与賀界隈は寺のまち

与賀界隈は寺のまち

■所在地佐賀市(赤松)
■登録ID2506

与賀ん馬場は辻の堂堅小路、妙安寺小路、石長寺路、精小路など多くの小路が交錯、その間を結ぶ通称「あや」という路地道も多い。昔の武家と寺院が混在した地域である。
古地図をみると与賀社の北に梅林寺(廃寺)、光照寺、南に延命院、その西に阿弥陀院(廃寺)、南に印鑰大明神と龍泰寺、佐賀大学通りに面した浄土寺、石長寺、精小路の加昌院、その南の泰長院。古地図には泰長院の塔頭として無量軒、瑞珠軒、大儀庵、西珠庵、妙珠庵の名がみえる。その南に水月寺、隣りして善定寺と佐賀城下で社寺が最も多い。社寺が多いというのは、それだけ当時は文化度の高い地域であった。学僧といわれた泰長院3世是琢は朝鮮の役に従軍、講和の功績で白米30石加増、寺で精米したことから「精」の名が起ったといわれる。その里から寛政の三博士といわれ、佐賀弘道館創設にも寄与した古賀精里、佐賀七賢人の一人島義勇もこの地の出身である。水月寺には葉隠四哲の一人石田一鼎の墓がある。善定寺は名僧不及を生んだ寺で、幕末、勤王僧で日本歴史に残した月性「男児志を立てて郷関を出ず」の作者も、2年間不及塾で学んだ。その子孫木山定生は日本宗教界に貢献、明治44年、京都女子専門学校(現京都女子大)の創立者。この寺には慶応3年(1867)パリ万博に佐野常民と参加した野中古水(野中烏犀圓先々代)墓がある。浄土寺には日本近代絵画の先駆者百武兼行、佐賀画壇の重鎮だった山口亮一の墓がある。

出典:佐賀城下みて歩きP12