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[物語・いわれ][物語・四方山話][北川副校区]は5件登録されています。
物語・いわれ 物語・四方山話 北川副校区
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クリークの思い出
化学肥料のなかった時代は、泥土は地力増進のためには貴重なものであった。各年毎に、裏作、休耕田、地力維持のための泥土揚げに力を入れていた。泥土は、「ブイ」といった荷負道具で、田圃に配られていた。 石井樋からの水が止まり「干落ち」となって泥土揚げが始まると、学校から一目散に走って帰り、勉強道具を投げだし、手網とびくを持って、泥土揚に行き、泥んこになって夢中で魚を捕った楽しい思い出が、今でも忘れられない。 そのころの田舎の蛋白源は、鶏と川魚が主なものであった。 鯉、鮒、鰻、鯰、ドンコー、ドジョー、はや、それから亀もよく捕れた。泥土揚げでとれた魚は、出役の人数で、クジを引いて分けられていた。その鮒は、串に差して焼いたものを吊るして保存しおかずにしていた。 夏には、よく鮒釣りをした。棚地で、米をといだり、食器や釜を洗うので、米粒や飯粒が落ちるので、鮒が集まり、夕方はよく釣れていた。昼には、川岸に浮いている鯉をホコで突いて取った。また竹で作ったドーケで、底に泥と米ぬかを塗って川岸に沈めて、朝と夕方上げると、よく鯉や鮒が入っていた。夏休みの一つの楽しみであった。 また、朝から夕方まで泳いだり、「ヤモ(とんぼ)合わせ」という遊びに夢中で時を忘れて、「もっと早く帰らんばー」と、度々母からしかられた。 ほかに、堀のあちこちに、アバ(足場小屋)を作り、梅雨時など、四っ手網で魚を捕った。秋から冬にかけ、投げ針にドジョーや雨蛙を餌に付けて、夕方川にかけておくと朝には鰻や鯰がよく掛かっていた。 農閑期には、新郷の原口さんたちが、川鵜を使って漁に来られ、鵜が川に放されると、鵜に追われた魚が岸近くまで逃げてくるので、それを前かきですくって捕った。 秋になると、菱の実がよく採れる。地区では、15区くらいに区分して入札が行われていた。菱の茂り具合で、50銭から1円50銭ぐらいで入札されていた。「ハンギー」に乗って菱の実を穫り、大釜で蒸して夕涼みの番台(バンコ)で、皆で食べるのは、そのころのなによりの楽しみであった。 千代田町や久保田町は、クリークが多く菱がよくとれるので、農家の嫁たちは町まで出かけて、「菱ヤンヨー」とふれ歩いて売っていた。佐賀の夏の懐しい風物詩であった。 霜がおりる頃になると川には、川蟹やハクラ(すすき)、亀などが下ってくるので、流れの早い土橋の下に、芦(よし)ずを張り、竹で編んだ「うけ」をつけて、魚をとった。 川漁は、1年中よく行われていた。菱や(うけ)の入札の金が、地区の財源になっていた。 藩政時代の灌漑は、「カッポ」と言って、木の桶に両方から縄をつけたもので水を汲み上げていた。郡代官が巡視に来て、この様子を見て余りの重労働に驚いて、「1日に2反ぐらいの水を汲めるのか」と聞いたのに対し、「1日に8反分ぐらいの水を汲み上げる」と答えている。これを見ても昔の百姓の苦労は、並大抵ではなかったことが良く判る。 安永3年(1774)「此年以来、水車始まる」という記録が残されている。水車ができて灌水能力も上がり、大分楽になったとは言え、今から思うと、やはり重労働であった。 高い田に水を揚げるのには、2段、3段とついで揚げるので、小学校の5・6年になると、水車の前乗りをさせられて、泣く思いをしたことを覚えている。しかし、田圃に鯉を養殖してあって、だんだん大きくなった鯉が、水口に集まって来るのを見るのが、せめてもの慰めであった。 大正11年頃、今のような電力による機械灌漑が始まり、労力軽減に大いに役立ち、農業経営が非常に楽になった。農業の機械化の第一歩である。電線が張り廻らされたので危ないから凧上げが中止になった。 機械灌漑によって水車を踏む必要がなくなり、上水道の普及によって、飲料水取水の必要がなくなった。そのため、川への関心がうすくなり、農薬による汚染が進むにつれて、河川の荒廃も急速に進んで来て、用排水機能がいちじるしく低下して来た。 そして、国際情勢が変わると同時に、農業を取り巻く情勢は、きわめて厳しいものがあり、農業経営の合理化のために、農業基盤整備が急がれてきた。
