鎌田景弼顕彰の碑

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鎌田景弼顕彰の碑

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■所在地佐賀市大和町都渡城
■登録ID2189

 鎌田景弼は天保13年(1842)熊本城下古京町に生まれ、明治16年(1883)5月初代佐賀県令として赴任し、明治21年(1888)6月病を得て死去した。
 景弼は在職5年有余にわたり、県令(知事)として県内の道路、河川の改修、中学校の建設、県庁舎の新築等の大事業を完遂し、県民の信望極めて厚かったという。
 景弼は県令在職中、風光明媚の川上峡を愛し、しばしばこの地に足を運んだという。県民はその功績の偉大なるを称え、県内の有志が相図って、川上峡を眼下に見る宝塔山親正寺の境内に頌徳碑を建てた。
 荒木精之著「熊本県人物誌」に鎌田景弼を次のようにのせている。
『佐賀は県人の性格が剽悍で、議論がさかんでもっとも難治といわれているところであったが、彼はよく県人の意見に耳を傾け、是を是とし、非を非としてかたよらぬやりかたでのぞんだので、半歳もすると県人の信望を得た。時に千歳川の治水の命が下った。費用若干万円で佐賀県一県だけでも16万円を出さねばならぬ。この重大の際にあたって彼は県人にはかり、国道をひらいて治水を一緒にすることにした。この同時政策は一方の出血をおぎなって多くの政済が出来、佐賀はこれで蘇生の思いをしたという。また九州鉄道の如きも福岡の安場保和、熊本の富岡敬明、佐賀の鎌田の三県知事の協力によって出来たものであり、そのため佐賀県にも1つ位駅がなければと、鳥栖駅が出来たという話もある。』
 鎌田景弼の頌徳碑はあまり知る人もなかったが、たまたま昭和12年5月1日早朝宝塔山親正寺住職宝蔵寺学進(昭和48年卒)が霊感によって碑文を書写中50年祭に相当すること感知し、有志と相図って50年祭を行い、今日まで例祭が行われている。

出典:大和町史P.546,549〜550

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