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[人物][人物][東与賀町]は21件登録されています。
人物 人物 東与賀町
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辻 演年
辻演年は文政2年(1819)東与賀村住吉の鍋島藩士の家に生まれ、またの名を忠六と称した。 のち川副代官所の勘定頭など勤めたが、28歳で藩の搦方役人となって、犬井道地先の別段搦干拓の監督を手はじめに、大小十数か所の干拓を造成している。これまでの土塊と木材で造る工法を改め、石材を使用する等の改善が試みられている。しかし別段搦も台風で再び決壊して4年の歳月を経て嘉永4年(1851)にやっと竣工を見たので、嘉永搦と呼ばれた。この頃東与賀地先の白島井樋以東の干拓が約2年を費やし嘉永3年冬完工している。 その後、長崎防備は急を告げ、演年は長崎に赴き砲術研究家本島藤太夫とともに、道路を造り、石工長以下を指揮して難行苦業のすえ、砲台を四郎島山頂に築いた。約2か年の歳月は流れ嘉永6年の冬であった。 帰って安政2年(1855)嘉永搦の潮止め工事を更に行い、その後東与賀の大搦、大詫間の大搦に手をつけ、安政5年の春、犬井道の無税地搦、冬には与賀搦を竣工させ、万延元年(1860)大詫間の大搦と犬井道の搦が共に竣工した。 この春再び長崎に赴き、稲佐や深堀等に砲台4か所を構築している。台風がくれば帰って干拓の修復にかかり、佐賀と長崎の往復も多い。明治になっても干拓一筋に生き、白石の明治搦干拓では、県の命で干拓に当たり現場で寝食を共にした。ところが明治8年の台風では堤防、小屋もろともに決壊した。演年は九死に一生を得て村里へ泳ぎついた。このように身命をかけて拓いた豊かな美田数百町歩は、今も郷土農民の生活の支えとなっている。 この偉業をたたえ記念碑が、犬井道海童神社に明治22年(1889)6月に建立された。碑文はこの苦闘の歴史を演年自ら誌し、干拓愛護を念じている。明治29年、数え歳78歳で、干拓一すじ男の名を残して他界した。
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原 作一
原作一は慶応3年(1867)3月3日、藤蔵・とめの長男として作出に誕生した。当時原家では水田3ヘクタールを自作していたが、他の農家は1ヘクタール程度の小経営が多く、米麦依存の営農で生産はあがらず、その価額も不安定のために農民の生活は貧困にあえいでいた。特に大正10年頃は電気灌漑の導入による余剰力の問題と、二・三男の分家による経営農地の零細化問題で、どうしても農家の経営する耕地を拡大せねばならぬという、つまり干拓事業の必要性が考えられる時期であった。 原が干拓を思いたったのは遠く明治26、7年頃で、先ず自費で干拓構想図を作製し、それにもとづいて「潟ソリ」に乗り調査するとともに、潟土を自宅に持ち帰って研究を続けた。また床屋・役場・学校等村内で人の集合する場所には隈なく出席して、干拓の重要性を説明したり訴えて協力を求めた。最初は問題にされず「干拓狂」と冷笑されたり、精神異常あつかいを受けたりした。併し順々と村の現状を憂え干拓後の未来を説く原の熱情は次第に人を動かし、ついには山田八郎村長が動いて大正14年に設計を終わり、公有水面埋め立ての許可を得、組合員735名をもって「大授搦耕地整理組合」を設立した。かくて翌15年5月10日当村小学校講堂で盛大な起工式を挙げ、いよいよ大授搦干拓工事が槌音高く鳴りひびきその第1歩を踏みだしたのである。 工事は3期に分けて実施されたが、先ず第1工区は昭和3年11月に、第2工区は同5年11月に、第3工区は同6年12月に陸地となり、大授搦干拓の大事業は見事に完成した。総面積は合計313.7ヘクタール、総工費は160万5.000余円に達したのである。干拓地は初め頃ワタ作りをやったが塩分が強くて成績が悪く、その後西瓜の栽培を始めたところ甘味満点で意外な収益となり、潮止めから5年後は成績も順調で、背後地の普通田と同様な実績を挙げるようになった。 原は、干拓事業の着工と同時に家業を顧みるひまもなく、そのため家計も不如意がちで、親類縁者はもちろん近隣知己も心配して「干拓も必要だろうが家庭も大切じゃないか」と忠告された。併し反対に「俺は5ヘクタールほどの耕作田があるから、家族は十分生活もできる。それができないなら妻の資格がない」と言って、夫人と顔見合わせて微笑したという。また干拓地完成後の田地の配分についても、功労者として優遇の措置を組合員全員が申し出たが、原は厳として受けなかった。「自分が干拓を思いたった動機は、現在の農民生活を考え将来の農業を予想して、各農家の耕地を拡大することだ。決して自分のためにやったのではない。だから組合員が皆んなで公平に分配すべきである」と強調したらしい。こうして全部の土地は持ち分の出資口数によって公平に配分され、世間によくある利欲にからんだ紛争もなく、和気あいあいのうちに処理配当されたのである。現在子孫が農業を継いでいるが、大授搦に10アールの耕作田もないことは、前述の事情を物語るもので、いかに彼が欲得利害に迷わず、清廉潔白な人であったかが立証される。 この大授搦干拓は、着工から竣工まで約5年7か月の間順調に進行し、1回の失敗もなく工事に関係した幹部も人夫も人の和が最高度に発揮された事業であった。広びろとした干拓地は春の緑り秋は黄金の穂波が延々と輝いて、まさに東与賀町きっての穀倉の大宝庫である。
