佐賀城跡 | さがの歴史・文化お宝帳

佐賀城跡

所在地 佐賀市城内 佐賀市城内(本丸跡及び堀水面)
文化財指定状況 佐賀県 史跡
文化財指定日 平成13年2月28日指定
年代 近世
登録ID 2459

指定文化財

佐賀城は、佐賀平野の低平地に築かれた、最も幅広の所で約72m(40間)の堀に囲まれた典型的な平城である。この城は、天正年間に整備された龍造寺氏の村中城を拡張し、慶長13年(1608)から慶長16年まで鍋島直茂・勝茂親子の佐賀城総普請により完成した。その際、本丸・二の丸の曲輪は新たに付け加えたといわれている。慶長年間に描いたとされる「佐賀小城内絵図」の本丸には、5層の天守閣と多くの殿舎が描かれており、本丸が鍋島佐賀藩の象徴であったことが窺われる。
佐賀城は、大きな火災に2度遭っている。享保11年(1726)の火災では天守をはじめ本丸・二の丸・三の丸のほとんどが焼失し、享保13年に二の丸、宝暦5年(1755)に三の丸が再建された。その際本丸の再建は見送られ、二の丸が藩政の中心となった。天保6年(1835)再び火災に遭い、二の丸が焼失したため、10代藩主鍋島直正は110年ぶりの本丸再建を表明し、「佐賀城御本丸差図」が作成された。天保9年には直正が新築成った本丸に入り、佐賀藩の雄藩化や日本の近代化に大きく貢献していくことになった。
佐賀城の発掘調査は、これまでの調査で、石垣や堀などの曲輪を区画する遺構や通路跡を断片的に確認しているが、平成5年(1993)から平成13年の間に実施した本丸跡の調査では建物礎石のほか、多くの遺構が残存していることがわかった。
本丸は、北側・西側・東側の一部を石垣で、東南半と南側は土塁で囲んでいる。寛政6〜10年(1794〜98)には本丸南側に石搦が築かれたことが記録されており、調査により築城期より南側に7m拡張し、赤石(安山岩質凝灰角礫岩)を積み上げていることが明らかになっている。本丸の規模は、東西が二の丸との間の水路から三の丸との間の堀まで194m、南北は鯱の門東側石垣から南堀までが190mある。本丸内部では、東西が土塁の内側で(東・西とも土塁の幅を14mとした場合)158m、南北が広い東側で(南側土塁は幅を21mとした場合)162m、最も狭い天守台南側で(土塁幅を21mとした場合)105mある。天保期の「佐賀城御本丸差図」に描かれている御玄関・御式台・外御書院・御料理間・御座間・御台所等の建物跡は、差図とほぼ一致する状態で確認されているが、大御書院・大溜・御舞台については、差図と確認された遺構が一致しないことから、この部分にあたる遺構は嘉永期の差図に描かれている皆次郎様御住居・御会業之間等の建物跡であることが明らかになっている。御式台・外御書院・御料理間等の建物礎石の基礎は、礎石ごとに砂利や玉石を使い基礎を固めているが、御納戸や屯之間等の基礎は幅約1m、深さ約1.5mの溝を柱筋に掘り込み、最下部に松の丸太を組み合わせて置き、その上に粘土混じりの砂と割った瓦を交互に重ねて地固めし、最後に礎石を載せている。このことは、「御手許日記」の、工事費を節約するために松と「赤石」を使って基礎とするという記録と一致する。また天保期再建の建物礎石の約0.5m下からは、享保期の火災時の灰をかぶった状態で建物礎石が見つかっており、この礎石は慶長期のものである可能性が高い。
佐賀城跡は、堀の一部は埋められているものの、当時の趣をよく残している。また、西国の近世城郭では石垣普請による城郭構築が一般的であるが、石垣と土塁を併用した例はあまりなく、天守台は、本丸内部から登る通路がないことなど、他の城郭と比較しても特異である。特に本丸内部の建物遺構は、築城期から廃城期までの変遷を追うことができ、天保期再建時の建物群は、礎石の遺存状況の良好さに加え、その規模の大きさ、本丸内部に占める密集度など本丸御殿の様相をよく表している。本丸御殿は、御玄関・御式台・外御書院などの「表」の部分、藩主の居室である御座間などの「中奥」、長局などの「大奥」機能に加え、請役所や御懸硯方の「役所」機能も取り込んだ、藩政のまさに拠点としての役割を果たしている。近世の城郭で本丸内部を発掘調査した事例は少ない上、「表」「中奥」「大奥」機能に「役所」機能を付随した発掘調査例は希少で、城郭史・建築史の観点からも非常に貴重な資料である。
鍋島35万7千36石5斗9升9合の居城。別名 栄城・亀甲城・沈み城ともいわれている。村中城を拡張して構築された城。
【築城の経過】
1.天正18年(1590)藤原清房(鍋島系図)龍造寺家兼(剛忠)(龍造寺系図)が筑地・大濠用意する。翌天正19年(1591)豊臣秀吉、朝鮮征討令、秀吉肥前名護屋へ向かう。鍋島直茂・勝茂父子2万の兵を率いて従軍した。
2.慶長7年(1602)鍋島直茂・勝茂、村中城を拡張整備に着手する。
3.慶長12年(1607)、西の丸櫓完成。天守閣の瓦焼き始め。牛島口、八戸口、その他曲輪普請。
4.慶長13年(1608)、佐賀城普請、家中屋敷、町小路、堀わり着工。
5.慶長16年(1611)天守閣完成。総竣工なる。勝茂、蓮池城から移り住む。(総年数21年)
【築城の総奉行】
1.鍋島主水
鍋島直茂が勝茂(初代)の生まれる前、養子にと望んだ人。佐賀藩きっての天才的軍略家。徳川家康が尾張の名古屋に新城新築を各大名に命じた時、佐賀藩から奉行として出向いた。幕府からまだ図面も何も示されていない時、もんど(主水)はじっと地形をみて、持ってきた石を1か所に積みあげさせたが、幕府の役人が到着し、いよいよ工事が始まる段になると、無造作に置かれた主水が積ませた石が城正面の升形になんとぴったり当っていたという。他藩の者は主水の洞察力に驚かぬ者はなかったという。そのためか、大坂城、熊本城も主水が手がけたといわれている。
2.構築の姿
天守台 東西70間(約38.5m)南北68間(約37.5m)
天守閣 高さ38m(参考・県庁59.8m)。黒田長政の好意で、豊前小倉城の図面を参考にした。南蛮風であったともいう。設計の図面等が残っていないので確かな姿は不明。
石垣 5間(約3m)。自然石をそのまま亀の甲の形に積み上げているので「亀甲城」ともいわれた。石材は川上川付近の大石100万荷、小石400万荷で一面粗野に見える積み方であるが排水を考慮してあり頑丈で雅趣に富んでいる。なお築石には黒田藩の助成があった。その目印として石垣に彫りが刻み込んである。なお、めぐる城垣土手には松など高く茂る樹木で遮へいしているので葉隠城ともいわれている。
出典:佐賀市の文化遺産P18あゝ佐賀城その歴史と周辺P15

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