佐賀の役(佐賀戦争)

佐賀の役(佐賀戦争)

■所在地佐賀市(赤松)
■登録ID2493

明治7年(1874)頃の佐賀には、征韓論実行を主張する征韓党と、政府の欧化政策に反抗する保守的な憂国党の二大士族のグループがあった。政府内で征韓論を主張していれられず下野した前参議江藤新平は迎えられて征韓党の首領となった。憂国党は北海道開発の祖、前秋田県令島義勇を党主としてその数は1万余りに達した。江藤はひとたびことを起こせば各地の反対分子があいついで呼応すると期待していたが、その足並みはそろわなかった。それに反して政府の処置はすばやかった。政府は陸軍省に出兵を命じ、参議、内務卿大久保利通に兵馬の大権を授けて出張させた。岩倉高俊は佐賀県令に任じられ、熊本鎮台の兵を率い佐賀城に入り戦闘を開始した。佐賀士族軍は一時佐賀城を奪回したが、洋式鉄砲訓練をうけた政府軍が攻勢に転じ完敗させられた。
江藤はひそかに鹿児島に逃れ西郷隆盛を頼ったが、西郷はこれに応じなかったので渡海して高知に赴き片岡健吉・林有造に会見したが、ただ自首を勧められるだけであった。江藤はさらに東上を企てたが、高知県東端の甲の浦で逮捕され、佐賀に護送された。ただちに軍事裁判が開かれ、江藤、島は「梟首」の惨刑に処せられた。後年明治天皇の御聖断によって賊徒の汚名が消され、大正5年、江藤新平、正四位。島義勇、従四位。贈位。

出典:あゝ佐賀城その歴史と周辺P31