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[物語・いわれ][物語・四方山話][神野校区]は3件登録されています。
物語・いわれ 物語・四方山話 神野校区
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神野今昔物語
足利時代の古文書には、掘江神社は、高木村と出ている。高木村の潟崎の洲にあった芦の生えた野を掘江神社の神領に寄付し、この緑由で神野という地名が生まれたという説もある。 降って徳川時代の元禄の頃には、神野村は「中佐嘉郷」と「与賀上郷」とに分かれ、次のように区分されていた。 中佐嘉郷 神野村、大財村、三溝村、愛敬島村、草場村 与賀上郷 高岸村、多布施村 更に降って文化14年(1817)の記録によれば、 中佐嘉郷 大財、愛敬島、三溝村、草場村、神野村、東渕村、下渕、東中野、西中野、土井村、藤木 与賀上郷 多布施東分、多布施下村、中折村、天祐寺町、本庄東分村、本庄西分村、厘外東分村、厘外西分村、上飯盛、鹿子上村、鹿子下村、新村、末次東分村、末次西分村 明治維新となり、神野、多布施、牛島、大財の各村を区域として戸町役場を設け、明治22年(1889年)4月1日市町村制実施とともに、中佐嘉郷、与賀上郷の傍線の村が神野村となり、神野村役場を置いて、神野、多布施、大財の三大字に分けられた。そして、大正11年(1922年)10月1日に佐賀市に合併された。 合併と同時に、大字神野は神野町に、大字多布施は上多布施町に、大字大財は大財町となった。この3つの町にふくまれた区は次の通りである。 神野町…西神野、東神野、三溝、草場、西通り、新家、平島、愛敬島 上多布施町…大島、高岸、中折 大財町…大財、六反田 この三個町の戸数は、1,026戸、人口は、7,971人であった。合併の祝賀会は、11月18、9の両日盛大に行われ、(昭和48年版佐賀市史上巻)神野小学校の児童も旗行列に参加した。 今は、大財、愛敬島(愛敬町)、平島(天神)、大島(多布施1、2丁目)、高岸(多布施3丁目)、中折(中折町、天祐)は、他校区になっているが、この地区をふくめた旧神野校区の去にし日をふりかえってみよう。 神野村が、なぜ佐賀市に合併されるようになったか、今考えてみると見当もつかないだろうが、合併の頃は、農家が多く、町の形をしていたのは、紡績通り、西通り、堀江通り、三溝の今の263号線沿いくらいのものであった。 明治維新以後の神野村をみると、幕末には高岸に精錬方が置かれ、明治24年には長崎線が佐賀まで開通して、愛敬島に佐賀駅ができ、草場には農事試験場、緑小路には県立佐賀農学校が開校されて、その後、佐賀紡績会社、九州麻糸会社、日本電気分工場、谷口鉄工分場、佐賀瓦斯会社製造場、川上軌道会社などがつくられ、ことに明治の末高木瀬村に歩兵第55連隊が設立されるや同兵営と佐賀市をつなぐ道路(今の263号線)が神野村を貫通し、村発展の可能性が大いに出て来た。また、上水道敷設、道路の改修などが必要になって来、佐賀市には学童の増加による小学校の新築敷地などの問題があり、大正8年頃から神野村と佐賀市の有志の間に合併のことが話題になり、大正11年10月1日の合併となった。(昭和48年版佐賀市史上巻による)
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銅像園の想い出
昭和年代の初め、現在の多布施4丁目、宗智寺及びその周辺一帯は「銅像園」の名称で呼ばれていた。 銅像園の中央に石垣の高台が築かれていた。十数段の石垣を登ると、佐賀藩の藩祖、鍋島直茂公(1538〜1618)の鎧、甲冑姿の騎馬像があった。大正13年(1924)、直茂公が晩年暮らした寓居跡に建立されたものである。 また、銅像の南側に水泳プールが設けられていた。古い写真を見ると、南北に幅25m、東西に50m以上、コンクリート製の当時としては立派なものであった。水は多布施川水路から南側取水口に取り入れ、北側の排水溝に流した。県内外の中学校、青年団の選手が参加し水泳競技会が開催された。しかし、昭和初期になると、多布施川は生活、衛生面から取水が制限されるようになり、昭和10年代には荒れたままになっていた。 昭和12年、日中戦争が始まると銅像園で出征兵士を見送る光景が見られた。元亀元年(1570) 佐賀城の浮沈を賭け、今山(現在の大和町付近)の戦いで勝利して凱旋する直茂公の勇姿像にあやかり、戦勝を鼓舞するものであった。 戦時中、銅像は軍に供出、プールも埋められ当時の面影はない。しかし、「銅像園」は幼き日の郷愁として記憶に残っている。
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神野、堀江通り商店街の今昔
