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[物語・いわれ][地名・とおり名][久保泉校区]は4件登録されています。
物語・いわれ 地名・とおり名 久保泉校区
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旧川久保宿場通り
神代勝利は中世時代にはこの北部の山地を根拠に勢力を保っていた。藩政時代になると神代家の配分地となりその中心所領となった。他方では佐賀から鳥栖、脊振、小城と交通の要所として栄えた。宿場は旅する者にとってまさに憩いの場であった。駕籠や馬にゆられて行く人、或いは歩いて旅をする者さまざまな旅人が疲労と空腹で宿場にたどりつき宿場の家並みと旅館の看板に心を安ませたことがしのばれる。この宿にも大正時代まで数軒の旅館があったといわれているが今はその面影をみいだすことができないが、諸処に当時の武家門とその遺構は昔日を物語っている。
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檪木
檪木は川久保と同じ神代藩の配分地で、1646年の正保絵図には『一井ノ木村』とあり、1853年の嘉永石高帳では『檪木村』となっている。当時、田は少なく木ろうが藩の専売品だったから、はぜの植栽が奨励されこの付近にははぜの林が多かった。 檪木村が、上和泉村に編入されたのは、明治12年である。 檪木の『檪』の字は、イチイ・クヌギの漢名である。 イチイの樹は、マキ科の「一位之木」、つまり昔の貴族や神官が束帯姿のとき右手に持つ細長い板片、笏の原材で、階位一位に因む。これを「一位之木村」としないで、「一井ノ木村」としたのは、遠慮してのことだろうが。漢名「檪木」はこれに起因する。 もう一つのクヌギは、樫・栗と同じぶな目。棟木の天神さんの祠の傍にある大木を、土地の人は「イチノキ」と呼んでいるが、これは「イチイガシ」が植物学名で、樫の葉よりも細長く、丸い実が成る。この木は木船や車力・馬車の材として昔は珍重がられた。イチイノキと言わないでイチノキと言うのは、「イ」が脱落したもの。同属のクヌギの漢名「檪」の転用もである。 いずれにしても、植物名をとって集落名としたのは、奥ゆかしい。
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川久保へ350町歩
川久保は、邑主神代家の中心領で秀吉の島津征伐のころ(1587年)には、館をここに定め、知行1万石の領主を迎えた。 神代家は、佐賀藩が確立した1600年には御親類藩として、本藩と最も濃い血縁関係となり、大正の始めまで栄えていた。 最後の邑主神代直宝(鍋島直大の従兄)は、明治38年佐賀県に95町余を寄贈、県営第一模範林となるに先立ち、明治20年頃らしいが、当時の川久保村に山林原野100町歩、実面積350町という広大な私領を下賜(無償払い下げ)した。 川久保は、神代家が筑後から肥前入り以来の縁故地であり、住民と共存共栄して来たので将来の相互発展を期しての払い下げである。これを受けた川久保は、各区から選ばれた区長、地元村会議員で『川久保協議会』を創設し、維持管理並びに運用に当った。明治22年前までは、戸長が統轄した。 植林に手を着けたのも、県営模範林よりも早いと伝えられる。山頂部・脊梁部の痩せ地には雑木・くぬぎ・松を、谷の湿潤な肥え地には杉を、中間に檜を植えた。里に近い丘陵地の下部は竹林、上部は野焼の出来る草刈場(秣場でもあるが、田の肥料採取に欠かせぬ採草地)とした。誰故草(えひめあやめ)も、野焼のできる草刈場に自生していた。野焼での事故後は、杉・檜を植林した。敗戦前後の食糧難時代は手開墾でこっそり藷・陸稲・瓜・蔬菜畑に、谷間は水田化し、半私有地化された。 昭和30年代に、大字共有を認めないとかで、既墾地の既得権を認め、それ以外の山林原野を大まかに区割、地区割してブル開墾、個人に分割払い下げた。脊梁部等開墾不適地は、代表者外何名で個人私有化、大字有の土地を無くした。 この開墾地は、昭和36年度から農業構造改善事業として、蜜柑園となり山麓のオレンジベルトを形成した。 昭和50年の蜜柑生産高3.720トン・園地面積147ha、販売高1億を越し栽培者199名に達し、町の主産業となった。 生産高 売上げ S54 1501t 8910万円 S59 760t 1億1499万円 ところが、全国的な過剰生産による価格の暴落で、減反を強いられ、需要の多様化で品種更新をせざるを得なくなり、一方九州横断自動車道の開さくによる用地買収で園地面積が減少し、かつ栽培者の高令化・後継者の離園で労働力が不足し、管理不充分となり、荒れ地・廃園が目立ち初め、転換期を迎えた。 もうこうなると、神代家が乞い願った地域活性化はおろか、先人の偉業に対する感謝の念は忘れ去られようとしている。 歴史とは、過ぎ去った昔のことを、面白おかしく知ることでなく、現在をどう対処するか、将来をどうあらしめるかを考えることでの先人の遺業を辿ることである。
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久保泉町名の起こり
久保泉・金立・春日を上佐賀上郷といい、富士町を入れて中世は「安富荘」という荘園で、後白河法皇が建立された長講堂御領であった。 但し、川久保の十九丸は私領としての取扱を受けていたようだ。 室町期には、少弐・千葉氏の後を神代氏が支配し、近世には川久保鍋島家として石高1万石で、物成(年貢)4,300石の親類藩となった。 1787年(天明7)の領村目録では、河窪・一井之木・徳永・上泉の一部・神埼町大字竹が神代氏の配分地=知行地で、上泉の一部・西尾崎・下泉が佐賀本藩の蔵入地=直轄地であった。 西尾崎村には本村・白石原・折地・池副が、下泉村には立野・古村・古賀・東上ヶが、徳永村には村徳永・篠木野・光岡・川原が、一井之木には野中が、上泉村には草場・出来島が含まれていた。 金立徳永は薬師丸村で、大小野は来迎寺村に入っていた。 明治11年の郡区町村編成法翌年西尾崎村は下和泉村に、村徳永と檪木村が上和泉村に入り、川久保村を入れて3ヶ村となった。 明治21年の市町村制の翌年、3村は合併し、川久保の久保と上和泉・下和泉の泉とを複合させて久保泉村が誕生、旧村を大字地名とした。 川久保はもと河窪と書き、清い水が豊かに流れる低地の意、泉は美しい地下水の湧き出る所の意で、和泉と書くのは713年(和銅6)の風土記編さんに郡・郷名を二字に改めたことに準じた雅読み文字。 昭和29年佐賀市に吸収合併され、佐賀市久保泉町と改名し、今日に至った。