旧佐賀城本丸御座間・堪忍所 | さがの歴史・文化お宝帳

旧佐賀城本丸御座間・堪忍所

所在地 佐賀市城内二丁目 本丸跡
文化財指定状況 佐賀市 重要文化財
文化財指定日 平成13年2月20日
登録ID 5158

指定文化財

佐賀市水ヶ江三丁目の大木公園内にあった南水会館建物は、佐賀城本丸跡の佐賀市立赤松小学校「作法室」を、小学校の改築に伴って昭和32年(1957)に移築したものである。
赤松小学校は、明治42年(1909)佐賀城本丸跡に開校し、当初は鍋島家から佐賀市へ寄贈された既存建物を校舎として利用していた。これらの詳細は判然としないが、南水会館として移築された建物は、他のものが解体されていく中、最後まで残存していた建築物であり、当時の小学校校舎平面図と天保期の本丸建物を描いたと考えられる佐賀城御本丸差図を比較すると、藩主の日常の居問である「御座間(ござのま)」がこれに当たると考えられる。
この建物は、小学校時代は「御居間(おいのま)」と呼ばれて「永久保存建物」として使われてきた。詳細は不明ながら、大正10年(1921)と翌11年に修理を実施し、昭和14年(1939)には「郷土館」として利用されることになった。しかし、昭和32年(1957)に大木公園に移築されるまで、大規模な改変を受けることなく残存してきたようである。これは、当時の赤松小学校教員によって、移築時に作成された「御居間模型」(縮尺20分の1、赤松小学校保有)や、残存写真から確認されている。
大木公園への移築は、昭和32年に着手し、翌33年3月29日に完成している。移転を手がけた大工棟梁からの聞き取りによると、敷地の関係で1間ほどの桁行きを縮め、玄関を設けた外は、基本的に部材の移動をせず、小学校時の姿に復元したとのこと。ただし、内部は公民館としての利用を考慮し、床棚周りを廃し、舞台を設け、部屋間仕切りを撤去又は新設している。その後、南東角の控室北面両端下屋部分を増築し、現在の姿となっている。
この南水会館建物については、上記状況から、これまでも天保9年(1838)再建の佐賀城本丸御殿「御座間」であると推定されてきたが、佐賀城本丸歴史館建設に係る詳細調査により、その確証が得られ、より詳細な状況が明らかとなった。
まず、小屋裏及び床下の複数の箇所に「御座問」の墨書が発見された。また、玄関の小屋部材から「堪忍所(かんにんどころ)」の墨書も発見し、御座問とその東側の堪忍所が移築残存していることが判明した。番付には方位を含むものあり、これにより本丸にあった状況と現状は方位が180度入れ替わっていることも判明した。さらに、小屋裏には、「御座間」「堪忍所」と同一の筆と見られる墨書番付ともう一組の番付があり、前者が創建時番付、後者が解体時番付であることが確認できた。小屋裏の状況は、先の大工棟梁の言葉どおり玄関部分、つまり旧堪忍所部分が部材切断、部材移動が著しく、他の部分は桁行きの番号を除き、ほぼ旧状どおり丁寧に再用しているのが確認された。その他、残存する痕跡を根拠として、御座間、堪忍所の平面が復元され、柱をはじめ部材位置の大きな変更がないことが確認された。一方、赤松小学校の「御座間模型」により、失った床棚周りなど、室内形状が推定された。
以上を総合すると、南水会館建物は天保期本丸御殿御座間・堪忍所の遺構として貴重な存在であることが改めて確認された。近世城郭の御殿遺構は、二条城二ノ丸御殿書院群{国宝 慶長8年(1603)}、掛川城二ノ丸御殿{重要文化財 安政二年(1855)}、川越城本丸御殿{埼玉県重要文化財 嘉永元年(1848)}、福井城本丸御殿大奥小座敷・御座間(福井県重要文化財 天保2年(1831)}など、全国的に見ても現存例は少なく、その点からもこの建築物の建築史的価値は大きい。
御座間・堪忍所と同時期に建築された佐賀城現存建築物は、重要文化財「佐賀城鯱の門及び続櫓」しか確認できるものはなく、御殿建築物としては唯一のものである。また、藩主の日常生活の場という重要な機能を果たしたものであるにもかかわらず、比較的質素なたたずまいを有し、幕末・維新期の気風や社会的状況も伝えているところなど、佐賀市に残された幕末・維新期を代表する建築物として高く評価できる。
なお、南水会館建物は、平成13年9月に解体され、佐賀城本丸跡で本来の位置に御座間・堪忍所として移築・復原工事が行われ、佐賀城本丸歴史館として公開されている。

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