昭和6年(1931)、都市計画の一環として与賀町〜川上線の拡幅街道が整備されることが決定され、永年にわたる拡幅工事が進められた。特に、招魂社(現護国神社)から高木瀬第55連隊までは軍用道路として、急いで整備された側面もあるようだ。現神野変電所付近から川上まで、馬鉄が設置されていた。一説では、諸富から川上まで鉄路が敷設されていたという。 その街道沿いに個人商店が出店し、自然発生的に商店街を形成した。 昭和16年(1941)頃、大和紡績佐賀工場ができ、昭和25年(1950)を中心に1,000名以上の女工さんが寮生活をし、工場内に女子高校ができていたという。 国鉄線路は、佐賀駅の移転までは、現多布施川鉄橋から九電変電所の南側を経てエスペランサマンションの南駐車場、アーサーマンションの建物の敷地を経由していた。佐賀新聞社の北側には、今でも、線路敷地、鉄橋の橋脚護岸が残っている。旧佐賀駅は駅前交番の西で大きい交差点のところ、「一粒300メートル」のグリコの看板塔があって目立っていた。 また、国鉄線路の踏切の南を紡績通り、北を堀江通りと称した。現国道の西の河川を堀江川といい、昔は今の倍以上の広さがあり、じゅぶ台で魚をとり、たなじで鍋、釜を洗い、洗濯がされていた。 国鉄踏切の北側には、青果市場が3か所あり、早朝3時〜4時から大勢、近郊の農家の人々が農作物をリヤカー、車力などに積み持ち込んできた。それを「といやだし」と称していた。市場からその出荷代金を受け取り、帰りに商店街で買い物をした。そのため、堀江通り商店街の開店時間は早かった。 大正時代、昭和初期、堀江通り沿いには各地から出店が相次ぎ、古川活版所、徳島呉服店、竹下陶器店、七田自転車店、松尾たたみ屋、篠原傘屋、江口お菓子屋、小寺薬屋、神野郵便局、数軒の衣料品店、青果店、鮮魚店、桶屋、鍛冶屋、銭湯、酒屋など続々と商店が軒をなし、昭和の終戦後は、紡績通りを入れてその数200軒をゆうに超える大商店街を形成し繁栄していた。また、紡績通りには、西田醤油、高取薬局、スーパーのハシリもりながや、田中かまぼこ店、いろは肉屋、旅館などもあった。 また、国鉄踏切が国道を横切り、長崎本線、唐津線、貨物車の入れ替え、大和紡績への物資出し入れの引き込み線などに貨車が出入りして、踏切の遮断機の上げ下げが頻繁で、トラック、バス、自動車、荷馬車、人とも、南北行き来できる時間が少なく、「開かずの踏切」と称された。 終戦後、進駐軍のジープ等も多く、シガレットサービスと声を掛けると、ガムなどをくれることもあった。 夏の夕涼み時には、国道沿いに各家からばんこを持ち出し、近所集いうちわ片手に囲碁、将棋、世話話など一時の涼を楽しんだ思い出がある(昭和30年頃まで)。 商売人20名前後相集い、たのもし講が各地で行われ、夕食を共にし、昼の疲れを癒すとともに、持ち寄った数十万円を入札による順番で借り、商売の運転資金としあったし、今でもその流れは散見される。親睦会として三夜待ちは今でも行われている。 国鉄貨物の物資の運搬は、もっぱら荷馬車が使われ、空になった荷車にぶら下がったりして遊んだ(昭和22〜23年頃)。現はがくれ荘の北、アーサーマンションあたりに貨物車の集積場があり、現道路南側に運送会社が数軒あり、荷馬車が行き来していて、馬糞が道路上に落ちていた。 旧佐賀駅には操車場があり、蒸気機関車の向きを変える作業が面白かった。 草場、現九電ビルの所に佐賀県農事試験場があり、農事参観デーの期間は多くの参観者が列をなした。西側の流れ小川の水は清く、蛍の見物に出かけていた。 草場天満宮についても、その歴史、謂れなど今は知る人はない。草場の現坂本アパートあたりに神野劇場があったとされるが、今は知る人もない。 ちなみに、神野区画整理事業(昭和30年〜40年頃)、佐賀駅の移転(昭和51年頃)。 国道264号線の二度にわたる拡幅工事などで、前述の三青果市場は移転し、鉄道高架のおかげで便利になった一方、商店は移転、廃業が相次ぎ、草場区は永年居住の人と最近入居された人が混在している状態。ちなみに、高層マンション林立の中で、佐賀で一番にできたマンションは、草場の中央青果市場の跡地に立ったエスペランサ1号館である(昭和45年頃と思われる)。 旧佐賀駅前にあったロータリーの「一粒300メートル」の看板塔も懐かしい。 昭和28年大水害の時は、堀江通りの自宅は床上浸水などで畳を上げた思い出がある。 佐賀駅移転前の線路の跡、鉄橋跡(現佐賀新聞社北側)は今も判別される。 高木瀬の現佐賀市文化会館、県総合体育館の所に第55連隊の陸軍兵舎があり、堀江通りでは、陸軍軍隊の行軍訓練の隊列が見られた思い出がある(昭和20年以前)。現県総合運動場は旧軍隊の広大な練兵場であったが、兵舎は終戦後大陸からの引揚者の宿舎となり、協楽園と称された(昭和34、5年頃まで)。 【商店の慣わし】 正月初荷 お盆薮入り 11月〜12月 誓文払い 徒弟制度(弟子入り) 旦那、番頭、若頭、小僧、丁稚、奉公 残念ながら、二度にわたる国道拡幅事業、神野区画整理事業、郊外型商業施設などで、紡績通り、 堀江通りの商店街の繁栄の面影はない。 ※写真は草場天満宮