万部島

万部島

  • 万部島
  • 万部島
  • 万部島

■所在地佐賀市水ヶ江一丁目
■登録ID2455

万部島は昔は川に囲まれた島であった。
龍造寺家兼(剛忠)が水ヶ江城内で法華経一万部を修業、読誦した経文を書写して城の東北の鬼門(陰陽道で悪魔が出るという北東の方向)に奉納した。(読経納経)この地が万部島である。家兼(剛忠)は「我が子孫、秀いずる者あらねば則ち下民を撫育し、慈悲垂れて家臣を憐れみ、人道を勤めておこたる勿れ」といい貯えていた財宝をことごとく貧民に施し、領民が借用していた銀米類一切を棄損(慈善・公益・救済などのための寄付・ほどこし)したという。
鍋島勝茂(初代藩主)より直大(11代)に至るまで萬禱石塔の記念碑が11基建立されている。
祈禱石碑 形式−台石、蓮華代、棹石(上部三角) 同一形式状寸法
第1基 松平肥前守藤原朝臣勝茂
第2基 大守従四位肥前侍従松平丹後守藤原光茂 同嫡男
第3基〜第11基(国家安泰、万民安楽祈念)
国家安泰・万民安楽を祈願するならわしは各藩で行われたが、佐賀では、鍋島氏以前、龍造寺家兼が永正2年(1505)3月、天亨和尚を導師として、野田石見が奉行となって領内の僧300人を集め執行したのが最初である。天亨和尚は剛忠の弟で水上山万寿寺の僧。また乾亨院の開山である。万部祈願塔をかまえたことは、天災地変によりこうむる年毎の災害が、最小限度に済むように、国家安全にして連続万代におよぶように、藩主一族、領民のすべてが安らかにして諸願円満に成就するようにと、大法要を営み、仁政のほどをしめしたことを裏書きするものである。

出典:あゝ佐賀城その歴史と周辺P49

地図