思案橋

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■所在地佐賀市
■登録ID463

 当時、材木町は武家屋敷諸用達を務める商家町で、昔の唄に『思案橋の名物は、蔦屋の一粒金、釜屋のビンツケ、野中烏犀圓現金掛け値なし』とか歌われていたようである。蔦屋では一粒金の他にも文房具.紙.うるし.金箔などを売り、釜屋(西村油屋)ではビンツケ(日本髪を結うときに使うもの)の他ろうそく.元結い油を売り、松永呉服店や野中烏犀圓等町民の生活物資を売る店で賑わっていた。当時のことばに『こげこげ舟端近い、いえいえ思案橋近かし、びんつけモテエ(元結)は安し』とはやったといわれているが、これは、『舟をこげこげ。材木、紺屋、今宿の舟つき場は近いよ。思案橋には、ビンツケ、元結が、安くてたくさんあるから、髪を結って、おしゃれができるよ。』との意味でこの周辺は、長崎街道筋ではあるし、多くの商家が立ち並び、また今宿に出入りする船のりの人達が遊んだり、佐賀名物などの買い物をするなど大変な賑わいを見せていたようである。思案橋と名前が付いたのは一説によれば、明治の終わり頃まで、この橋の側まで舟がきていたので、『ここから遊郭は近いのでさてさて行こか、帰えろうかと』この橋のそばで迷い思案(考える)したのでとの話もある。昭和18年8月戦時下で統制経済が厳しくなっていく中で、思案橋のうどんとして有名だった『うどんの橋口屋』が200年の歴史の幕を閉じることで当時の新聞に綿々とその昔を偲び廃業を惜しむ声が次の通り大きく報道された。『軒のひさしが、ほのかな陰影をそっと窓辺に落としている。昔造りの建築情緒・今は過ぎし日の華やかな1頁を語る、その名も床し思案橋のうどんの橋口屋が……の書き出し『思えばちょんまげ時代の昔から今日まで200余年の長い間、佐賀市民はもちろんのこと、近郷近在の人達にまで馴染まれていたうどん屋だけに、その廃業はわけて感慨無量のものがある』と惜しんでいる。また、この橋の側で酒造業を営み『佐賀馬鉄』を誘致したり、その当時、佐賀市の財界人として有名な伊丹家の伊丹彦次郎、田上源太郎、福田慶四郎、中野五郎氏等とともに会社創立委員として活躍するなどしていた、当時飛ぶ鳥も落とすといわれた牛島町思案橋の、美目秀麗の青年実業家『下村辰右衛門』として有名であったようである。後に多額納税貴族院議員を勤めたが、循誘校区から国会議員に出られたのは、これが始めてであり今日までその後は国会議員は出ていない。あの『次郎物語』の作者で有名な下村湖人の養父ともいわれている。

出典:ふるさと循誘(P.23)

まだ鉄道がなかった時代下今宿は、佐賀藩唯一の港として千石船が出入りして大変賑わっていたが、またその上流で近くにある思案橋付近も長崎街道筋に当たるし、市は開かれるし今の銀座通りと同じく、数多くの店が立ち並び佐賀での土産品は、みんなここで求めていた。即ち、ここでは『蔦屋』さんの一粒金(仁丹みたいな薬)が有名で、大坂にいく人達が土産がわりに求めたり、『釜屋』さんでは油.ろうそく、元結、それに、びんつけが売られ、また、野中烏犀圓さんや、松永商店の呉服類、その他に酒屋、醤油屋、米屋、小間物屋、線香屋等があった。橋の名前の由来は、いろいろあったようだが、ひとつは、舟で直ぐ近くの遊里にいくか、はたまた土産には何を買うか、いずれにせよ懐具合を考えて、いろいろ思案したのでこの橋の名が付いたようだ。

出典:ふるさと循誘(P.176)

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