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[産業][工芸技術][久保泉校区]は2件登録されています。
産業 工芸技術 久保泉校区
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白石原の瓦
享保の佐賀の町大火(1726)で、佐賀城内外は灰じんに帰し、1835年(天保6)には再び二の丸が焼けた。この頃鯱の門は二の丸に在った。翌年本丸を再建するとき鯱の門を新たに現在地に造営している。 このとき、白石原の瓦工早田夘太夫英興という人の作った鬼瓦が上棟されている。同時に屋根瓦制作も命じられたであろう。 写真のとおり、この様に大きな、然も肉厚い焼き物は当時の作品としては珍しい。良質の土を見付け、十二分にこね、歪を避けるための逃げを巧みな曲線で成形し、焼くときの火の強さ・時間を加減し、火のまわり具合を均一に工夫し、また燃料材も選択し焼成されたであろう。不均衡な曲がりや亀裂が完く見当らない。 作者は、自信と誇りを持って、裏にヘラ書き銘を遺している。 久保泉公民館保管の仁和館鬼瓦も立派だが、型が小さく、銘がない。 敗戦直後までは、10軒位の家で嶺瓦・井戸瓦・鬼瓦・つぼ・火鉢等が丹念な「紐造り」手法で作られていた。白石原の地名からして良質の材料と秀れた技術集団が古くからここに存在したことを物語る。名護屋築城には白石原で城瓦を焼いたという。 肥前の瓦焼きは、大化の改新頃との説があるが、肥前のどこかわからない。土師の職制は大和朝廷にあり、土器の製作も担当。土器師土屋が当地へ来て土器を製作「土屋大明神」の碑があることになっている。 白石原の墓碑「カオンサン」はこの土器師なのか、開拓者なのか、白石原と深い関係があることだけは間違いない。 白石原は、春日の国府と神崎の庄を結ぶ街道筋であった。
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川久保の笊笥づくり
川久保一帯は、里山の麓に集落が散在し、中心部に川久保宿があった。古代には中央政府の大宰府や肥前国府の尼寺を結ぶ官道が通り、戦国期には神代氏の出城があったが、徳川時代には山を下りた神代氏の城下町としての形態を整えていた。古代から西の都渡城(大和町)、東の仁比山などとともに山間部・平野部・海岸部との交易地として栄えていたらしい。そこでは竹製品の「ざる」なども交易されていただろう。 大政奉還、明治維新を経て時代は様変わりしたが、手工業の竹細工などは自家製として細々と作り続けていたと考えられる。古老によると「明治後、下級武士の内職として笊笥(そうけ)つくりが広まったと聞いた」という。特に竹林に囲まれていた西原地区に笊笥(そうけ)つくりは多く、上分、宮分、下分、そして宿場の町分などにも散在していた。大正時代から昭和初期、戦後までの笊笥(そうけ)づくり系譜をたどると61戸が数えられるという。その半分以上35戸は、西原居住者だった。 作っていた笊笥(そうけ)は、普通は真竹でつくり、万石(まんごく)そうけ、担いそうけ、飯そうけ、うどんてぼ、芋てぼ、酒てぼ、ウナギ・カニ・ドジョウのうけ、ほげ、だんべいなど17種類、各大、中、小と作っていた。戦後混乱期の物不足時代には、笊笥(そうけ)類も需要に追いつかないぐらいに業者が仕入れに来ていた。特に、ほげ、担いそうけなどは、炭鉱の作業具として作っても作っても売れていたという。それも昭和30年代までで、プラスチック製品が安価で普及すると急速に竹製品は廃れていった。今では笊笥(そうけ)つくりを伝える人もほとんどいなくなった。