義祭同盟

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■所在地佐賀市
■登録ID984

嘉永3年(1850)、本庄町西川内の梅林庵(寺)で佐賀藩学者・枝吉神陽に薫陶を受けた志士が楠公父子像の御前において祭典を執行した。
これが佐賀勤王論の先駆けとなった「義祭同盟」である。
安政3年(1856)、執政鍋島安房が楠公像を遷し、楠公社を建立した。その後、明治13年まで毎年5月25日に厳粛な義祭が挙行された。
「楠公義祭同盟連名帖」には、副島種臣、江藤新平ら佐賀の多くの志士達の名前が記されている。

出典:ふるさと勧興(P.2)

寛文2年(1662)、佐賀藩士だった深江信渓は、楠木正成・正行父子の忠孝を鑑として広く顕彰すべきと発起し、父子が桜井の駅での別れの時の鎧姿の像を京都の仏師に刻ませた。
翌3年、完成した父子像を北原・永明寺(大和町・廃寺)に安置し祭祀した。父子を祀ったのはわが国で初めてであった。
天明(1781〜88)の頃高傳寺に置かれ、文化13年(1816)、梅林庵に移された。これを知った「日本一君論」を主唱する国学者枝吉神陽が、嘉永3年(1850)、楠公父子の祭祀を同志に呼びかけ、尊王派の同盟である義祭同盟が結成された。呼応した同志38名が楠公が戦死した忌日の5月25日に梅林庵に集まり、深江信渓の子孫・俊助が祭主で初回(第1回)の楠公祭が行われた。これが佐賀藩勤皇運動の中心となった義祭同盟である。枝吉神陽はじめ、枝吉次郎(副島種臣)、島団右衛門(義勇)、大木幡六(喬任)、木原義四郎(隆忠)らが参加している。その後、毎年5月25日に行われ、江藤又藏(新平)、中野眞七郎(方藏)、大隈八太郎(重信)、久米丈太郎(邦武)、鍋島茂眞、鍋島直嵩らも加わっている。
安政(1854〜59)になり、梅林庵の父子像は、城下の龍造寺八幡宮境内に設けられた社殿に移され、楠社として、ここで楠公祭が行われるようになった。

出典:葉隠佐賀市史ワークショップ中野和彦氏寄稿