『葉隠』 の筆録者田代陣基の墓 | さがの歴史・文化お宝帳

『葉隠』 の筆録者田代陣基の墓

所在地 佐賀市田代2丁目7-31
登録ID 2561

出典資料から記載

 田代又左衛門陣基の墓が瑞龍庵内で発見されたのは、昭和13年の頃であった。碑面には、『松盟軒期酔之碑』と彫られていて、浪花節語りの名のようだといわれ調査の結果、田代又左衛門陣基の墓と判明しました。
 三代佐賀藩主鍋島綱茂に仕え、祐筆役を務めた田代又左衛門陣基が役職を解かれた翌年、宝永7年33歳のとき山本常朝に初めて会った。
 山本神右衛門常朝は、二代佐賀藩主鍋島光茂のとき、御側役、御書物役を務め、元禄13年藩主鍋島光茂の逝去に当り殉死しょうとしたが、 追腹禁止の藩令があったので剃髪して金立山麓の黒土原に閉居していた。
 宝永7年3月5日、田代又左衛門陣基が金立山麓の黒土原に山本常朝を訪ね、『しら雲やただ今花に尋ねあい』期酔 と詠み山本常朝も『浮世から何里あらふか山桜』古丸 と応えお互いに喜び会った。
 宝永7年(1710) 3月から享保元年(1716)にかけて草庵に足しげく訪れ、7年間におよび山本常朝の談話を筆録し、1342項目の全部を全11巻に筆録編集した。この『葉隠』の冒頭に、この始終11巻、追て火中すべしとされ、この『葉隠』は秘本とされていたが、佐賀藩士の間にこっそり写されて愛読されていた。
 『葉隠』とは一体何ですかと聞かれたとき、 一口に言い切ることは難しいが『葉隠四誓願』は葉隠の要約されたものを表現しています。
 『葉隠』とは『山里の木の葉がくれに聞き、ひそかに書きとめたもの』という気持ちをこめ、さらには、『陰の奉公』の意味合いも持たせたものでは ないだろうかといわれています。
 山本神右衛門常朝の仏道の師で、高潔無比の禅僧といわれた湛然和尚、儒教・仏教の造詣深く当時佐賀藩第一の碩学とうたわれた元佐賀藩士石田一鼎宣之、山本神右衛門常朝、田代又左衛門陣基の四哲に、 『校註葉隠』を編纂し、だれにもわかりやすく説いた栗原荒野を加え、『葉隠』の五哲と呼ぶにふさわしい。
出典:循誘  史跡探訪 歩こう会(P.6)

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