嘉瀬川水路の変遷

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嘉瀬川水路の変遷

■所在地佐賀市嘉瀬町
■登録ID77

 奈良時代、国毎に作成された最古の地誌の一つ「肥前風土記」によれば佐嘉川の上流に荒ぶる神あり。通行人の半分を殺した。当時、土地の支配者佐賀県主(あがたぬし)「大荒田」が、まだ朝廷に服従してなかった「土蜘蛛」の「大山田女」と「狭山田女」の二人の女性に占わせた。そこで二人は、下田の土で馬と人を造り、荒ぶる神を祀ったら静まった。そこで二人の女性は崇められ感謝されて「賢女(さかしめ)」と呼ばれたという。サカシメが佐賀の地名の由来となったとも言われている。この風土記の中の佐嘉川は現在の嘉瀬川であり、荒ぶる神は嘉瀬川の氾濫である。川は氾濫を繰り返しながら流れを西方に変えていった。
 奈良時代は、川上から巨勢川、佐賀江川から諸富で筑後川に合流していた。当時、諸富は有明海に臨む重要な河口港であった。その北徳富の大津は、肥前国司所在の大和町久池井への玄関口になっていた。
 鎌倉時代になると水路は、多布施川・八田江から有明海に注ぎ、中世末から戦国時代になると、多布施川・本庄江となり、さらに現在の嘉瀬川となった。
 江戸時代初期の寛永年間に成富兵庫茂安の石井樋造成で、石井樋より上流を川上川、下流を嘉瀬川とよび、初めて佐嘉川が嘉瀬川となり現在の流路に定着したと言われている。
 そして、嘉瀬村も現在の村落として形成されたのである。
 佐嘉川(嘉瀬川)の洪水や水路の変遷がもたらす土砂流と、有明海の干満の差6mにも及ぶ潮の流れが運ぶ潟土によって形成された平野が農作地帯として開発されるが、平野の形成に重要な役割をなすものに澪(みお)と呼ばれる小水路があった。
 潮の干満に伴って、潮の流路ができる。堀ともクリークとも呼ばれる。この澪が潅漑用水路として重要な役割を持っていたのである。嘉瀬村は特に「澪」の多い地域として豊富な米作地帯となった。

出典:嘉瀬町史 (P.8)