高木氏

高木氏

■所在地佐賀市高木瀬町
■登録ID1819

 東高木の通称郷倉という所に、「高木城の跡」という標識が建っている。鎮西屈指の豪族として盛えた、高木氏の居城の跡である。
 高木氏は藤原累代の豪族であって、大織冠鎌足の正統、中関白藤原道隆公の後裔といわれる。公の子文家及びその子文時何れも、中納言太宰師であった。文時の子文貞は右近衛中将、その子季貞は太宰の大貳であった。このように代々太宰府の官吏であり、又肥前国龍造寺の地頭職となった藤原季家という者もあった。要するに、太宰府の役人であった藤原一家の者が、この地方に土着、勢力を張り附近を支配するようになったのが、高木氏の起りである。
 佐賀郡誌にも、清和天皇の頃より、国司は遙任の風を馴致し、介、椽等の府吏地方に勢力を得るに至った。本郡にもまた府吏より家を起して一方に雄飛する豪族を出した。その主なるものは北方に高木氏あり。と書いてある。
 季貞の子、貞永というのが越前守と称し平家残党追討のため、この地に下向して高木の地に居館を構え、その長子宗貞の時から、所の名を取って高木氏と号するに至った。
鎮西志に貞永に三子あり。長を宗貞と日ふ、肥前に在り、高木氏を始む。其の虞を以って氏號と為し、兼ねて河上社の宮司職を掌る云々とある。
 藤原季家が肥前龍造寺の地頭職に補せられたのは、文治2年(1186)9月27日とあるから800年近くも前のことである。
このように貞永の時代から高木に居城を構え、その守り神として高木八幡宮を創建し、武威を四方に拡大した。
高木宗貞は肥前守と称し代々国府執行の職にあり、在廳国司の謂にして、於保郷を知行す。ともあるから、高木地方のみならず、川上の於保地方にも領地を持っていたのである。また宗貞は、河上社の宮司をも兼ねていたのであるから、上佐賀一帯が高木の支配下にあったということができる。そして草野、北野、上妻、於保、益田、八戸、笠寺、長瀬、富崎、龍造寺等の家系として、発展して行ったのである。
 越前守貞永が、八幡社を創建したことについては、別稿八幡社のところで詳述のとおりである。
 又鎮西志に「正嘉元年(1257)北條時頼、薙髪して道崇と號し、肥前国佐嘉郡北原河上社に至る。祭祠の日か、詣りて神前に参り、高木氏の社参に遇ふ。高木氏は上佐賀、諸縣の若干地を領地して勢の有る者也。本地は甘南備峰、居館は高木邑、特に當社の宮司職たり。騎卒多勢、列々詣づ焉、修業する者社邊を徘徊す。或は之を迫ひ、或は之を將ゐ、其の場に引きずり、卒を以って遂に之を退く。其の所為太だ無礼也。亦且つ高木氏の駕する所の鷲泥、衣袍に及ぶ。道崇蜘○して本所に還る。夫れ高木氏は、上佐賀の所領を削られ、其の地を以って、国分忠俊を封ず。今朽井鑰尼(鍵山)と稱する。云云とあり。
 思うに、北条時頼が姿を変えて地方行政を視察するため諸国行脚をした折、このように高木氏の郎党共が、高慢無礼の所行があり時頼の装束まで、汚泥をつけてしまった。その非礼の責任のため、後々上佐賀の所領を削れたのであろう。そこで、鎮西志には、室町以後、此の氏、何によりてか、南北朝以後大いに衰へ、永享6年(1434)、嘉吉元年(1441)などに僅かに見ゆ、但し天文(1530-)の末年に、高木能登守鑑房、同胤秀等あり。東西高木と稱して猶存せしが鑑房、龍造寺隆信に誅戮せられ、全く亡ぶ云云とある。
 高木氏は、太宰少貳の系統であったから、文永、弘安所謂元寇の役の時にも、少貳氏の指揮下に在って国難に当った。高木一族の高木伯耆守六郎家宗、国分弥次郎季高、於保四郎種宗等は大いに戰功をたてた。
 鎌倉幕府が滅びてからは、朝廷側の菊池氏と戦ったが中央の形勢が非となるや態度をかえて北條を攻めて探題を自害せしめた。後醍醐天皇の皇子尊良親王下向の際はまた反朝廷側につき高木伯耆太郎という武將もこの方に味方した。南朝北朝の覇權爭いの時代、いつも少貳氏との旧縁で、北朝の將軍方に属していた。征西將軍懐良親王が九州に、出征されたときも高木氏は反宮方であって、勤王方の菊池氏と戦っている。
 天文22年(1553)龍造寺隆信と鑑兼(隆信の妻の兄)との同族の争のときには、高木城の高木鑑房同胤秀は鑑兼の方に加担した。高木胤秀は西高木城主といわれている。高木の系統である八戸宗暘も鑑兼の方についたが、宗暘の妻は隆信の妹であったから八戸氏とは和議が成り立った。
 天文23年(1554)3月、隆信は高木城主・高木能登守鑑房を討つべく兵を進めた。元来高木と龍造寺は同系であり共に少貳氏に属していて、今まで相争うことはなかった両家に角逐が起ったのはこれが初めである。鑑房は隆信の軍を三溝に迎え、防戦したが戦利あらず、去って杵島郡佐留志の前田氏を頼って落ちのびた。
近世に至って、東高木家より、佐賀戦争や西南の役に参加した、高木豹三郎の名がある。その子誠一郎・高木背水は明治10年生れ昭和18年に没したが、洋画家として名を残した。明治天皇の御肖像を初め、多くの名画を残した。明治天皇の御肖像は、背水師の原画に基づくものが多い。背水画伯のことについては高木背水伝や、佐賀史談昭和48年7月号に詳しい。西高木家からの系統は明治の初期東京控訴院検事長であった、高木秀臣、東大国際法の教授であった法学博士高木八尺氏などがある。
高木城跡、八幡社、正法寺門前等にある由緒碑は、昭和16年11月この高木背水氏と高木良次氏が建てられたものである。
 高木城はどんな規模で又その広褒はどうであったろうか、記録等何一つ見当らない。又東西の高木に分れていたものの、その城跡、居館の跡も定かでない。郷倉から少し離れた田圃の中に、一つの丘陵があったが、四周から削られて今はほんの数坪ばかりの土塁があるが、ここには熊野大明神が祀られている。こんな所や、東高木、上高木、下高木、寄人の地域に、館、馬場先、櫓の下、前櫓、西櫓、守垣、垣元、門之内等の地名が残っているから、そんな所が高木城の跡であろう。又館橋から東流する、今は県営水路となっている小川の北側は、横堤といって竹林が生い茂っていた。この竹薮は高木城を隠す役目をしていたという。この点から考えても高木城はさほど大きくない、平城或は館であったことが判る。

出典:高木瀬町史P61〜63