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野田 甚三郎
村立尋常興文小学校の初代校長野田甚三郎は、佐賀市蓮池町の某家より住吉区野田サダの婿養子となり、野田家を受け継いだ。子宝に恵まれて徹・常雄・春吉・良方・由子・達雄等5男1女の父親となった。彼の性格は温厚篤実で真面目、優しさといたわりの温情味が溢れていた。身体も至って強健で大柄ではないが、ずんぐり型病気知らずの健康体の持主であった。つるつるに禿げた頭・丸やかな顔の中に八の字の濃い髭があったが、いつもにこやかな口元の微笑みが幾百の教え子や幼児達の敬慕のまとであった。 彼は若い頃から「教育家」を志望したが、当時のわが国はまだ学校の制度がなく、各町村や村落毎に私塾が行われていた。漸く明治18年になって最初の「小学校令」が公布され、実久・住吉・飯盛等の塾が合併して「村立尋常興文小学校」の名称で開校することになった。学校の位置も村全体のほぼ中央(現在の中学校付近)とし、当時としては立派な92坪の平屋校舎を新築して発足したのである。この時の記録によると「明治22年古賀助作が村長となり、同年7月15日」に盛大な開校式を挙行している。その時の職員は訓導兼校長の野田甚三郎・訓導小石敬作・雇教員大坪忠節外に3名で、生徒数225人(男165・女60)であった。ところが校舎の位置問題の争いで実久校を分教場にしたり、教室1棟を新たに増築した。 かくて明治25年校長を退任したが、同41年には再び第3代校長に任命された。一つの学校に2回にわたって校長の要職に就任することは珍しい事で、いかに彼が村民の信望を厚くし、生徒の敬慕を集めていたかが証明されるのである。 大正5年3月に退職し、昭和16年5月故郷の住吉新屋敷で病気(首腫瘍)となり死去した。行年79歳であった。 法名 徳翁良範居士
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木下 文次
木下文次は明治8年1月3日、木下善次(東与賀村2代助役)の長男として、東与賀町上町に生まれた。幼少の頃から学を好み、子守りしながら妙福寺の高木塾に通った。与賀高等小学校2年から佐賀中学校へと進み、陸軍士官学校は恩賜の銀時計組の英才である。日露戦役に従軍し敵弾の飛びくる第一線で泰然自若として、指揮をとった。部下はその豪胆さにただただ驚嘆した。かくて連勝したが遼陽合戦で不幸にも敵弾を負い第一戦を離れた。戦後陸軍大学に学んだが、ここでも銀時計組となった。第二師団(仙台)参謀長の頃は仙台幼年学校長に嘉村達次郎がいて、佐賀葉隠の意気を遠く陸奥の地に響かせたものである。第二十九旅団長(静岡)を経て、旅順要塞司令官として軍事と遼東半島の軍政を司った。陸軍大将まで嘱望されながら、世は軍縮一途をたどり、陸軍中将で予備役編入、正四位勲二等(後、正二位)に叙せられている。 住を佐賀市大財町に移したが参謀軍歴の中将は、なおも戦術研究に没頭し、傍ら佐賀育英会の事業や佐嘉神社奉賛会長などをつとめ、神社庁表彰の栄誉に輝いている。退役後は紋付に白足袋姿で暮らし、正座しては謹厳実直何時間でもその姿を崩さなかった。父と早く死別したため8人の弟妹の世話もよくした。兄弟は皆秀才一家で上町の実家古賀源吉宅で17人の大家族として従弟と共に育っている。そこで上町への愛着は深く、上町公民館は木下中将の寄贈になるものであり、佐賀市にも大財町遊園地を贈っている。「相倚相済以共其福利」の条巾を上町地区のために揮毫し、毎年の村の招魂祭には幣帛料を必ず贈り続けて、ねんごろに英霊を弔った。 昭和43年、享年93歳をもって至誠一すじの生涯を全うした。
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三浦 虎次郎
三浦虎次郎は明治8年12月、父愛吉母スエの長男として、上古賀に産声をあげた。出生時の住宅は現在の公民館の西側で、母屋の外に白壁の倉庫を持ち、水田2町歩を耕作するという大百姓であった。彼は生まれつき体も大きく腕っぷしが強く負けん気が人一倍で、村内切っての餓鬼大将として「鬼虎」の愛称で呼ばれていた。しかも友情に厚く同僚や部下を可愛がり、強い者には立向うが弱い者を助けるという義侠心にも富んでいた。 明治25年僅か17歳で海軍に志願し佐世保海兵団に入団したが、間もなく日清戦争が勃発した。彼は旗艦「松島」に乗り込んだが、明治27年9月17日午後2時30分より2時間ばかり黄海の大激戦となった。敵の旗艦「定遠」にはわが艦隊より集中砲火を浴びせかけ大火災が起こった。こちらの松島にも敵の砲弾が炸裂して、甲板上は修羅場と化した。虎次郎は上甲板で砲手をつとめていたが、全身に弾丸の破片をうけて負傷し血だらけで倒れた。そこへ副艦長の向山少佐が通りかかったので、彼は「まだ沈みませんか!定遠は!」この叫びに副長は「あれを見よ。もう沈みかかったぞ!」