名声を上げた。明治40年、25歳の時に久留米に帰省しその後、佐賀や小城など九州各地を放浪する。佐賀では小学校時代の恩師を訪ねたり、「西肥日報」の西英太郎の援助を受け、画展を開いたりする。その時に宿泊したのが、「旅館あけぼの」である。青木は、この旅館に泊り込み佐賀市内や小城などを訪ね歩き数点の絵画を各地に残している。明治44年(1911)波乱の生涯を閉じた。
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武富 廉斎
武富廉斎は、「明人十三官」曾孫にあたりその名は咸亮(かんりょう)と呼び、寛永14年(1637)、白山町に生まれる。幼い頃に漢学を学び、若くして京都に赴き中村愓斎(てきさい)の門に入り、帰国後「鬼丸聖堂」の創始者・実松致斎を育てた。後に、藩主鍋島綱茂公より儒学者として召し出され、大財村「大財聖堂」を建立し藩内の文教に大いに貢献した。又、諫早の慶岩寺住僧より筑紫琴を学び、京都の公家よりは琵琶を学んだ。その琵琶の由緒が後水尾天皇の上聞に達し、御前にて弾奏の運びとなり譽れ相まって「孝鳥弦」の名を賜ったほどである。墓は、佐賀市呉服元町の「称念寺」にある。
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大倉邦彦
明治15年(1882)4月9日、士族江原(えはら)貞晴の次男として、佐賀県神埼郡(かんざきぐん)に生まれる。昭和46年(1971)7月25日、89歳で没する。号は、三空居士(さんくうこじ)。 明治25年(1892)勧興小学校卒業。同35年(1902)佐賀中学校卒業。明治39年(1906)、上海の東亜同文書院(とうあどうぶんしょいん)商務科を卒業後、大倉洋紙店に入社。明治45年(1912)、社長大倉文二(ぶんじ)の婿養子となり、大正9年(1920)に社長に就任した。 わが国の教育界・思想界の乱れを憂えた邦彦は、私財を投入して東京の目黒に富士見(ふじみ)幼稚園を開いたり、郷里の佐賀に農村工芸(のうそんこうげい)学院を開設したほか、昭和7年(1932)に大倉精神文化研究所を開設した(昭和11年に文部省所管の財団法人として認可される)。邦彦は、所長として研究所の運営・指導にあたり、歴史・宗教・教育・思想各分野の研究者を集めて学術研究を進めるとともに、精神文化に関する内外の図書を収集して附属図書館も開設した。また、昭和12年(1937)、東洋大学学長に就任し、在任は2期6年にわたった。 昭和20年(1945)、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘禁されたが、昭和22年に嫌疑がはれて釈放され、27年に研究所理事長兼所長に復帰した。 昭和33年(1958)、タゴール記念会の理事長に就任、昭和36年には大倉洋紙店会長となり、37年の皇學館大學の創立に際して学事顧問となった。昭和41年東京佐賀県人会の顧問も務めた。写真は大倉邦彦と横浜市大倉山記念館(館内の一角に財団法人大倉山精神文化研究所がある。附属図書館を併設)。
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佐藤 尚武
佐藤 尚武は、日本の外交官・政治家。勧興小学校卒業。 林銑十郎内閣で外務大臣、戦後には参議院議長等を歴任、第二次世界大戦末期のソ連による対日宣戦布告当時の駐ソビエト連邦大使でもあった。 1933年、国際連盟でのリットン調査団による報告書の採択の際は、松岡洋右主席代表や長岡春一駐フランス大使とともに抗議の退場をした。 1931年勲一等瑞宝章。1934年旭日大綬章、没後旭日桐花大綬章を追贈される。 昭和8年(1933年2月24日)、国際連盟特別総会においてリットン報告書(対日勧告案)が採決され、賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム=タイ)の賛成多数で可決された。 可決直後、席上で松岡洋右日本全権は「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」と表明し、その場を退席した。 佐藤尚武はこの時、フランス特命全権大使の任にあり、松岡洋右と長岡春一駐フランス大使と行動を共にした。
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千住 虎吉
勧興小学校の初代校長先生である。天保13年(1842)に生まれ、弘道館に学び戊辰戦争で奥羽征討にて功績があった。明治7年、弘道館内の蒙養舎を継承して勧興小学校を創設した時に校長に任命された。その後、17年間にわたりその職にあり、学校教育の発展に貢献した。
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武富 い南(いなん)
武富い南は、始祖十三官から九世にあたり、文化3年(1806)、佐賀白山町に生まれた。 初め中村嘉田に学び、後に江戸で古賀侗門に入り博学多才、和漢古今の多くの書に通じた有名な学者である。 帰国後、藩校「弘道館」の教授となり幾多の諸生を教育し、晩年は、八幡小路に学塾「天燭舎」を興し文教に大いに貢献した。 又、幕末の「楠公義祭同盟」連名帖にその名を見ることができる。 墓は、武富廉斎と同じく呉服元町・称念寺にある。 (注)「武富い南」の「い」を漢字で表記すると、「圯」の右部分が「已」で表記される。
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宇野善左衛門
宇野善左衛門は、鹿島藩士で建築・土木の手腕があり、佐賀本藩に招かれた。 嘉瀬橋の架け替えなどしてその功績が認められ、十五人扶持を与えられた。 多布施川に架かる石橋を自費で架け替え、地元の人々はその橋の名を「善左衛門橋(ぜんじゃーばし)」と名付けた。 寛政13年(1801年)、86歳で没し、墓は多布施の西峰院にある。
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宇都宮 太郎
文久元年(1861年)〜大正11年(1922年)、佐賀市多布施出身・陸軍大将。イギリス公使館付武官、第7師団長、朝鮮軍司令官を歴任した。階級は陸軍大将で桂太郎、仙波太郎と共に「陸軍の三太郎」と呼ばれる。
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西久保弘道・豊一郎・ 豊成
<西久保 弘道> 文久3年(1863年)~昭和5年(1930年)は、警視総監・北海道庁長官・福島県知事等を歴任する。 鍋島村(現佐賀市)に生まれる。明治45年から福島県知事を拝命し、大正3年4月21日には北海道庁長官に就任する。大正4年8月12日に警視総監に移る。西久保豊一郎陸軍少佐は弟。 <西久保 豊一郎> 明治2年(1870年)~明治38年(1905年)は、日本の陸軍軍人。歩兵第50連隊第1大隊長、後備歩兵第29連隊大隊長等を務め、日露戦争で勇戦し、樺太攻略戦に於いて戦死を遂げる。 <西久保 豊成> 明治33年(1900年)~昭和2年(1927年)は、佐賀市立勧興小学校、佐賀県立佐賀中学校をそれぞれ首席となり、熊本陸軍幼年学校に進む。ここに於いても首席の成績を修め恩賜の銀時計を授かる。陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校に進み、大正10年7月27日に卒業する。同年10月26日に陸軍歩兵少尉となり、内務省に務める。前出の西久保弘道は伯父にあたる。