山本常朝

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山本常朝

■所在地佐賀市金立町
■登録ID1772

万治2年(1659)生まれの佐賀藩士で、「葉隠」の口述者。通称神右衛門。童名不携。市十郎、権之丞とも名乗った。佐賀藩士山本神右衛門重澄が70歳の時、その末子として出生。重澄は中野神右衛門清明の3男で山本助兵衛宗春の養子となり、山本家を継いだ。幼少の頃の常朝は、20歳以上は生きながらえることはできないだろうといわれるほどの虚弱な体格の持ち主だった。
しかし、臨終の病苦に耐えて呻き声を出さなかったほどの剛の者の父重澄は7歳の常朝に武者草鞋をはかせて小城市三日月町の勝妙寺までも墓参に赴かせるほどのスパルタ教育を行なった。常朝は9歳で佐賀藩2代藩主鍋島光茂の御側小僧になり、次いで小々姓、成人後は御傍役、御書物役となり、光茂に近侍した。その間、儒教、仏教の造詣深く、当藩第1の碩学とうたわれた元佐賀藩士石田一鼎宣之の薫陶を受けた。一鼎は、そのころ松梅村下田(佐賀市大和町下田)に閑居していた。また、同村松瀬の華蔵庵にいた禅僧湛然にも師事した。元禄13年(1700)藩主光茂が没すると、常朝は出家剃髪して金立山麓の黒土原の草庵に隠棲した。佐賀藩士田代又左衛門陣基がその庵を訪ね、宝永7年(1710)から7年間をかけて、常朝の談話を筆録したのが、「葉隠」の中核となった。常朝の法名は旭山常朝、墓は、佐賀市八戸の龍雲寺にある。

出典:佐賀県大百科事典