その声に「必ず敵(かたき)を打って下さい。天皇陛下万歳!」と断末魔の苦しい中から絶叫して息が絶えた。時に3時30分。かくて僅か19歳を一期として波荒き黄海の海に散華したのである。 昭和4年9月17日は虎次郎が壮烈悲壮の戦死後35回忌の命日に当たるが、祖国を愛し殉国の熱情を永久に讃えるために、現在の地に見事な顕彰碑が建設された。当時中尾都昭新聞社長(その頃佐賀毎夕新聞)及び村長山田八郎や栄蔵寺住職花山鶴音等によって、県内外から一人1銭の寄付金募集がなされ、遂に1万数千余円の浄財をもって建立された。この日は親族をはじめ村内外よりも来賓や村民等多数が集まる中に、佐世保からは海軍軍楽隊も見えて、盛大な竣工の式典と共に慰霊祭が開催され、また余興の青年角力等もあって1日中賑合った。 ところが終戦と共に進駐軍からこの顕彰碑の取りこわしを強要されたが、主催する村としても新聞社としても拒み通して、ただ碑文だけを削ることで話し合いが決着した。その後十数年間そのままに放置されていたが、村長碇壮次は中尾新聞社長とはかり池田佐賀県知事はじめ県内外の有志者に呼びかけ、直ちに40数万円の浄財が集まり、立派な記念碑の復元改修工事が完成された。時に昭和36年4月28日新装成った記念碑前には、遺族の山田治司、下村美代子等が感謝と感激にむせぶ中、宮副副知事をはじめ県内外の来賓や村民等数百名が集まって、慰霊祭が厳粛盛大に挙行された。
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山田 八郎
明治11年1月29日山田清八・ワキの長男坊として、中割に産声をあげた。陸軍要塞砲兵射撃学校を卒業したが、除隊後の大正5年11月には本村の助役に就任し2期を勤めた。その直後森川仁四郎村長の後を受けて、大正13年10月第9代村長の座につき、自来5期20年の長きにわたって、本村の政治・産業・教育等の進展向上に一身を捧げた。 彼は勤勉誠実・元気潑剌で、竹を割ったような気性と誰にも負けぬという気魄を持っていた。頭脳も極めて明敏で緻密、村民に対しては公平無私と清廉潔白で貫き、自治行政の首長として実に得がたい人物であった。彼の村長時代は大正末期から昭和前期の頃で、いわゆる「明治」から「昭和」へのかけ橋ともいうべき期間であった。つまり明治文明の開花以来日本の近代化がひた押しに押して来た時代、農業立国から工業国への前進と、陸海空軍の軍備増強へ方向づけられる時代であった。当時関東地方は大地震の惨害に襲われて昭和の金融恐慌を招き、普通選挙法・治安維持法・婦人参政権等で国内は騒然としており、一方外では蘆溝橋で日中両国軍の衝突から不幸にも全面戦争へ突入していったのである。この最も困難苦労の時代に、彼は本村の自治行政を担当して誠実に強力に押し進めたのであった。その主なる業績を列挙したい。 1.本村歴史以来の大事業である「大授搦」の干拓を完成した。これには原作一翁の発願達成の努力と功績もあったが、山田村長は彼と全く同心一体となり、調査研究・情報提供や関係方面にも働きかけ、第1工区・第2工区・第3工区と昭和6年12月までに総面積合計300ヘクタール余を見事に完成したのである。しかもこの大授搦に欠くことのできない水利問題に関しても、既に当時より「北山ダム」建設を佐賀郡本庄村長江副九郎等と話題にし計画を立てていたという。その着眼と識見を高く評価するとともに先見の明を忘れてならない。 2.教育環境づくりに専念した。 昭和5年7月暴風雨のために、小学校校舎・中央廊下・農具舎等倒壊した。同時に家事室より火災を起こし、3教室を焼失したが、速刻に村議会を開き復旧工事案を協議可決し、翌年には焼失校舎の再築はもとより新たに立派な武道場をも新築した。 当時学校には奉安殿が無かったので、中野辰男(中野実の長男)に働きかけ、その寄贈により現在の忠魂碑付近に新築した。更に講堂(198坪)と校舎6教室・廊下・便所等をも新築して、学校規模の拡大と内容充実に努力した。 3.特に産業振興と銃後の護りに挺身した。戦争の拡大と共に政府は大政翼賛会や銃後奉公会を作り、精神作興週間や経済更生運動を呼びかけた。彼は当時農協専務の増田嘉一と協力提携して、米麦の増産は勿論副業としての藁細工・叺織り等全村を挙げて奨励した。昭和12年国民精神総動員法が実施されるや、婦人会・青年団・小中学校生徒まで一丸となって、遺家族慰問・共同炊事・貯蓄運動等にも精出した。更に戦争の激化に従って、食糧管理法や衣料切符制となり、砂糖・米・みそ・木炭・マッチまでも配給制度となったが、この非常事態に即しただ困苦欠乏に耐えつつも銃後の護りを堅くした。これらの功績により昭和13年自治功労・勲六等瑞宝章を受け、愛国婦人会三等有功章・県産業組合中央会や村社会事業・郡農会・日本赤十字社等数えるにいとまなきほどの表彰の栄誉に輝いたのである。
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嘉村 達次郎
