国分尼寺 | さがの歴史・文化お宝帳

国分尼寺

所在地 佐賀市大和町尼寺
年代 古代
登録ID 2106

出典資料から記載

現国分僧寺前の十字路より西へ約300m、大昌寺跡という所がある。これが国分尼寺跡と考えられている。春日小学校東側の道を今もなお大昌寺馬場と呼んでいるが、その道の北端に当たる所に正覚寺の石門の建った家がある。ここが尼寺南入口と見られ、この地域に1坪(1町2反)余の寺域を考える事は妥当と思われる。国分僧寺のように4坪(4町8反)の広さはなかったようである。正式の名前は法華滅罪之寺といって尼僧約 10人が住んでいた。境域は南側が東西に62間(111m)、東側が南北60間(108m)の条里制の1坪と見られ、周囲に堤防があったのは築地のあとであろう。今は周囲の土塁も破壊されているが、南を除く三方の土塁の外側に空堀があり、土塁は空堀の土を利用して造られたと思われる。年移り今はその跡もなく、住宅地や工場地に変わっている。伽藍配地は礎石移動のため今のところ全くわからない。
 ほかに8個の礎石が尼寺の八木弥太郎氏宅に、庭園内庭石としてあったのが、今は又移動して行方不明のままである。
 徳川時代の初期、再建の時ほとんど移動し、現在では更に根本的に開墾のため移動して、建造物の復元推定に役立つ物はない。ただ柱座が75cmの物、63cm,くらいの物、48cmの物と3種あったことはほぼ推定される。遺瓦の鬼瓦と平瓦は奈良時代と認められる物が出ているが、巴、唐草が発見されていない。あるいは大昌寺復興の際に処分したのだろうか。
出典:大和町史P127〜129

地図

関連情報

総合検索
サイト内検索

ご利用案内
comodo ssl