官人橋 | さがの歴史・文化お宝帳

官人橋

所在地 佐賀市大和町都渡城
登録ID 2210

出典資料から記載

 明治13年(1880)7月「長崎県より河上川筋二付而之問答書」の中に「河上宿の上、桜馬場の辺より井樋口下まで河中に細長き島有之、支河の姿に見たり、成富創業の時はこの島はなかりしともいふ。都渡城宿よりこの島に仮板橋を架し(旧暦九月より五月まで之をかく)、この島より桜馬場の南詰にかけたる長短一聯の橋を勧進橋といふ。この橋も寛文のころまでは今の場所より数十間水上に、都渡城宿へ桜馬場より直ちに土橋を架したり………」とある。
 昭和24年(1949)の水害までは桜が一面に植えられた中の島が勧進橋の上下に細長く横たわり、東側で嘉瀬川に通ずる本流と、西側で一の井樋に通ずる芦刈水道とに分水していた。
 この中の島も寛永のころ(1624~1644)成富兵庫茂安の水利工事によってできたようで、川上宿から都渡城に通ずる橋はこの島を中継した長短一連の板橋で、これを勧進橋と呼んでいた。それは旧9月の淀姫社例祭から免田の納米、3月の実相院お経会、更に5月淀姫社例祭と利用し、雨期に入る6月ごろから8月ごろまでは渡し舟による以外なかったようである。
 元禄(1688~1704)のころ、佐賀藩のお抱え絵師小原友閑斉が描いた「肥前河上淀姫社の図」は桜馬場の桜が満開した4月ごろの風景で、中の島に板橋がかけられ、又、約20段の石段を登った高台に淀姫社の境内があり鐘楼も見える。又大楠の向こうに実相院の一部も見えている。現在と比較して、より荘厳であり興味ある絵である。(県立博物館所蔵)後世になってこの板橋も土橋になり、それがコンクリート橋に変わったが、更に昭和24年の水害によって流失したので、場所も元の橋より約80m上流の現在地になり鉄製の吊橋が昭和28年3月完成した。
 勧進橋の名称は葉隠聞書にも見られ、天明5年(1785)河上神領絵図面にも勧進橋と記載してあり、又明治39年(1906)九州沖縄八県聯合共進会の時、協賛会が出した佐賀県案内には勧進橋と明記しているから、官人橋と書くようになったのはそれ以後で、大正時代以後ではないだろうか。
出典:大和町史P.603〜605

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