明治12年11月6日、父卯七母トメの長男として下飯盛に誕生した。軍人を志望して陸軍士官学校へ進学し、同35年には歩兵少尉歩兵第二十四連隊に配属され、同44年には大尉に進級し熊本陸軍幼年学校の生徒監となった。大正11年には仙台の陸軍幼年学校長に補せられ、同13年金沢連隊区司令官、昭和5年8月には早くも少将歩兵第三十九旅団長(朝鮮平壌)に昇進した。 この頃奉天の柳条溝で満洲鉄道の爆破事件が発生し、日中両国軍が衝突して遂に満州事変が勃発した。 つまり当時中国東北辺防軍司令の張学良とわが国関東軍との戦いであるが、その頃の事変記録に「昭和6年12月嘉村達次郎少将の指揮する混成第三十九旅団は30日打虎山に入り、翌日には溝帮子に着き多門中将の率いる第二師団と合流した。翌7年1月1日関東軍参謀は『錦州占領』の命令を出したが、張学良はなぜか自発的に撤退したので、ほとんど戦うことなく錦州を占領した」とある。 彼は昭和9年には年齢57歳にして除隊となり、輝かしい軍功を残して退任した。性格は厳格で端正・沈着で寡言その鋭い眼差しと頑健な体躯は、典型的な武将の風貌であった。しかも颯爽たる軍服の胸中には優しさと温情味が溢れ、弱きを助け部下をいたわる武士の情がこもっていた。柔和な白い髭がほころぶと小さい幼児もなついて彼の膝へもたれ遊んだという。 終戦後佐賀市多布施小路に新居を構え、妻のただと共に悠々自適の余生を送っていたが、昭和38年2月胃病を患い83歳の高齢で静かにこの世を去った。
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古賀 明之助
古賀明之助は明治13年10月30日、古賀政房(通称秀一郎)の長男として、東与賀村大野に生をうけた。佐賀中学校に進学してのち、福沢諭吉先生を私淑して慶応義塾へ進んでいる。 彼は陸軍工兵曹長として、日露戦役に出征し戦功をたて勲七等に叙せられた。その後農業のかたわら公共事業に奔走し、東与賀村在郷軍人分会長となり、また所得税調査員に当選すること4回、相続税審査員任命2回、土地賃貸価格調査員等をつとめている。当時村内きっての有識者で信望も厚く、昭和4年3月佐賀県議会議員に当選した。この選挙は飯盛から富吉景行が同じく政友会から出馬し村を二分する厳しい選挙であったが、幸い両名とも見事当選した。 彼が属した民政党は当時においては野党であったが同年12月県議会で、八田江改修5か年計画の早期着工を迫り、更に広江下18町(2㎞)に予定された樋門を漁家の要望にこたえ上(かみ)へあげるよう要望し、現在の八丁樋が設置された。昭和7年、佐賀県立商船学校廃校問題では、富吉議員と超党派でその存続を訴えている。即ち日本海軍発祥の地に県立商船で30年の歴史を有する学校をもっていることは県の誇りであり、卒業生600名が国家海運界に活躍し、多額の送金が家族のもとになされている事実を所得調査員の経験からのべ、廃校は千慮の一失であると、早川知事に強く存続を要望し、更に海運不況を理由に廃し悔を後世に残すことを憂えている。県議は2期昭和8年3月までつとめている。 その後川上鉄道の社長などに就任して、佐賀市及び周辺の交通開発に貢献している。趣味は宗教面の読書で、在家としては珍しい仏道の域に達した。後は居を佐賀市多布施に移し行年66歳、心静かに昭和20年1月30日に大往生した。
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富吉 景行
富吉景行は幼名を「弥六」といい明治15年2月下飯盛に生まれた。医業を志して同39年長崎医学専門学校に入学した。卒業後は東京の田村病院で研修を積み、同42年下飯盛に診療所「十全堂医院」を創設して開業した。以来30数年間を郷土民や学童等の仁術医師として、患者の治療・接種・点眼等の医務に専念した。その間村民の要望に応えて村会議員3期を勤め、更に昭和4年には佐賀県会議員に見事当選して、本県医療行政と厚生事業にも貢献した。 彼は貴公子然たる容姿と豪放磊落な気性を備えていた。頭髪を七、三に分け金ぶち眼鏡に意気な蝶ネクタイが似合っていた。現在長崎市に居住する一人娘山口美枝子がいるが、ありし日の父の想い出を次のように述懐するのであった。 父は公私の立場で精一ぱい頑張っていたが、よく「人間は敵半分に味方半分だ」と嘆いていた。これは村議・県議会の任期中に、いかにしのぎをけずって論争が激しく苦労をしたか。また他所様からの戴きものを極度に嫌ったことである。ある日母が貰い物をことわり切れず、父に一寸言いわけをしたら、大声一番母の顔面を平手打ちにした。その後は高級品のビスケットの詰め合わせを頂戴しても開ける事も出来ず、私達子どもはただ外側の絵を見るだけだった。父がいかに清廉潔白でけじめ正しい性格であったかが偲ばれる。
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増田 嘉一
