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[指定文化財][彫刻][久保泉校区]は3件登録されています。
指定文化財 彫刻 久保泉校区
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木造普賢延命菩薩騎象像 康俊作 一躯
重要文化財
龍田寺(りゅうでんじ)は、元亨(げんこう)年間(1321~24)に、一地上人(いっちしょうにん)の開山になると伝える真言律宗寺院で、この木造普賢延命菩薩騎象像を本尊とする。 普賢延命菩薩は、息災延命を祈る修法(すほう)の本尊とされ、6本の牙をもつ白象上に二臂(ひ)あるいは二十臂に表現されることが多い。 本像は、4頭の白象上の蓮華(れんげ)座に結跏趺坐(けっかふざ)する二十臂の普賢延命菩薩像で、上下二重の円光背(こうはい)を負う。像高は71.7センチメートル。桧材による寄木造(よせぎづくり)で、表面に漆箔(しっぱく)を施こす。体内に内刳(ぐ)りを施し、目に水晶をはめこんで玉眼とする。頭上には金箔をはった銅製の宝冠を戴き頸(くび)飾を懸ける。 髻(もとどり)を高く結い、頬(ほお)が豊かに肉付いた丸顔で、目を切長に半眼とし、口元を締める。肩はややなで肩で、胸は膨らみを表現するために波打つ窪みを刻み、腹の膨らみは緩やかな弓状を描く線を刻んで表現する。膝は張り、厚みとも上半身に比べて小さいが、これは本像が高い台座に乗るため、下からの観賞に備えるためでもあろう。衣制は、背子(はいし)(肩掛)・条帛(じょうはく)・裳(も)を着けるが、これは厚手のものではない。衣の襞(ひだ)は写実趣味に基づきながら、細部を省いた強い曲線で表現する。 これらの特徴は、鎌倉時代末期から南北朝時代の仏像に共通する。 台座蓮肉裏の造立銘により、鎌倉時代末期の正中3年(1326)に、南都興福寺の大仏師康俊(こうしゅん)の作であったことが知られる。康俊は鎌倉時代末から南北朝時代にかけて活躍した慶派の流れをくむ正統仏師である。
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木造大日如来坐像 一躯 附 大日如来由来記 一巻、木札 六枚
重要文化財
妙福寺は、臨済宗、東福寺派で開山は円鑑禅師の高弟の大道一以大和尚である。 本尊の大日如来は、定朝様を忠実に受け継ぐ面貌の表現や一木造りの構造からみて、制作の時期は11世紀の後半と考えられる。作風は中央の様式をよく伝えて優れており、半丈六(仏像の大きさの基準となる1丈6尺の半分)の大きさは県内の平安仏では最大で像高164センチメートルである。 また、同寺には本像にまつわる由緒が伝えられており、恵心僧都源信の作とする。伝説的要素が強いものの、本像の制作の背景に天台宗の源信に係わる信仰が係わっていた可能性をうかがわせる点、脊振山系の仏教文化を考えていく上で興味深い。像の背面には鍋島勝茂の名を記す朱銘が残っている。修理の際のものと思われるが、勝茂の信仰あるいは文化事業の一環としてとらえるべきであろう。 本像は平安文化を伝える美術品として優れているばかりでなく、肥前仏像史上でも重要な位置を占めるものと考えられる。
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石造十一面観世音菩薩立像 一躯
重要文化財
勝宿(かしゅく)神社と小川をへだてた山腹の小堂に石造十一面観世音菩薩立像が安置されていて、后良(きさきら)観音と呼ばれ、今日でも地域の人々の厚い信仰を集めている。 像高118センチメートルの石造で、宝冠に化仏を頂く十一面観世音菩薩の立像である。右手は掌を前にして垂下し、左手は屈して胸前で蓮華を執るが、両手・両足ともに体部に密着した浮彫りで、窮屈な表現となっている。顔面は大きくて下半身が寸詰まりとなり、しかも下半身の表現は簡略化されている。衣文彫りは浅く、正面観のみの表現であって、側面及び背面は素材のままの荒削りとなり、中世石像彫刻の様式をよくとどめている。体側両面に、次のような造立銘が陰刻されている。 左体側「河窪村中泉〇〇天正十三暦三月廿如意林日」 右体側「奉彫刻妙観音尊像一基〇〇〇」 この造立銘によって、天正13年(1585)に彫造された中世末期の石像であることが知られる。 柱上の石材を用いて彫顕した一種の板彫り像であって、県内の石像彫刻が、線彫→浮彫→半肉彫→板彫、丸彫→肉彫と進化していく石像彫刻の進化過程を知る上から、県内では数少ない遺例の一つであり、板彫系統の初現的な石像の一例として注目すべき価値を有している。