検索結果 RESULT
[神社仏閣][寺][兵庫校区]は15件登録されています。
神社仏閣 寺 兵庫校区
-
国請寺跡
高僧行基菩薩の足跡は、九州各地に散在するが、聖武天皇の天平10年(738)筑紫国巡歴の途中、若宮村牟田の地に立ち寄った。この地を一国一寺の大伽藍の地と定め、自ら本尊観世音菩薩を彫刻してこれを祀り、天台宗国請寺を創建した。 しかし、中世頃から住僧がしばしば転住して、寺院は次第にさびれ、観音堂だけとなった。元和2年(1616)佐賀藩主鍋島勝茂は僧快舜に命じ、この寺院の再興を図らせたので、その後は代々住職も居付き、明治維新頃まで、牟田在住の鍋島安芸守の祈祷寺として管理されていたが、明治17年(1884)頃廃寺となった。 今は昔の面影はなく、境内も全く田んぼと化した。わずかに四周の堀と歩測100歩余りの参道があるが、境内はおよそ1町歩あったと記録に残っている。田んぼの中央に残っている墓地と火葬場跡付近が、本堂の跡ではなかろうかと言われている。
-
下分方面の寺院跡
千住の経島寺が兵庫町に現存する最古の寺院であるが、下分には千住から牟田寄にかけて、寺院跡と称するものが多く残っている。光明寺跡、阿弥陀寺跡、伽藍跡、それから少し離れて本明寺跡、有通寺跡などがそれである。どれも牟田寄地区にある。またその間に、点々として井田観音、井田屋敷、弥吾屋敷、弥吾橋などの跡が続いている。しかもこの地方から古代土器、オグラと称する砥石、石造りの厨子などが発掘された。これらのことから察すれば、牟田寄方面は昔(奈良朝前後)堂宇、伽藍が立ち並び人家もかなり集まっていたものと思われる。 平重盛が千住の霊地を選んで経島寺を建てたというが、当時、同地方は仏教の聖地として世間に聞こえた所であった。光仁天皇の宝亀7年(776)、佐賀郡の大領(郡司)正七位上・佐嘉公児公が安居会を設け、戒明法師(大安寺住職、大徳の僧、筑紫国府の大国師であった。)を招請し、信者たちに八十華厳経を講義させ、大いに仏教を奨励したとあるが、本郡の仏教がなかなか盛んで、下分あたりはその一中心地ではなかったろうかと考えられる。
-
経島寺
曹洞宗 本尊 釈迦牟尼仏 由緒 高倉天皇時代(1177頃)小松内大臣、平重盛建立。開山僧は不明であるが、天正6年(1578)千住伊賀守が四国の僧、湛蔵司を請じ住持とした。寺内に重盛の位牌があるが、1枚石で総高1尺6寸、表面に「当寺開基小松府殿贈一品内大臣左相浄蓮大居士」裏面に「治承三年己亥八月朔薨、元禄十丁丑八月朔日鍋島内記藤原朝臣茂英敬奉安置之」と刻んである。墓所内に千住伊賀守の墓、及び姉川の城主として有名であった姉川弾正惟安の石碑がある。 第1世中興開山無着妙融大和尚以下11世を経て、忍海徳山大和尚(古賀徳山)は堂宇を再建し内容も充実、再中興の実績をあげた。徳山師は永平寺の高僧森田悟由禅師に従い、全国をまわり布教され、特選宗会議員に推挙された。昭和6年10月、69歳で入寂された。当山13世中沢明男大和尚は昭和49年3月入寂。
-
光圓寺
本派本願寺派 本尊 阿弥陀如来 由緒 後陽成天皇の頃、仏道に帰依して入道した直茂の一族である鍋島伊賀守道虎は、法名を生三と号して、堀立区外野の東端に館を建て、ここに居住していたが、慶長5年(1600)に一寺を建立した。 天保4年(1833)8代雪村住職の時に、現在の堂宇を再建し、更に昭和3年俊隆師の代に大改築をして、面目を一新した。当寺は創建以来聞慶寺と称したが、明治維新の始め、地方庁の寺院名簿に光円寺となっていたので、その通りに改称された。
-
正見寺
真宗本派本願寺派 本尊 阿弥陀如来 由緒 天正2年(1574)建立。開山は皆念和尚、現住職は傍見譲了師である。
-
福寿山無量寺
曹洞宗 本尊 千手観世音菩薩 由緒 天正12年(1585)3月、中牟田七郎衛門は隆信に従って島原の役で戦死した。その子中牟田喜左衛門は、父の菩提を弔うために、かねて尊信した珠鎮和尚を迎えて開山とし一寺を建立した。しかし明治36年火災に遭い、堂宇を始め一切を焼失した。 当寺は中牟田家の開基で、その末裔故海軍中将子爵中牟田倉之助の発願で同年末、現在の堂宇が再建された。落成記念碑は本堂前東側にある。
-
光輝山 敬法院
曹洞宗 本尊 釈迦如来 由緒 不詳。現住不在で前住は4世、東延成師であった。
-
東渕山 恩林寺
曹洞宗 本尊 地蔵菩薩 由緒 創立は不明であるが、およそ200年前という。多数の寺領があったが、現在は民家の手に移り、恩林寺田の名が残っている。春日の玉林寺の末寺である。 本尊の地蔵菩薩は、地区住民の尊信厚く日々参詣者が多かった。しかし本尊の御開帳は許されなかったそうで、罹病者がある場合はお籠りして祈願すれば必ず治るとのことであった。