増田嘉一は東与賀町大字下古賀(立野)増田善六の三男として明治15年11月18日生まれである。 本庄小学校を卒業後17歳にして海軍に少年志願し入隊する。更に海軍水雷学校を卒業し、主として「野分」等の駆逐艦勤務を主としていたが、軍艦出雲に乗艦しアメリカへ航海し見聞を広めている。そして海軍時代に旧制中学校程度の英数や簿記等については独学して修得し、広汎な学力を身につけていた。明治37、8年戦役や第1次世界大戦に参加し、厳しい艦隊勤務を経験し、青島沖では砲弾の嵐の中で友艦高千穂の救助作業等輝かしい武勲をたてている。1921年〜22年のワシントン軍縮会議が調印され、海軍特務少尉で予備役編入となり、東与賀立野に居を構えた。 東与賀産業組合が設立されると専務として迎えられ、かねて身につけていた簿記と軍隊で鍛えた筋金入りの実践力で組合員の先頭に立って率先垂範した。山田八郎会長、福岡長三郎書記長と力を合わせ産業組合は年毎に充実した。こうして、全国表彰を2回受けている。出雲での受賞記念写真は増田家に保存されている。 大正末期から昭和初期は不景気の鍋底で、自力更生、勤倹貯蓄を掲げ、副業を奨励した。朝は5時起床「朝がい」(朝食前の仕事)に励み、縄ない、叺織りの音で村はにぎわった。立野村落では平方喜八が土地を寄付して共同作業場を建て、競争して縄ない、叺織りに励んだ彼は石油カンをたたいて村をまわり「朝がい」を督励した。 一方信用組合の充実をはかり勤倹貯蓄をすすめ、高い融資から低利の組合資金の借り替え指導や各戸の経済の細かい相談相手も務め、寛厳よろしく、組合員に親しまれる存在となった。営農指導面では牟田熊吉技手と名コンビを組み村内の地質検査を行い土地の酸性化を科学的に示し、堆肥増産運動に力を入れた。道端の雑草も利用する徹底した指導であり土地に適した配合肥料はこの時から始まった。また県の嘱託を命ぜられ、県下各地で実践例を披露講演してその名は県下に知られた。しかし自己限界を60歳と定め、惜しまれながらも勇退し激務から開放された。 昭和20年10月6日逝去、享年63歳、文字どおり滅私奉公の一生を閉じた。
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袋 正美
袋正美は父武辰(たけとき)母チョウの長男として、明治19年9月4日立野に誕生する。 明治43年佐賀中学校を卒業後、新北、西川副、日新、本庄の各小学校を歴任、軽快な運動神経とファイトに満ちた彼は桜井式体操をよくし指導的役割を果たした。やがて抜擢され県立折尾高等女学校の体育教員を拝命した。しかし父の死亡のため帰郷し再び嘉瀬小学校教員を勤めたが、先輩同僚に惜しまれながら教職を去り、昭和2年、第3代佐賀郡市畜産組合長に就任した。 厳父の実家は倉永家で佐賀藩の馬術指南役の家柄であり、天性の馬好きであって、また組合員の懇望にこたえざるを得なかった。そこで、優良馬の生産・育成に力を注ぎ、春秋に催す競馬会の運営にその手腕を発揮した。昭和3年6月15日、地方競馬規則が改正されて、常設競馬場が指定されることになった。そこで、神野町西神野に面積3町5反歩(3.5ヘクタール)の佐賀大競馬場を建設すべく、八方奔走し幾多の苦闘を越え、昭和4年5月に完工した。第1回優勝競馬大会はその月の17・19・20日の三日間に亘り、大々的に挙行された。出場馬百数十頭、馬券売上げ高は実に13万円を越す望外の好成績のスタートをきった。当時発刊された佐賀県大観の写真集には彼の偉業と競馬場等の写真が大きく掲載されている。 その後昭和8年に乳牛の導入を図り、自ら飼育して、昭和12年、東与賀農乳組合を設立し組合長をつとめ、水田酪農の基盤を確立して、他町村まで普及につとめている。昭和34年12月第11回九州各県連合畜産共進会に県代表として自分の乳牛を出陳している。またこの折馬匹改良と酪農振興に寄与した功が認められ、共進会長表彰の栄誉を受けた。 後年は東与賀村会議員を2期つとめ当町の発展に尽した。昭和39年4月1日逝去、79歳の清廉潔白ひたむきな生涯を閉じた。
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倉永 辰治(ときはる)
倉永辰治は明治21年7月13日、立野の袋武辰(たけとき)の次男として生まれた。(袋正美の実弟)与賀高等小学校から佐賀中学校に学び更に陸軍士官学校から陸軍大学と進んだ英才である。陸軍中尉時代に厳父の実家馬術指南の倉永勝太郎の跡を嗣いだもので、少年時代から乗馬が巧みであった。小学校へは4歳で入学したので、学校から帰ると母堂の乳房にすがっていたという。また親思いで中学時代は暇を見ては母堂の繭の糸紡ぎの手助けをよくしたものである。 大正13年1月、青年将校の辰治は、複葉の陸軍機で空からの郷土訪問をして、低空で立野上空を旋回した。村人は総出で空を仰ぎ迎えた印象を今も語り彼を偲んでいる。 陸大卒業後、第五十九連隊の中隊長、第二十師団、第十一師団参謀や陸軍歩兵学校の教官を経て、昭和10年歩兵大佐に昇任、翌11年歩兵第六連隊隊長となり牡丹江に駐留している。いったん名古屋に帰還したが、戦火は拡大して中支に及び、倉永は部隊長となって、決死の上海敵前上陸を敢行、昭和12年8月22日、大成功をおさめた。しかし敵の真ただ中であり、8月29日は昨夜来の大夜襲を反撃につぐ反撃でこれを撃退したが、敵砲兵陣地からの砲撃は猛烈を極め、間近に落下した1弾に胸部貫通の重傷を負った。部隊長はなおもひるまず軍刀を杖に指揮をとり前進したが、遂に壮烈無比の戦死を遂げた。非常に厳格な一面、軍服を脱ぐと無邪気で部下思いの部隊長だったが、部下と枕を並べて戦死した。小学時代「君の将来は」と恩師に問われ、言下に「軍人になる」と答えた辰治少年は父祖伝来の葉隠魂に生きた人物である。部隊長重傷の報に銃後では全快を祈る間もなく、遂に江南の土と消えた。軍人の本懐とは言え、なお惜しまれてならない。英魂の安からんことをお祈りする。葬儀は佐賀市葬で行われ、実家の袋家には弔問の客が後をたたなかった。
