河上神社 | さがの歴史・文化お宝帳

河上神社

所在地 佐賀市大和町大字川上1
年代 古代
登録ID 2102

出典資料から記載

 飛鳥時代に創建された神社である。平安後期以来肥前国一ノ宮とされていることは周知のところである。祭神は与止日女神で、「肥前風土記」には石神世田姫としている。「延喜神名式」には佐嘉郡内唯一の小社と記されている。
 当時の肥前国内での大社は、東松浦郡加部島の田島神社であったが、平安後期になると河上神社が肥前国の一ノ宮とあがめられるようになった。米倉二郎氏は、これは、唐津・呼子地方が大陸との交通の要点であったのが、それが消極化による不利及び国衙(国府の官庁)近傍である河上神社の有利性が両者を交代させてしまう結果になったのであろうと説明されている。
 河上神社文書の建久4年(1193)10月3日付在庁官人署名在判の書状に「当宮は一国無雙の霊神、三韓征伐の尊社なり」と記されてあり、又実相院の座主38世尊純僧正が、佐嘉藩主鍋島勝茂に差出した「河上由緒差出書」に、次のような5つの事が書いてある。
一、当社の祭神は与止日女大明神である。神功皇后の御妹で、三韓征伐の昔、旱珠・満珠の両顆を以て異賊を征伐された後、今この地におとどまりになった。
二、当社の創建は、欽明天皇二十五年(564)甲申歳である。
三、当社の祭礼を五月と八月の二回にして、流鏑馬の行事祭礼を行う。郡別割当は次の通りである。
 五月=佐嘉郡、三養基郡、高来郡(長崎県南北高来郡)
 八月=神埼郡、小城郡、松浦郡(東西松浦、長崎県南北松浦)藤津郡、彼杵郡(長崎県東西彼杵)
四、更に当社の境域は、東は春日城の辻、西は水上山の蛭谷、南は平野宮、北は小坂の辻
五、社 領
 往古(平安朝時代まで)勅免の地、肥前国並びに他国を含めて一万三千四百七十町二反
 中古(鎌倉時代より織豊時代まで)田畑三百五十町、但し社納五百二十五石 天正年中まで
 近世(織豊時代より江戸初期まで)鍋島勝茂公寄付 慶長十八年(1613)
  田畑 二十五町四反三畝二十五歩 百七十二石四斗九升七勺
  敷地 四町六反二十八歩 内、講堂座主ならびに寺中社家敷地四町六反二十八歩 外、山三十町
 ここにある境域も社領も実相院を含めたものである。このころは神仏混交の時代で、宮司と共に社僧も又神を祀る風習が当たり前であった。そのため、大きな神社は付属の寺を設けて僧侶を住まわせていた。河上神社は平安後期以来肥前国の一ノ宮とされ、亀山朝の弘長元年(1261)正一位を授けられている。河上社と、川上川を隔てた東方至近の所に肥前国府があり、国府の政庁である国衙から河上社は特別の尊崇と保護を受けていた。又、一帯の住民も敬神の念が強かったのである。
 工藤敬一氏は「それは川上川が佐賀平野の大事な用水源であったので、その源を押さえる位置にあったからであろう。」と説明されている。川上川の水が「御神水」と呼ばれる所以もここにあったのである。住民の敬神厚い河上社と連携し保護していた国衙はとりもなおさず民心を握る上にも、肥前国の統治上大きな力であったかも知れない。
 国府の政治力も平安朝までで、鎌倉期以降は公家と武家の二元政治になり、国府政治力の弱まりは河上社の運営に響き、河上社を管領する座主の支配力が減退していった。支配力の減退は座主をめぐる争いや免田米の滞納がふえ、数々の訴訟事件が続発した。
 南北朝期の河上社は、鎮西探題であった今川了俊や、肥前国経営にあった弟の今川右衛門佐仲秋によって、在地領主と共に保護が加えられている。
 一方、河上社の内部機構は安徳・鑰尼・尼寺等の在地勢力者達の一族によって支配され、南北朝の動乱、不安定の中にも、比較的安定した経営が続けられてきた。近世になっても佐賀藩からの保護が加えられている。
出典:大和町史P98〜101

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