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徐福伝説
今から約2,200年前、皇霊天皇の72年、万里の長城を築いた秦の始皇帝の第3子徐福が、始皇帝の命を受け、不老不死の薬を求めて、20隻の新造船に、若い男女500人を連れて、五穀を初めさまざまの品物を持って、蓬莱(ほうらい)の国日本に向って船出した。 そして、九州に現われ、有明海に入り船を着けたのが、諸富町搦(からみ)であった。 そこで、長旅の疲れをいやし、由緒ある土地であるからとして、美しい宮を建てたのが、金立神社下宮となっている。そして、手水を使うために井戸を掘らせた。そこを、テライ(手洗いの意)と名付けた。園田家に保存されている。 徐福は、しばらくここに足をとどめていたが、つれづれなるままに、里人と共に舟を浮かべて、酒宴を開いた。歌をうたい、盃を浮かべて、酒をくみ交わしていると、その盃の浮かんだ所から、白い泡が出て渦を巻いたかと思うと、一つの小島が浮かび出た。 これからこの島が浮盃と名づけられ、どんな大潮が押し寄せても沈まなかった。(現在の浮盃は、いつの間にか地続きになっている)。 幾日か後、徐福の一行は、ここを出発して北の方に見える山へ向かった。道という道はなく、一面青々とよしが茂っていた。行々子(よしきり)が声を立てて鳴いていた。一行は、よしを押し分け押し分けて進んだ。このよしの片方の葉だけが落ちたために、片葉のよしとなって、今でもそれが生えている。 よしの原が続き、道らしい道もなく、難渋したので、持ち合わせていた布を敷きながら、今の三重から水町を通り、北川副村の光法から、江上町、枝吉、そして紺屋町、柳町、呉服元町(金立さんのお下りの道)を通り、やがて山麓に分け入ったのが、金立村の入口であった。そこまでに敷いた布が1,000反に達したので、その地を千布と名づけたと伝えられている。 徐福の一行が、金立村の入口に到着すると、源蔵という里人が、ていねいに出迎えた。源蔵は、この辺の豪族で、酒屋を営んでいたが、邸宅も大きく酒などを出して、遠来の客をもてなした。源蔵には、お辰という美しい18になる娘がいた。 蓬莱の美酒に酔った徐福には、花にもまごう日本娘のお辰の風情に、若い血を湧かせ、お辰も、たくましい体に異国の服をまとった徐福に心を引かれ、二人は激しい恋に結ばれて、人目を忍ぶ逢瀬を楽しんだ。 やがて、源蔵に案内されて、薬草を探しに、山に分けいった。「ほんとうに、不老不死の薬は、この山にあるか」と尋ねる徐福に、源蔵は、「必ずありますから」と安心させて、方々を探し回ったが、なかなか見つからなかった。 ある日、二人は痛む足を引きずり頂上の裏の方に行くと、白髪童顔の仙人が、しきりに釜の中で何かゆでている。ニッコリ笑って、自分の方から「何のために、こんな所まで来たのか」と問いかけた。「実は、不老不死の薬草を探しているが、見つからず、困っている」と答えると、仙人はカラカラと笑った。「心配はいらぬ。この釜の中のものが、それじゃ。わしは千年も前から、ここに来て、こうしてこの薬を飲んでいるのだ。おかげで何年たっても年はとらず、この通り元気だ」と言って腰をたたいて見せた。 「この薬は、この山の横から谷あいまで、岩の間や大木の根などに生えている」と言って、取ったばかりの薬草を渡したかと思うと、立ち昇る白い湯気と共に消えていった。 二人は、大変喜んで、あちこち走り回って、たくさんの薬草を採集して、みんなで飲んで、若さを楽しむことができた。 徐福は、すぐにもこの薬草を始皇帝に贈って喜ばせたいと思ったが、海路は余り遠く、贈るすべもなかった。