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碇 善夫
碇善夫は明治21年10月、辨吉とテイの長男として大野に誕生した。少年時代から軍人を志望し県立佐賀中学校・陸軍士官学校を卒業して、明治42年には早くも歩兵少尉に任官した。直ちに第七十二連隊付となったが、その頃から日支・日露の風雲が急となり青島や浦塩港等の警備にあたった。それらの功績により大正9年11月には勲五等双光旭日章の栄に叙せられた。 彼は寡黙・謹厳の真面目一辺倒であり、責任感も極めて旺盛で祖国のために滅私奉公の誠を貫くという、正に典型的な軍人であった。かくて大正15年には歩兵少佐に昇進し、昭和7年2月混成第二十四師団歩兵第二十四連隊第一大隊編成の下令によって、その大隊長を命ぜられた。この頃上海郊外の廟行鎮で鉄条網を爆破するという工兵隊「肉弾三勇士」の忠烈悲壮なる戦死があった。昭和12年には大佐に昇格した。 その後久留米連隊区司令部員となって帰還したが、戦局の拡大にともなって再び同16年10月には臨時召集を受け、香港・タイ国・シンガポール・スマトラ等の軍事施設整備隊司令官となった。ところが同17年6月ミッドウェーの大海戦後は主導権を米海軍にとられ、ガダルカナル島をはじめ南太平洋の島々での激戦で、漸次敗北へと追い込まれた。遂に同20年8月敗戦となり、彼は召集解除され故郷の大野に帰省し、間もなく佐賀市へ住居を移した。その後病床に伏していたが、27年2月8日死去し日本軍人として輝かしい全生涯の幕を閉じたのである。
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三浦 七郎
工学博士三浦七郎は明治22年12月15日、父門平・母ナカの三男として上古賀村に誕生した。生来が短躯峻敏で頭脳明晰、佐賀県立佐賀中学校を優秀な成績で卒業し、進んで雄図を抱いて帝国大学の工学部に学んだ。これも抜群の成績で卒業したが、直ちに内務省に任官し昭和12年には、下関土木出張所長に栄転した。かくて九州及び防長二州にわたる現業官庁の統帥として活躍し、東では関門国道トンネル及び宇部港修築の大工事にあたり、西では球磨・肝属両川の改修や本県の佐賀市を東西に横走する坦々たる国道幹線の起工に着手し、わが国の土木・河川・道路の新設や改修に身を挺して努力した。 たまたま日支事変が勃発し日中の政情が一変したが、彼は昭和13年初夏選ばれて北支建設総署の初代技監に任ぜられ、共栄圏を目指して建設開発のために出向した。以来星霜世局ともに幾変転して彼の身辺にも困窮多難はあったが、一死不還の決意で要務に精励した。やがて興亜院が創設されるやその功績を認められ、技術部長の要職につき、昭和17年11月更に栄進して大東亜省参事官に補せられた。その後は華北交通理事・港湾総局長・塘活新港港湾局長として敏腕を振い、大きくは揚子江や黄河の大改修にも着手する寸前に、激務のために病気となり昭和20年3月頃北京で逝去し享年は57歳であった。葬儀は佐賀市水ヶ江町新道宗龍寺で盛大に執行されたのである。 彼は資性闊達であったが人情も豊かで温情味が溢れ、特に愛郷心に富んで激務のかたわら暇を見つけては、よく上古賀を訪問した。栄蔵寺にあった祖先の墓参と共に、親族縁故と睦び合い、友人や村人にも接して故郷への感謝と報恩を生涯忘れなかったのである。
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辻 演武
辻演武は干拓の大功労者演年の孫で、東与賀村長辻武一郎の長男として、明治25年2月26日東与賀村住吉に生まれた。(参議院議員福岡日出麿の実兄)家は男女工が50名以上も働く、網製造業と製糸業を営み大きな工場が2棟あった。佐賀中学校から軍人を志して熊本幼年学校へ進み、陸軍士官学校を卒業して、大正2年陸軍砲兵少尉として久留米野砲二十四連隊付となった。広く各方面の読書に親しみ、視野の広い人間味豊かな武官であった。朝鮮龍山砲兵隊付の頃から荻原井泉水の俳句に私淑して句作を始めている。 軍歴の主なものは参謀本部付(東京)第三師団参謀(名古屋)豊橋陸軍教導学校学生隊長をつとめ、野砲二十三連隊長として昭和13年上海に上陸して、江南の治安確保に努め各作戦に武勲をたてて勲二等瑞宝章に叙せられている。20年1月、陸軍兵器学校長(相模原)となり中将に昇任した。やがて終戦を迎え待命となったが従四位に叙せられている。 終戦残務整理後は郷土住吉に帰り、山田卯次郎方に同居し、馴れぬ農業を始めた。しかし博学で研究熱心な中将は、本を読み、農業試験場を訪れ、栽培一覧表を自ら作成する等、篤農家も教えられることが多かったという。 やがて商事会社の取締役社長となり住居を佐賀市に移したが、当時発足した「ひのくに」佐賀支社短歌会に入会して同人となった。自らを「有思」と号して余生を短歌に打ち込み、老いゆく日々の生涯を歌に親しみ歌道に精進した。その後昭和43年3月三男の家族と共に広島に移住したが、翌年8月10日心不全のために死去した。行年77歳。 辞世の句「戦友を 野辺送りせし それにならい わが弔いは 一花一僧にてたる」 その3回忌に歌友の代居三郎が、『ひのくに』誌上に発表した作品その他から144首を選び、『軍旅のかげに』の遺歌集を編集し出版した。その中より数首を掲載する。 冬晴れの 日ざし明るき 庭のべの 枇杷(びわ)の花むら 蜂がきてゐる 雷ひびき 粉雪やまぬ 北満に 雄々しかりにし 友ら目に顕つ 青空を 支ふる如き 大楠の 茂りあいつつ 風に揺れゐる 大鮒の 昆布巻もらい 久々に 楽しき老いの 食慾の秋
