龍造寺隆信公と網漁業(立切網・はじさし網)

  1. 産業
  2. 漁業
  3. 検索結果
  4. 龍造寺隆信公と網漁業(立切網・はじさし網)

龍造寺隆信公と網漁業(立切網・はじさし網)

■所在地佐賀市川副町
■年代中世
■登録ID2058

 天文20年(1551)、豊後の大友宗麟に内通した家臣等に水ヶ江城を攻囲され龍造寺隆信公(1529〜1584)は、柳川城主蒲池鑑盛を頼って落ち延び、筑後柳川に近い一木村に身をひそめた。
天文22年(1553)ひそかに水ヶ江城奪還を企てていた隆信公は鹿江兼明らの舟に乗り込み犬井道地先の燈堂に上陸した。当時、この辺一帯は、まだ葦の生い茂った海岸で、航路の安全を祈る灯りをつける堂があったことからアカシドウと呼ばれている。
この時、水先案内をつとめたのが漁夫の園田二郎兵衛と犬井道新兵衛で、この両名に、今の漁業権にあたる立切網・はじさし網(定置網)を許可する「お墨付き」が下された。この判物木札は、慶長10年(1605)、隆信公の弟長信の子与兵衛(多久二代目邑主安順)が園田と犬井道に対し、従来どおり(はじさし網)【漁法について後段で解説】の特権を認め、魚百掛を藩に納めるように命じたもの。
この漁業権は、その子孫等により守り続けられている。
燈堂にある隆信公の坐像は、昭和28年4月、この子孫等有志により建立されたものである。
その後、隆信公は鹿江の威徳寺に入り、川副・与賀郷の武士3,000余名の協力を得て旗揚げし、以来30年間に渡って破竹の勢いで周辺の武将を降ろして、遂に五国二島の大守となり、薩摩の島津、豊後の大友と並ぶ九州の後の雄藩を築き上げた。
威徳寺には、寺宝として隆信公の法体の「画像」と隆信公が使用したと言われる「陣太鼓」がある。小々森にある此荷大明神(コノニダイミョウジン)は威徳寺で軍備を整えた際、この地に軍荷を置いたと言われている。
早津江の志賀神社には、隆信公が使った軍旗が残っている。
また、町内には、海童神社(犬井童)、天満宮(咾分)天満神社(鰡江)、天満宮(船津)、天満社(重久)、天満宮(小々森)、海童神社(広江)天満社(久町)、天満社(新村)など、隆信公ゆかりの神社も多い。
このように、戦国時代の英雄であった龍造寺隆信公と川副町の因縁は大変深い。
■網漁業【立切網・はじさし網の説明】
『鹿江崎大詫間江、はじさしの儀堅存申にまかせ、魚百掛、上江さし上申可然候、以上慶長十年八月十日』の御判物板札以来、400年続いた漁法である。
犬井道潟、大詫間潟に600間の身網をはり、3間置きに五寸竹を立て、干潮時に網を敷き込み、8合満に網を建竹に張り上げ、浮魚は干潮時に棚網で、また底魚は裾に集めて捕獲する。
漁夫20人から30人、船4隻から7隻、漁獲物は、あかめ・えびな・ぐち・つなしなど、漁期は4月から10月まで、戦後は年中操業していたが、のり養殖漁業の普及に反比例し、現在は操業されなくなった。

出典:龍造寺隆信公まつり実行委員会パンフレット・川副町誌