一行中には、500年も生きたと言われる者もいたが、いつの間にか死に絶えて、伝説の夢を追う人々の話の中にのみ生きている。 徐福が求めた不老不死の薬草は、「現在金立山に生えている黒蕗(くろふき)がそれである」と伝えられている。植物学上ではウマノスズクサに属するウスバ細幸と称するもので、(みちのね草)(谷アフイ)(みやぬな)などと言われている。 今史跡として残っているものは、搦の上陸点、金立神社下宮(今移転して搦の青年会場)、浮盃、寺井の井戸、片葉のよし、千布のお辰観音、源蔵屋敷の源蔵松などがある。 また、伝説にはいくつも言い伝えがある。 徐福は医学者で、長寿を願う始皇帝は、多くの者に医学を学ばせ優遇したと言われ、徐福もその一人という。 徐福の渡来も、単なる薬草探しではなく、日本に対する移民政策だと言う人もある。3,000人位の人が、徐市、徐名、徐林、徐福たちに連れられて、日本に渡って来て、農耕や漁法を教えて土着したり、他に移動したりして、方々に伝説を残しているという。 九州でも、先ず伊万里に着き、黒髪山に登って薬を探し、それから有明海に入り、竜王崎に来た。薬草のある所がわからない徐福は、「大盃を浮かべて、それが流れついた所で、薬草を求めよ」とのお告げを受けて寺井津の搦に着いたとも言われている。 また一説には、神武天皇のご東征の順路と共通点があるとして、日向を出発して大船団を率いて、男軍、女軍に分けて、東に向けて移動し、崗水門に着き、両方共に熊野に到着して、そこに留まって、多くの史跡を残したと言うのである。 神武天皇と徐福は、その通過した道順一帯から、弥生文化の遺物が出土した。神武も徐福も、同じ様に大きな弓を使用した。日本開国に出てくる神話と徐福の国の神話が同じであるという。神武と徐福は、歴史の舞台において、同じ時代に、同じ地に出現した卓越とした人物として、なかには同一人物論を説く学者もいる。
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福満寺の回国塔
福満寺の門前に残る回国塔は、高さ6尺余りの花崗岩で、少し傾いて建っている。前面には、中央上部に仏像を彫り、その下に「大乗妙典回国之塔」の8字、右側には、「天下泰平」、少し下に「奥州津軽」、左側には、「国家安全」、同じく少し下に「行者諦賢」、また裏面には、年月日が刻んであったようだが、「享保年間」とだけしかわからない。 享保2年(1717)春3月、彼岸会の最終日、寺の門前を訪れた一人の六部経持ちの旅僧は、見たところ40年輩の頑丈な男、やや面やつれはしているが、一文字眉で髭はぼうぼうとしているが、精悍の気がみなぎっている。伏し目勝ちにため息をもらし、両眼に涙を浮かべて、何か意味ありげであった。旅僧は「お頼み申し上げます。お願い申します」と、応待に出た老僧に、「奥州津軽の生れで、諦賢と申します。実名だけは、お許し下さい。私の犯した恐ろしい罪は、ザンゲいたします」と申します。「それで回国なさるのか。何はともあれ、罪業消滅のため一切ザンゲされるがよい。私も相談にあずかりましょう」と答えた。 私は、奥州津転の岩木川のほとりに一家を構え、渡し守をして、夫婦二人食うや食わずの貧しい暮らしでした。正徳12年(1722)5月、降り続く雨に、今日は風まで強く吹き込んで、水かさは増し、ごうごうと渦まき流れていた。 床に入ろうとしたとき、「船頭さん、船頭さん。ご用じゃ、お上みのご用じゃ」と言う。 諦賢が驚いて外へ出ると、一人の飛脚が立っていて、「実は、明日までにぜひ届けねばならぬご用金、気の毒だが、川を渡してくれ。骨折賃は、ウンとはずむ」と言う。事情を聞けば、いかにも気の毒である。飛脚一人を乗せて船を出した。雨は止んだが、暗雲が垂れ込め、水勢は激しく小船は上下左右に揺れ動き、なかなか前に進まない。飛脚は、向う岸に着くのを願ってかたずをのんで前を見つめている。その時、隙をうかがっていた船頭は、持っていた櫂を、飛脚の脳天目がけて打ち下した。飛脚は、「船頭、お前は俺を殺す気か、何の恨みがあって、こんなむごいことするのか」と言う。