長瀬天満宮の苗琳坊

長瀬天満宮の苗琳坊

■所在地佐賀市高木瀬町大字長瀬(長瀬天満宮)
■登録ID1832

当社座主は苗琳坊、開山は堺主斗頭二男康一法師の孫である。初の天台宗の僧となり、苗琳坊を建立しその座主となり数代は清僧で相勤めていたが、後になって妻帯僧となって三代程続いていたが、神前の勤めを、疎そかにした故に、神罰を被り、寺地の在家となったが慶長元年(1596)に苗琳坊も絶えて終った。元は天台宗であったが近代は真言宗となっていた。
 この由緒記のことについては、専門家でないとよく判らないと思うが、往時神仏混淆の時代があり、神社は多く寺院の支配を受けていてこれを抱え宮といっていた。冒頭の祭神の如きも、天照皇太神が大日不動、天満天神が地蔵文殊、福午大明神は弁財天毘沙門となっている。従ってこの天満宮も苗琳坊の下に所属し、坊の住職が神主を兼ねていたと思われる。苗琳坊廃絶の後は、西長瀬の法常寺が長瀬天満宮と若宮神社を抱え宮としていたという記録もある。
 最末尾の宮司坊以下の記述は何とも判断し難い。宮司坊というのは苗琳坊と同じように末社関係の坊であったかも知れない。今は社役を離れているが筋目正しい続き柄であるから何れ時節到来の節は、社役に就かぬばならないということであろうかと想像される。
尚右の永禄年中の戦については鎮西要略及肥陽軍記に次の様な記述がある。
鎮西要略云。
永禄年中豊後軍放火神埼郡押寄龍造寺戸次鑑連吉弘鑑種会於神代長良而龍府之北陣塚原與水上臼杵鑑速龍府之東陣干姉村神代長良先駆到三溝鑑連陣高木社鑑理屯長瀬社継之 肥陽軍記云。
永禄12年大友勢佐嘉城を囲み攻め城北は長瀬三溝まで取詰めたり。4月6日城中より百武志摩守の手の者三溝長瀬へ突出で一戦に及びけれども利あらず帰城す。

出典:高木瀬町史P157〜158

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