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南川 清一
剣道一筋に90歳の生涯を捧げた七段の南川清一は、明治25年10月5日佐賀市呉服町に誕生した。彼の性格は清廉潔白で古武士風な風貌とともに庶民的な淡白さを具備していた。剣道師範として陸軍戸山学校・東京女子高等師範学校や旧制佐高・龍谷中学の教官を勤務した。その間久留米師団剣道大会で優勝したり、退役後も第3回明治神宮体育大会(現在の国民体育大会)の在郷軍人の部で個人優勝の栄冠を獲得した。往時本県の剣道界では大麻勇次・江藤冬雄と共に三羽烏として肩を並べて活躍し、佐賀県剣道の黄金時代を築き上げたのである。 彼は大正15年12月佐賀市より当村の下古賀に転住してから、自宅に「南川道場」を開設し、小中学校の生徒や青年達の希望者に剣道を教え続けた。彼の剣道指導は極めて懇切でしかも厳格であったが、一歩道場を出ると温情に富みまた世間話の中にも常に「剣」に結びつけて心豊かな人間育成に終始した。 かくてこの間実にに60年にわたり、後進の指導と郷土青少年の健全育成に努力した。その功績を称えて昭和40年1月、東与賀村体育協会は彼に鄭重な感謝状を贈ったのである。 こうして精神的にも技術的にも鍛え上げられた練習生徒の中から、木下貞夫(佐賀県剣道々場連盟の初代理事長)を始め幾多の精鋭剣士が誕生して、現在本県剣道界に活躍している。この永年にわたる功績に対して昭和39年には輝く文部大臣表彰を受領した。 しかも家族の団欒(だんらん)も剣道に求めて、長男その妻及び孫3人等全員が揃って剣に親しみ剣を楽しむ家風を醸成した。正に剣道一家であり典型的な健康家族を育成したのである。
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池田 明治郎
明治26年8月佐賀郡本庄村字中島で誕生したが、一家が東与賀村中村に転住したので同村小学校に転校した。父親の大成は獣医であったために、仕事の都合で上古賀や鍛冶屋に転居した。彼は佐賀中学校より東京歯科医専門学校に進み、大正6年同校を卒業した。昭和28年10月熊本医科大学より医学博士の学位を授けられ、同39年10月藍綬褒章を受領し、更に同40年11月の佳節には勲四等瑞宝章の叙勲等の栄誉に輝いた。 職歴 大正6年11月神埼郡神埼町に歯科診療所を開設し、翌年には福岡市中洲町に新しく診療所を開業した。人望も学識も優れ昭和16年には、福岡県学校歯科医会副会長に選任されたがやがて会長となり、更に同29年には全日本歯科医会副会長の要職にも選任されて、わが国学校歯科医の発展に貢献した。 村内の牛馬の病気・けがや蹄の鉄打ち等の業務に精励した。
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池田 統治郎
池田明治郎の実弟にあたり、佐賀県立佐賀中学校より第七高等学校へ進み、更に九州帝大医学部に学び、昭和7年10月には大阪帝国大学より医学博士の学位を授けられた。 職歴 大正15年1月大阪華陽堂病院神戸診療所長を勤め、昭和4年5月神戸厚生病院を開設し、同15年12月には上海私立厚生医学専門学校教授兼付属病院長となった。その後故国に帰り同21年6月福岡市警固町に診療所を開設したり、同27年5月には福岡市立第一病院長として活躍し、また直方社会保険出張所長や福岡県民生部保険課長等の要職にもついて、日本医業の振興に精励した。
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碇 壮次
明治36年9月1日、東与賀村大野碇弥一・さかの次男として誕生し、佐賀県立佐賀中学校より軍人を志願して海軍兵学校に入学した。卒業後は艦隊参謀や兵学校教官等海軍の中堅将校として活躍し、支那事変や太平洋戦争には戦火の中に身を挺して、国家興隆のためにその半世を捧げた。その功績により昭和20年には海軍大佐に昇進したが、遂に終戦を迎えその翌年復員となり、故郷に帰還し数か年間は家事に従事したのである。 昭和30年5月には衆望を担って東与賀村長に当選し、以来昭和55年1月突然にも病魔に襲われて死去するまで、実に連続7期25年間を、ただひたすらに町政の発展向上に努力した。彼の性格は和をもって信条となし公正無私、責任感も極めて旺盛で積極的な行動力と指導力は抜群であった。 彼は村長に就任以来先ず単独町村としての財政の立直しと健全化を目指して、役場内部の機構充実と改善を断行し、また農業を主軸にした畜産・園芸・水産等町産業の振興に専念した。