船頭は、「お前に恨みはないが、持っている金が欲しい。金を渡せ」と言う。「恨みもない者を殺すとは、極悪人め、たとえ殺されても、生れ変り死に変り、恨みを晴らさでおくものか」「やかましい。往生ぎわの悪い奴だ」とやりとりがあって、また一撃脳天を打ち砕かれて、アッと一声、そのまま絶命した。舶頭は、飛脚の懐をさぐって、金子300両を取り出し、死体を水中に投げ込んで、岸に引き返した。 家に帰ると、妻が、「おかえり、ほんの今、飛脚さんが見えた。お前さん、そこで会わなかったかい」と言う。「いや、今向う岸に渡してきたばかりじゃないか」と船頭は答えると、妻は、「いや確かに、ここでうなだれて立っていた。よく見ると、頭から血を流していた」と言う。「そんなことがあるものか、もう言うな。俺はひと寝入りする」と言うて、寝たが、別に怪しいことは起こらなかった。 それから女房は懐妊し、月満ちて、男の子が生れた。一粒種の息子を大事に育て、3年過ぎた。その3年目の5月、しとしとと降り続く雨の夜、目を覚ました子どもが、小便をしたいとしきりにせがむ。その夜に限って、外に出ようとせがむ。仕方なく外へ出ると、今度はあっちと言って、船着場を指した。そこで抱きながら放尿させていると、ジロジロと父親の顔を見上げながら、子どもは「父ちゃん、私が殺されたのは、ちょうど3年前の今夜のような真の闇夜だったのだろう」と、大人の声しかも、あの夜の飛脚そのままの声で言うではないか。船頭はびっくり仰天、水を浴びたようで、体も凍らんばかりで、口もきけず身動きもできず、ただ立ちつくした。やがて、われにかえり、因果は恐ろしい。こうしてはおられぬ」と、家に飛び込んだ諦賢は、妻に3年前の飛脚殺しの一部始終を打ち明けた。 「この上は、罪業消滅のため、かつ飛脚の菩提を弔うために、六部となって回国しようと決心した」と妻に話した。「外に、道はあるまい。後のことは私がやるから、一刻も早く飛脚が浮かばれるようにしなければ、坊やの命にも災いがないとも限らないよ」と、妻も勧めた。そこで私は「早速仏門に入り、66か国の回国の途につき、3年余り廻って、ここに来ました」と、話した。 ここで、福満寺の老僧の好意によって、1年余りを過し、その間に回国の塔を刻むのに精魂を傾け、竣工すると別れを告げて、再び行雲流水に身を托して、いずこともなく立ち去ったというのが、回国の塔の由来である。
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佐賀の化猫騒動
鍋島勝茂公は、窮迫した藩の財政建て直しのために、領地の開拓による国益の増強を図るべく、有明海の干拓事業に着目し、白石の秀津に館を建て、よくこの館に来ては、工事の督励に当たった。 当時、武家の間には、鷹狩りの技がもてはやされ、佐賀藩でも、白石平野が藩随一の鷹狩り場とされ、勝茂公も、須古山、杵島山一帯、太原での鷹狩り、猪狩りを常とした。白石に来ては、この白石の館に滞在することが多かった。 ここに逗留(とうりゅう)する夜は、土地の者と語り合うことが常であったという。しかし、ここは龍造寺氏の家臣の領地であったために、鍋島家にとっては、必ずしも居心地は良くなかったらしい。 しかし、「葉隠聞書」によると、「この館は、白石秀林館と言い、勝茂公御狩り(須古山のお狩り)御鷹狩り(白石太原のお狩り)のため、ご逗留され候御館なり。ご隠居後は、御東(佐賀城)並びに秀津をご住居にされる思召の由……」とある。 化猫騒動は、この白石館を舞台にしたもので、寛永17年(1640)春3月のある宵、花見に疲れた勝茂公が就寝されたとき、風もない月夜に一陣のなまぐさい風がサッと吹いて、桜の花が散った。 不思議に思った千布本右衛門邦行が、南庭の方をジッと見つめると、暗やみの中に、何者とも知れぬ怪物が現われた。「おのれ化けものめ」と切りつけると、ヒイヒイとけたたましい叫び声を上げて、築山の陰に逃げ去った。 このようなことがあってから、勝茂公の近臣の発狂、庶子君の怪死などの怪しい事件が続いたり、勝茂公自身が、夜度々うなされて気分がすぐれぬ日が続いた。 