-
福聚山 寿徳寺
曹洞宗 本尊 観世音菩薩 由緒 鍋島直茂に祈祷を申し付けられた国分寺住職勢岩和尚は、毎月佐賀城を訪れたが、遠路のことで藤木村に中宿して休息するのが常であった。 この勢岩和尚が、天正6年(1578)遷化されると、「自分の命代りになった」といって直茂はたいへん感激し、関平兵衛、勝屋勘右衛門の両人に命じ、藤木村に寿徳寺を建立させ、勢岩和尚の弟子在室和尚を開山とした。本堂庫裡とも明治26年(1893)の大暴風で倒壊したが、大正7年(1918)、先住17世原口啓一師によって再建された。
-
万徳寺
真宗本願寺派 本尊 阿弥陀如来 由緒 天正年間(1580)頃、源左衛門尉正国という武士が発心して、一山を創始し万徳寺を建立した。始め真言宗であったが元禄8年(1695)真宗に改めた。初代住職は善幽和尚で、現住職は12世杜田善雄師である。
-
妙常寺
日蓮宗 本尊 護国大本尊(元冠の役の時、宗祖日蓮上人が身延山中で書いた大日本衛護大曼荼羅) この大曼荼羅に西尊、四士、文殊、普賢、四天、二明、宗祖日蓮上人が梵字で表示されている。 由緒 現在妙常寺に合併されたが、その隣に元中年間(1380)頃、相良肥後守の発願によって建立された渕川山本照寺があった。開基は肥後守の嫡男日乗上人である。渕川城主、空閑参河守も本寺の檀家であったので、内室日恩大姉(龍造寺家兼の息女で直茂の養女、天文5年(1536)逝去)の墓も同寺にあり、位牌も安置されている。このような関係で御茶湯田1反4畝の外に田地1町3反7畝の寺領も得ていた。 その後隆信御代に当寺住持14世日秀僧へ祈禱を命じられ、また直茂夫婦より関が原の戦勝祈禱、勝茂よりも大坂陣の戦勝祈禱の命があり、寺領田地4町歩を得ている。龍造寺、鍋島家の信仰が厚かったが、しだいに寺運衰え、隣寺妙常寺に合併された。 妙常寺は後柏原天皇の永正年中(1510)頃小城地方の豪雄、千葉介胤繁が建立した寺で、寺領2町を有し、龍造寺、鍋島両家の尊信も厚かった。100年前、寺家究調の際、寺領没収の災難にあったが、住職順法院が納富治部太夫の兄であったことから屋敷若干を下付された。当時は旧藩時代、日蓮宗12か寺の一つとして色衣聖人の寺格で優遇されたが、幕末の廃仏毀釈の大変革によって退廃した。しかし当山中興27代日孝上人(大正9年8月遷化)続いて28代真木孝淋上人などの不断の精進による布教、伝道の結果、遂に昭和元年、2万数千円の巨額の寄進を得て、現本堂の大改築が成就した。
-
照林寺
曹洞宗 本尊 聖観世音 由緒 不詳であるが、墓碑面に元禄、享和、享保の年号を刻んだものがあるので、相当古い歴史をもつと思われる。明治34年法地許可。
-
大仙山 長興寺
曹洞宗 本尊 薬師如来 由緒 380年前、大宰少弐の末裔下村生運を開基とし、勅特賜、仏鑑大光禅師を開山とする。 本堂は、天保年間(1830〜1843)に初代下村辰右衛門によって再建された。観音堂は昭和30年解体したが、これも同人の建立によるもので、子孫繁栄の祈願をこめて総瓦ぶきのお堂に33体の観世音菩薩を安置し、両側に不動明王、自己の木像を安置した。長く集落民の集合所となり、青少年の勉強場、遊び所に使用されて荒廃が早かった。 下村辰右衛門家の田地は兵庫町内にも多く、明治末期、養子4代辰右衛門は多額納税の貴族院議員であったが不幸にして没落した。その娘婿は「次郎物語」の著書で有名な下村湖人氏である。
-
東光山吉祥寺
真言宗醍醐派 本尊 不動明王 由緒 当寺は寛文年間(1661〜1672)鍋島山城守藤原直氏が鍋島家の祈願所として、豪伝大僧都を開山に迎えて創建した。直氏は子孫隆昌を願って寛文11年(1671)3月豪伝大僧都を導師として、大乗妙典1万部を写経し、さらに延宝9年(1681)9月、再び大乗妙典1万部を写経した。この写経本を境内に埋蔵し石塔を建立して供養した。 また鍋島直愈は宝暦5年(1755)5月、英弁大僧都を導師として、大乗妙典1万部の供養塔を建立した。鍋島家代々の信仰厚く、その祈願所として隆昌したが、明治初年寺録の返還を命ぜられ、寺運退廃して伽藍も消滅し、廃寺同様となった。地区住民はこれを遺憾としその再興を計った。 ※『佐賀県近世史料第十編第一巻』のp214、天明7年(1787)の寺社差出によれば、東光山吉祥寺はこの時代には天台宗で、「当寺儀、寛文元辛丑年山城殿先祖勝直(ママ)殿代、為祈願所 豪傳大僧都中興ニ而建立有之候事」とあり、豪伝大僧都は中興としている。開山は「快久法印 年号相知不申候」とあり。
-
兵庫町の寺院台帳に残る寺跡
下渕、長泉寺。藤木、祐林寺、高月庵、盛秀院。東中野、善応寺。西渕、宗善寺。堀立、善定寺。