葉隠とその教え

葉隠とその教え

■所在地佐賀市大和町
■年代近世
■登録ID2247

 葉隠は葉隠聞書ともいう。佐賀藩士山本常朝は2代藩主鍋島光茂が死んだので武士を捨てて髪をおろし金立の黒土原に閑居していたが、同じく光茂に仕えていた御書物役を勤めていた田代陣基も御役御免の身となった。この陣基が常朝を黒土原の草庵に訪ねたのが宝永7年(1710)の3月で、それから享保元年(1716)まで前後7年間にわたり常朝の談話や常朝自筆の「山本神右衛門清明年譜」「山本神右衛門重澄年譜」「愚見集」「常朝書置」等を参考にして全11巻にまとめたものである。この葉隠聞書の内容は佐賀藩の伝統的精神に基づく教訓や藩祖直茂、初代勝茂、勝茂の子忠直、2代光茂、3代綱茂らの言行が前半で述べられ、後半に佐賀藩士達の逸話や史跡・伝説等を集めて述べている。それも名前まであげたのが多いこともあるし、「他見の末にては遺恨悪事にもなるべく候間、堅く火中仕るべき由、かえすがえすも御中候也」と、焼き捨てることを命じている。したがって葉隠11巻は秘本であり、佐賀藩士の間にはこっそり写されて読まれていて、出版されて広く世人に読まれる書でもなく、常朝自身も堅く焼き捨てるように、弟子の陣基に厳命しているのである。そこで藩校の弘道館でもついに教科書として用いられるに至らなかったという。
 常朝は湛然和尚、石田一鼎から教えを受けており、この湛然、一鼎、常朝、陣基を「葉隠の四哲」と呼んでいる。この葉隠では武士道を説いたところがよく知られているが、その中心的な考え方は四誓願というもので代表されているといってもよい。四誓願というのは
一、武士道においておくれ取り申すまじき事 一、主君の御用に立つべき事
一、親に孝行仕るべき事       一、大慈悲を起し、人の為になるべき事
 というのである。葉隠の第十一に「すべての人の為になるは我が仕事と知られざる様に、主君へは陰の奉公が真なり………陰徳を心がけ陽報を存ずまじきなり」とあるように、陰の奉公隠徳を重んじ、いやしくも自分の功績を現わすことを競うようなことがあってはならないという意味で葉隠という書名を付けたともいわれ、又田代陣基が山本常朝をたずねたこの地方には「葉がくし」という柿が多くあるところから、この柿の葉隠れに語ったためという説もある。更に前述したようにこの葉隠は「追って火中すべし」とあることから、広く世人に読ませる書ではなかったので「葉隠」というともいわれている。
 この書は全11巻、1358節から成り、総論として「夜陰の閑談」があり、次に直茂・勝茂の言行が第3巻より第5巻までの大部分を占め、第6巻より第11巻までは藩士の言行を主として取り上げている。葉隠の根本精神は総論に述べている四誓願であるが、これは石田一鼎の「武士道要鑑抄」の三誓願にならったものと考えられ、この三誓願に慈悲の心を加えて一つのまとまりを付けているものである。
 この慈悲の心は恩師湛然和尚の教えによるもので、武士は勇気ばかりでなく、慈悲の心が必要であると説かれていたためと思われる。葉隠の談話はほとんどが四誓願の武勇、忠義、孝行、慈悲であるが、最も強く述べているのは藩主に対する忠義である。
  「我が身を主君に奉り、速に死に切って幽霊になりて、二六時中主君の御事を歎き、無理無体に奉行に好き、無二無三に主人を大切に思へば、それにて済むことなり」
  「御主人より懇ろに召し使はれ候時、する奉公は奉公にてなし、御情なく無理千万になさる時、する奉公が奉公」
 というような献身的忠節であり、
  「武士道とは死狂ひなり…………本気にて大業ならず、気違ひになりて死狂ひするまでなり
  「刀を打折れば手にて仕合ひ、手を打落さるれば肩節にてほぐり倒し、肩切離さるれば口にて首の十や十五は喰い切り申すべく候」
 とあり、烈々たる気魄のある武士道であるということができる。
 わが郷土大和町はこの葉隠に関係した史蹟が多く散在しており、又内容的にも郷土に関係したものが見られる。

出典:大和町史p281〜284