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[物語・いわれ][地名・とおり名][蓮池校区]は3件登録されています。
物語・いわれ 地名・とおり名 蓮池校区
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蓮池の由来
蓮池に関係する地名はいつ頃から世に知られたのであろうか。『図書編』という古書に「肥前州法司奴一計(はすのいけ)あり。」とあるが、その起源、いわれは不明である。この場合、蓮ノ池が現在のどの範囲を指すか詳らかではないが、中地江から西、大字蓮池が主邑であることは間違いなかろう。また、地理的にみて、今から1.200年前頃の海岸線が佐賀江に沿うた線ではなかったかと推定されることから、1.200年以前より古い時代とも考えられるが、天平の初め頃出来たとみられる『肥前風土記』にその名が出ていないところから、まだ、目立った集落、地名はなかったのではなかろうか。 蒲田津については、『肥前風土記』に「神埼郡蒲田郷郡西に在り。第12代景行天皇巡幸のときから蒲田郷の地名が起こった。」とされている。また、同風土記にいう蒲田郷の地域については明確なことはわからないが、元広島大学米倉教授の研究になる「条里から見た肥前の郡、郷、里」によれば、「蓮池町蒲田津を主邑として餘江、柴尾を含み、直鳥の南に及び、城原川左岸の用作等にわたり条里の10里余りの地であったろう」と推定されている。いずれにしても相当古い土地柄であることは判明しているが、その頃の情況については殆ど知られていない。
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蓮池5ヶ町など
お城下は、城内のほか郭内と郭外に分けられ、郭外には武家を配置し、郭内5町を町人の町とした。 本町は5か村のうち一番早くからの町のようで、小田氏の頃は嘉与丁と続いていたらしく、浄国寺の山門は、嘉与丁にあったという。鍋島時代も商店街として栄え、明治以後は、法務局(登記所)、駐在所、郵便局などが並び、大正に至り、肥筑軌道の蓮池駅もでき、種々製造業があって活気を呈したが、現在は空地も見られるようになった。 魚町は、今宿江が今の形に出来てから船着場の商人町として栄えた。慶応年間橋の架かる前は、嘉与丁との間は舟渡しで、魚町の方に水口として番所があった。問屋は唐芋でよそにも知られたが、(トコロ)テングサなども扱われた。廃品回収業も九州初の業者として、上方へ船積みして盛んであった。種油、うどん、水引、傘、カマス、米なども出荷された。明治には人力車の「タテ場」が出来、順を待ってたむろしていたという。 西小路・北小路は武家屋敷で、明治になると、軍人、官僚、学校の先生等になって蓮池を離れた人が多い。 城原町、神埼町はその名の通り、元日の隈山の東、城原の江上氏に従って移り住んだ人達で出来た町で、城原町は職人の町、神埼町は商人の町として栄えた。 藩の御用金を承ったという丸木屋は薬種商が本業で知られた。ここに昔伝わった「髪の毛綱」は城の普請に使われた物とも言われ、拝領ものと想像されるが、今は、千代田公民館に保存されている。 紺屋町は昔、金銀細工、うるし細工など盛んで、今佐賀に残るマトイにも紺屋町、本町の名が記されている。度々の火災で昔の紺屋町の繁栄を知る資料が少ない。
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鷹屋小路
「鍋島直澄公寛文2年田獵に用いる所の鷹を中地に養い鷹屋小路を置く。」と記録があるが、見島地区の南部一帯の字名は中地名と云い「鷹屋」という地名がある。比の処が鷹を養った場所と推定される。