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木原隆忠の墓誌
重要文化財
木原隆忠(文政11年~明治12年、1821~1879)は、佐賀城下に生まれ、藩校弘道館に入学。そして江戸昌平黌に学び、後、弘道館教諭を務め、戊辰の役では参謀として江戸に入り、そして会津戦争に参画した。佐賀の役ではその善後策に尽くし、後には家塾を開いて子弟教育にあたるなど数々の功績を残している。 その徳を慕って、同志117名が建立した「木原先生之墓」が法蔵院(廃寺、伊勢町)跡の墓地にある。この墓から砂岩で加工された墓誌が出土し、現在法蔵院の本寺の大覚寺に保存されている。 墓誌は、死者を哀悼追慕して、金属板や塼、石などに姓名、経歴、没年、法名などを記して墓内に埋納する副葬品である。 この墓誌は、市内では多久安輝の墓誌についで2例目のものである。 この木原隆忠の墓誌は、肥前の近世墓誌の系譜をそのまま受け継いだ簡潔なものの一つであり、墓末~明治維新期を研究する上で、貴重な歴史資料である。
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灌漑記念碑
東分下の耕地は、巨勢地区でも土地の高い所で、踏み車で水田に水を汲み上げており、当時、毎日水田に灌水して維持していくのは並大抵の苦労ではなかったのです。踏み車を2段、3段と連ねての水入れ、朝は3時、4時から蚊に刺されながら、小学生までも動員しての車踏みが毎日、毎年繰り返されました。そのため多くの人手と労苦は大変なものでした。そこで大正10年に東分耕地整理組合を作り機械灌漑施設を取り入れる事業を始めました。しかし日本で初めての事業で困難がつきまといました。最初は5馬力のディーゼルエンジンを据えて実施しましたが、この発動機が不調で失敗しました。次に小型発動機を船に積んで行う舟形揚水機を真崎鉄工所が開発して実施しましたが、船の運行が不自由の上、機械に不慣れで失敗しました。そして翌年真崎鉄工所が2馬力の電力モーターによる揚水機を開発し、電力の導入など問題は山積みしましたが、モーターと揚水機は真崎鉄工所が受け持ち大正12年に完成しました。この機械灌漑は佐賀平野に急速に広がり、東分下のこの事業は日本の先駆者となり、その記念碑が建っています。碑文は当時の県知事の作です。