特に干拓造成と海岸堤防強化に努力し、昭和40年立野・飯盛地区の構造改善事業を皮切りに、同54年までに全町内県営圃場整備事業1.100ヘクタールの面的工事を完成した。かつては曲りくねったクリークと畦に囲まれた田ん圃も、今では区画整然とした農道と耕地と水路に恵まれ、しかも田植機・コンバイン・散粉器等を自由に駆使して大農業の出来る緑の美田に改変したのである。 またこの基幹産業に付随して、乳牛を中心とした酪農やハウス栽培(イチゴ・メロン・ブドウ等)の副業奨励にもはまり、農村環境整備モデル事業の指定町村としてのセンターの整備等、本町の産業基盤作りを着々として実現した。 更に次代を担う児童・生徒の教育振興にも意を注ぎ、昭和35年には学校の完全給食を実施したり、その後中央公民館をはじめプールや体育館を建設して、児童生徒の体位と体力は見違えるほどに伸長拡充した。とりわけ社会体育の振興に努力し、一般女子のソフトボール・ママさんバレー等各種の運動クラブの育成強化と陣頭指揮に専念した。この事は本町の運動スポーツのみならず、全県下の体育振興にその情熱を燃やし、去る昭和51年の若楠国体において、本県は栄えある総合優勝の栄冠となって開花したのである。 更に漁港の新設改良や海苔養殖を積極的に奨励し、生産技術と品種改良を推進し全国でも最高の生産額を誇る海苔の生産地として、有明漁業の発展にその基礎を堅めたのである。 しかも東与賀町長としての業務遂行だけでなく、本県の各種団体の役職をも引き受けて精一杯の活躍をした。佐賀県海岸協会会長ほか多くの公務や要職について、本県の産業や福祉・教育や体育等の発展向上に卓越した識見と行動力で尽瘁(じんすい)した。その功績は賜杯の栄光にも輝き県民のひとしく賞賛してやまないところであった。
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西久保 進
西久保進は西久保孫八の長男として、明治42年1月20日、大字田中(作出)に生まれた。子どもの頃からひときわ目立って可愛らしく、才気あふれて男らしさがあったと小学校の恩師袋イワ先生は述べている。千金に価する笑顔をもち相当の悪ふざけもするが、誰からも憎まれない天性の人柄の持主であった。佐賀商業学校へ進学し明治大学商学部を昭和5年卒業した。同年10月富士中央保険会社に入社し、おおいに持味の敏腕を振い、認められ同社の札幌支店長、仙台支店長そして大阪支店長ととんとん拍子に要職を歴任した。しかし終戦を迎え世道人心の頽廃(たいはい)を座して見るにしのびず、21年退社し帰郷、慣れぬ鋤鍬(すきくわ)を手にし農村の復興を同志と共に語り合った。昭和24年には大授搦耕地整理組合長に推され、また農地委員としても難問にあたりよく処理した。 県内産業の振興と新しい郷土づくりの情熱は、昭和26年4月選挙に立候補して若冠42歳をもって佐賀県会議員に見事当選を果たした。県会では少壮議員として、また新政クラブの総務として県政に新風を吹き込み、農村の福利増進に貢献した。 昭和28年、東与賀村農協長となって、農村の根を培う教養と、情報伝達の農村有線放送に着手して農民の知性を耕し、新佐賀段階の米麦増産に力を尽くした。特に酪農については昭和31年、グリコ乳業を設立し、乳業資本と農村資本の組み合わせに成功し農村酪農は飛躍的に伸び、また安定した。翌32年佐賀県酪農連合会を組織し初代会長に就任、集荷の一元化を図り県酪農史に不滅の金字塔をとどめた。水利面では八田江淡水導入土地改良区を設定して代表監事となり、用水確保を完全に成し遂げたのである。
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秀島 道法
明治43年長崎県壱岐の安国寺の次男として誕生、雄志を抱いて日本大学に学び昭和9年政治学科を卒業し、直ちに東邦電力の本社に入社した。その後縁あって昭和12年、東与賀村住吉の秀島家の養子となり、晴れてトキと結婚をなしこの家を永住の地とした。その頃より戦雲は急をつげ、昭和13年遂に応召して中支の戦線を転戦したのである。 復員後は長い間九電佐賀支店に勤務したが、その間ジャバ島の九電支店に長期出向を命ぜられ、引揚後も神埼九電の支店長等を歴任した。氏は頭脳鋭敏・豪放磊落で、しかも気骨に富み人情に厚く、特に天性の雄弁とユーモアは地域住民の信望を集め、昭和26年4月には41歳の若さで見事に佐賀県会議員に初当選した。以来1期4か年間その識見と雄弁を大いに発揮され、生涯における最良の時代であった。 併し昭和28年本県を襲った集中豪雨は水浸し1週間に及び、東与賀村をはじめ県内各地を舟艇に乗って災害箇所の巡視・食糧の補給・復旧対策等に奔走した。また県議会では佐賀郡南部地区における不完全道路の改修や産業道路の開拓を訴えたり、干拓地の電燈導入を叫んでその実現を見事に果たした。特に東与賀村の飲料水や風呂水がいかに不衛生な事をユーモアたっぷりで説明し、遂に政府の補助金を貰い受け、水道施設の着工実現を見たことは本町民としても忘れられない快挙である。 昭和41年5月、東与賀漁業協同組合長に選ばれ、その発展に活躍した。併し激務のためか不慮の病魔に襲われ、最愛の妻トキの手厚い看病もかなわず、遂に昭和43年3月6日、59歳の若さで永眠した。