そうして、ある夜の真夜中ごろ、勝茂公の寝室近くに、ただならぬ気配が感じられたので、近習の者が駆けつけると、愛妻のお豊の方が、「退れ」と、形相を変えて叱りつけたという。同じようなことが二晩も続いたことを知った本右衛門は、重松という武士と二人で、勝茂公の寝室の見通せる場所に身をひそめて、宵の口から見張りをしていた。 その夜中に、生温かい風を感じたと思うと、猫の鳴き声を遠くに聞いた気配がして、そのまま眠りこみ、気がついたときは、夜が明けていた。 前夜も怪しい気配がしたので、近習が寝所に駆けつけると、例のごとくお豊の方が、言葉も荒々しく叱りつけた。中の様子をうかがうと、勝茂公は、床の上で苦しみもがいていたという。しかし、相手は、主君の愛妻であってみれば、どうにもならない。 その翌日の夜、本右衛門は、「今夜こそ、実態を見届けよう」と心に期し、短刀を股にはさみ、眠りこけると短刀が股を刺すようにして、夜半を待っていた。どの位たったか、寝所を見やると、勝茂公もお豊の方も、もう寝ついていなければならないのに、お豊の方の影が、障子に写っていた。 よくうかがうと、寝室にただならぬ気配がし、中では、うめき苦しむようで、その度にお豊の方の影が動き、もがき苦しむ気配が感じられる度に、クックックという女の含み笑いの声が聞こえる。こうしたことが何度か繰り返されていたかと思うと、ひとしきり苦悶の声が高くなって、お豊の方の障子の影が横を向いたとき、本右衛門が見たのは、紛れもなく猫の影であった。 猫の影は、主君勝茂公の苦しみもがくのをあざ笑うように、これでもかこれでもかと、何か復讐しているような姿であった。 思わず短刀を握りしめて立ち上ろうとしたが、眠るまいとして股にはさんでいた短刀の傷で、股の痛みがひどく、どうしても立ち上がることができなかった。 間もなく寝室の灯が消えて、何事もなかったかのように静まり返り、どこかで猫の鳴き声を聞いたかのように思うと、本右衛門は、眠りに落ちていった。 昨日まで春の花に酔っていた秀林館も、今日は、惨雨愁風の妖気が漂うようであった。 今宵もまた、お豊の方は愛嬌よく、勝茂公の酒の相手をつとめていた。愛妾お豊の方が怪しいとにらんだ本右衛門は、サッと主君の居間に飛び込み、お豊の方の側に走り寄り、電光石火、エイッとばかり、大身の槍を構えて、一気に突き刺した。 この不意討ちに、勝茂公はびっくり仰天、「おのれ、本右南門、汝は乱心したか」と、大刀を取って、はったと睨みつけた。この時、本右衛門は、主君に一礼し、「殿、このお豊の方こそ、お家に仇なす怪物の化身、よくご覧ください」と言う間もなく、また女の脇腹を突き刺した。 近習の家臣たちが、すわ一大事とばかり、時を移さず、お居の間近く駆け付けた。 本右衛門の最後の槍先は、化猫の本性を現わした怪猫の急所を貫いた。怪猫は血に染まりながら、のたうち回り縁側から庭先へ逃げうせた。短い夜が明けてみると、築山の陰に怪猫が打ち倒れて、うめいていた。 それは、物すごい大三毛猫の死がいであった。 千布本右衛門は功労によりこの地に領地を賜った。
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佐賀空襲
昭和20年8月5日から6日未明にかけて、佐賀市周辺は、B29の洗礼を受けた。 マリアナ基地を発進したB29約30機は、九州西海岸を北上して、佐賀平野上空に侵入した。5日午後11時30分頃から、1分から3分間隔にて、6日午前1時頃まで、約1時間半にわたり、北川副・西与賀・諸富付近に、焼夷弾攻撃を加えた。それに、本土近くまで接近してきた航空母艦から飛び立ったグラマン戦闘機から、無差別の機銃掃射が人影に浴びせかけられた。 この佐賀空襲の時の北川副村の被害は、小学校が全焼、岩松軒(がんしょうけん)、光源寺をはじめ焼失家屋91戸、死者21名であったと記録されている。なお、佐賀空襲における被害は、旧佐賀市、諸富町、川副町、東与賀町、久保田町に及んでいて、死者合計は61名、焼失家屋は443戸であったと記録されている。