蒼海伯副島種臣誕生地 | さがの歴史・文化お宝帳

蒼海伯副島種臣誕生地

所在地 佐賀市鬼丸町
登録ID 2436

出典資料から記載

幼名次郎。体弱く引込思案。父佐賀藩士枝吉種彰(南濠)。藩校弘道館教授。国学者(経書、詩文)弘道館宝蔵院槍の指南役の武人。兄枝吉経称(通称、李之助。号、神陽)は水戸の藤田東湖と並び称される。種臣は次男、号、蒼海・一々学人。18歳の時、副島利忠の養子となり改姓。生家は現在取り払われ、その地には佐賀県福祉施設が建っている。敷地内に「蒼海伯副島種臣誕生地」と刻まれた巨碑が建てられている。
幼少の頃、恵まれた環境に育ち藩校弘道館ではクラスで首席。2万巻の書物を読破の優秀児。父の感化もうけ、兄神陽の烈しい勤王思想の感化をうける。江藤新平、大隈重信、大木喬任と「義祭同盟」を結んだ。長じて藩命により上洛し皇学を修め諸藩の志士と交流した。幕末動乱について論議し「一君説」を唱え若くして尊王攘夷運動に投じ、将軍宣下の廃止を進言し討幕論の先駆者となった。明治維新にはよく藩主を助け重きをなさしめた。元治元年(1864)種臣は大隈重信などとともに、藩主鍋島直正の許可を得て長崎に「致遠館」という英語学校をつくった。教師にはアメリカ人の宣教師フルベッキを招き、外国の憲法、新約全書を学ぶかたわら漢訳国際法などの研究にはげんだ。慶応3年(1867)鳥羽伏見の変が起こったとき長崎奉行は逃亡し、一時長崎は無政府状態となった。この時各藩の有志に推され、各国領事に維新の意義を説明し、長崎港を管理するとともに関税もとどこおりなく納めさせた。
これが種臣を新政府へ出仕させるきっかけとなった。新政府が組織された時、佐賀藩士で只一人最高地位を得、参与となった。政体書の起草、官制立案、新律綱領立案等の法典編纂に当った。次いで参議、その間外交使節として樺太境界線問題を解決し、明治4年には渡欧の岩倉具視にかわって外務卿に就任した。翌年、ペルーの商船マリヤ・ルーズ号がマカオから清国人奴隷200人を乗せて横浜に入港した。種臣は人道上許されないとして、職権で船を抑留して解放させた(奴隷解放)。この処置に対して、ドイツ、フランス、ポルトガルの政府は日本政府に抗議し国際問題となったが、結局は日本の処置が勝利し種臣の勇気ある行動は高く評価された。また、大使として清国に派遣されたとき老獪(ろうかい)な李鴻章との応酬機宜をあやまらず、琉球問題にも敏腕をふるい、日本外交の礎を築くとともに国威を発揚することができた等、数多くの逸話が残されており、その外交手腕は外国高官の高い評価を受けている。明治6年征韓論によって廟議が分裂した時は、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らとともに民選議院の設立に名を連ねたが、自由民権運動には参加せず3年間中国を漫遊し、李鴻章と旧交を温めるなど日中友好に力をそそいだ。明治11年中国から帰国した種臣は、明治天皇の信認によって宮内庁御用掛兼明治天皇の一等侍講に任じられ、天皇に内外の情勢などについて講義し厚い信任をうけた。
しかし宮中のしきたりや格式などに嫌気がさし、病気を理由に辞意を表わし引篭った時、天皇から直接宸翰(手紙)を賜った。当時、侍講には多くの学者がいたが、いかに信頼を受けていたかがわかる。また種臣がいつも清貧に甘んじているかを知らされた天皇が侍従を遣わし、2万円を種臣に御下賜になった。種臣は天皇の温かい心に感激の涙を流しながら「天皇は万民を平等に愛し給うのが本当の姿で、1個の私を愛し給うものではない。今、国内には天災などで困っている人も多いので、できればその方々に差上げてほしい」と、これを辞退した。種臣の高潔寡欲恬淡(こうけつかよくかったん)は明治政府家中、第1位といわれた。明治25年松方内閣の時、議会が混乱し流血事件が発生した。この危機を救うために高邁な人として種臣が内務大臣として選任されたが事ならずして辞職した。明治17年伯爵を授けられた。再び枢密院顧問官に任ぜられた。
【書家 副島種臣】
種臣は書家として明治時代の最高の一人である。種臣の書は1字1字全身全霊がこめられており、気品に富み人柄が表われ、見る者に襟を正させる何ものかがある。現在佐賀新聞の題字は副島種臣としてある。
【詩人】
また、詩書にもすぐれ思いつくまま雄渾な筆で書きまくった。後の世俗を越えた雅趣が詩人以上の詩をつくらせ、書家以上の書を書かせたのではないかと思われる。
【質素と道楽】
種臣は生涯を通じ質素で食事も豆腐におから、ひじき、こんにゃくが好物で酒は飲まなかった。来客があっても貴賤の別なく十錢弁当を出すことにきめている。
ただ一つの道楽は相撲が好きで、力士を可愛がり借金をして化粧まわしを贈ったりした。明治38年1月病気になり天皇から特旨をもって桐花代授章を下賜され、ねんごろな見舞の言葉を賜った。死期が近まった種臣は力士に棺をかつがせるよう遺言し、同月31日にこの世を去った。葬儀の2月6日は大相撲春場所の最中であったが、横綱常陸山以下20人の力士が種臣の棺をかついだと伝えられている。墓は東京の青山墓地と佐賀市本庄町高傳寺にある。
出典:あゝ佐賀城その歴史と周辺P56

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