厄神祭(やくじんまつり) | さがの歴史・文化お宝帳

厄神祭(やくじんまつり)

所在地 佐賀市三瀬村中鶴
登録ID 1284

出典資料から記載

旧暦1月15日に行なわれるが、新暦では2月のうちにはいる。
 医学の発達していなかった古い時代には、疱瘡や風邪その他もろもろの流行病は、人知では防ぐことのできない病気で、人々の生命をおびやかすものとして非常に恐れられた。このような悪疫の原因は、悪病をはやらせる力をもつ神のしわざであると信じ、その神を疫神あるいは疫病神とよんだ。この疫病神が分散活動して村々を襲い、悪疫をはやらせるとして、その活動を鎮めるために特定の場所に疫神を鎮座させて、毎年祭りを行なうようになった。疫神は花の散るとともに分散して活動をはじめるという思想から、毎年花の散る前に疫神祭が行なわれた。
 村内では中鶴に厄神をまつってある。祠の扉の表面には「厄神」と刻まれ、扉の内側には寛文癸丑13年(1673)の字がかすかにのこっている。
一般には疫神と厄神を同義語としてとりあつかっているようであるが、祭りの内容からみて、ここの厄神は疫病神とは違うようである。社殿もなく石祠だけ建てられていて、扉の中をのぞけば蓮台に座して合掌した仏体を刻んである。祭りは神式で行なうが、御神体は仏の姿である。したがって祭神は悪疫をはやらせる疫病神ではなく、そのような災厄をもたらす鬼を退治してくれる神様として祀られているようである。
 毎年旧暦1月15日に神官を招いて祭りを執行する。祭主は地区内の各茶講内が交代で受持ち、祭田の耕作から祭の準備その他一切の世話をする。祭費は祭田の収益でまかなう。めずらしい祭りであるので詳細に述べてみよう。
 祭具は榊(お祓い用,玉串用)・しめ縄2本・的引縄3本・弓矢・大的・藁製の小的・槍などで、前日までに祭主の茶講内で準備する。
しめ縄は祠の前とまわりに張るためのものである。大的は鬼退治用のもので直径2m以上の大きなものである。骨組は真竹を割って作った長い竹ひごを、特殊な編み方で円形に組みあげたもので、各戸から集めた新聞紙やハトロン紙をその両面から幾重にも貼り合わせて大的に仕上げる。表面に的輪を描き中央に鬼の面をとりつける。
鬼の面は槍で突けばすぐ落ちるようにとりつけなければならない。
裏面の中央には鬼の字を書いておく。昔は鬼面はなく、鬼の字を紙に書いて表面の中央に貼ったが、鬼面をとりつけるようになってから、鬼という字を裏面に書くようになったという。
的輪や鬼の字をかくための黒汁は鍋釜についた黒い煤でつくり、筆は藁の穂先で作ったものを使うことになっている。
 大的をとりつける支柱と枠は、厄神の祠の前方3、40m離れた段々田畑の上に、前日までに立てておく。立てようとすれば折れ曲る大的を、的引縄でつりあげて簡単にとりつけられるように工夫してある。
 弓は常緑樹で作り、弦には麻ひもを張る。矢は篠竹で作り、紙の羽根を神官が器用にとりつけてくれる。弓と矢の大きさは弓道に使用される弓矢と同じくらいに作る。
 槍は2mくらいのものであるが、材料は必ずダラの木を使用することになっている。
 お祓い用の榊と玉串は神官が作ってくれる。 
 お供えは、魚・野菜・御神酒・しとぎ(生米を水に漬けて搗きくだいたもの・しとぎにそえる大豆、輸切大根、塩・ごぼうぬた(短冊牛蒡のみそあえで、とうがらしをきかしてある)・めざし、などで茶講内の婦人が総出で作ってくれる。
 祭りの当日は祭場に婦人が参列してはいけない。お祓いと祝詞の儀がすむと、的引きがはじまる。
3人の若者が大的のふち3カ所にとりつけた的引縄をとって、大的が地につかないように空に浮かせて段々田畑を駆け登り、的枠にとりつける。
とりつけが終わると神官の従者(祭主)が弓と3本の矢をとって先導し、神官はダラの木の槍を持ってつづく。大的の前まで進みでてから、鬼のようすを回毎にうかがいながら、右回り3回、左回りに3回まわって、従者(祭主)が大的をめがけて左・右・中央の三カ所に矢を射込むと、すかさず神官が槍で鬼を突き落して最後のとどめをさす。
これが終わると祭場にもどり、玉串奉典の儀に移る。参詣者の礼拝が済んだ後、儀式をとじる。このあと全員御神酒としとぎをいただき直会の宴に移る。
 以上のように、ここの厄神祭りは、疫病神を送り出したり、祠に封じ込んだりする行事ではなく、災厄をもたらす鬼神を退治したのち、玉串を捧げて厄よけを祈る形式をとっている。しかも、祭神は痩せこけた疫病神の姿ではなく仏の姿であるところをみると、中鶴厄神は疫病神ではなく、厄よけの神仏として祀られたもので、地区民の信仰も厚く、その年の災厄を除いていただくために、年毎にこの厄神祭りが営まれてきたのであろう。
 古老の話によれば、昔から日本三厄神の一つであるといい、権威ある神として地区の人々に畏敬され、この神に無礼をはたらくと神罰を被むると伝えられた。事実、石祠のそばにある木を売ってくれと強く相談したばかりに、神罰を受けて変死した人もあったとのことである。
 この祭りには、井手野、柳瀬両地区からも代表者が参拝し、御神酒を神前に供える慣行になっている。
出典:三瀬村史p636

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