幕末・明治の佐賀

幕末・明治の佐賀

■所在地佐賀市(赤松)
■登録ID2498

幕末の名君鍋島直正は外国船が日本にたびたび来航する中で、いち早く国防の必要性を献策した。佐賀藩の独力で、いまの日新小学校のところと上多布施の2か所に反射炉をつくり鉄製大砲を鋳造した。これは日本における最初のものである。ここでつくられた大砲は品川台場、紀淡海峡、長崎台場などに備えられた。佐賀は幕末日本最大の兵器廠であり、藩製の大砲は戊辰戦争で威力を発揮した。
明治2年鍋島直正は藩籍を奉還、同4年廃藩置県によって中央集権的な国家体制ができあがった。肥前国では旧藩のまま県になったが、その後数回にわたって佐賀県の統廃合が行われた。佐賀城には置県とともに県庁が置かれたが、明治7年2月佐賀戦争があり、城内は戦火に遭い、大書院、旧藩主の居間、鯱の門を残して焼失した。その後の経過を記すと、大書院は佐賀中学校の校舎につかわれたが、大正9年解体、その一部は大隈重信の墓のある赤松町の龍泰寺の再建に使われた。藩主の居間は、戦後南水ヶ江町に移され、同地区の公民館として活用されている。現在、佐賀城の面影をしのぶものとしては、鯱の門とその両側の石垣だけとなっている。
一番残念なことは、戦前東の城濠を完全に埋めてしまい、近年また城内公園の遊歩道建設のため、
南の城濠を狭くし、往時の濠幅の半分くらいになっている。一時天守閣の復元運動もあったが、それもいまは下火となり、佐賀城跡はいまやビルの谷間に低くなり、忘れ去られようとしている。

出典:佐賀城下みて歩きP2