石井如自

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石井如自

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■所在地佐賀市本庄町
■年代近世
■登録ID883

石井如自の墓が常照院にある。本名は又右衛門忠俊といい、別名を嘲鴎子ともいった。元禄14年(1701)12月24日没す。法名を養法院安節日時居士行年67歳。
石井如自は佐賀藩の名門家である石井久左衛門(正純)の二男である。父は如自が6歳の時死し、祖父茂忠(九郎右衛門)に育てられた。20歳の頃にはすでに歌道や俳諧を深く研究していたらしく、鍋島光茂時代の御歌書役であった。
明暦2年(1656)安原貞室が師匠松永定徳没後、師の遺撰集を補訂して『玉海集』を上梓したが、貞室が補った部に如自の句を入れてあるほどだから、当時佐賀藩の如自の句がいかに高く評価されていたかがわかる。当時の俳諧は主として、滑稽、洒落を題材としたものが多く、言葉の組合せなどに苦心していた。
如自はこれらの内容に満足することが出来ず、心の俳諧を作りたいと松江重頼を仲介して、談林風へ近付いていった。この重頼は貞徳の高弟であって、かつて『毛吹草』という大著書を出した事もあるが、この貞門の作風にあきたらず、一派を立てた人である。
重頼は別号を惟舟ともいっていたが、長崎への旅行の途次、佐賀に立ち寄った事もある。寛文12年(1672)刊の重頼の『時世粧』には如自の撰句をその集の巻頭に載せている。
大日本人名辞書には、談林派伝系の西山宗因の下に井原西鶴等と並んで石井如自の名が連ねられている。
「如自の句」
盗人と いはまに手出す わらびかな
月夜よしと 巻は夜よし 簾かな
雪の中に 夏は来にけり 卯木垣
月見るや 額のなみの 末の松
花ちらす 童部は風の 子どもかな
試筆にも 齢はゆずれず すずり石
朝日影 にほへる山や 早松茸
懐や 道のゆくての 冬こもり                                               
石井如自は『葉隠』で「大器量の者にて候」と評されるほどの人物で、佐賀近世文壇の先駆的作家である。また光茂は歴代、佐賀藩主のなかで最もよく和歌を嗜んだ。蛎久天満宮に連歌を奉納し、以来佐賀の例となった。

出典:かたりべの里鹿子P.5本荘の歴史P.59

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