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彦隆山安養寺 西持院
宗派 天台宗山門派 本尊 阿弥陀如来 由緒 開山は彦山権現の山座主六ヶ坊の触山伏覚鎮法師、永里盛秀が建立と伝えられているが、創建年など不詳。近世の初頭この地方の修験本山派山伏の法頭職を勤めたといわれる。享保17年(1732)火災焼失した。 寺宝 応永11年(1404)銘大般若経の写経本 墓地 宮中寄人歌人千葉胤明、富永佐渡守盛久の墓石、供養塔がある。 明治の寺院調には堂宇 5間24間、境内坪数 230坪 檀徒 104人とみえる。この寺は本藩社寺方役所と交流があったことを示す古文書が残っている。
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高傳寺副島種臣の墓
副島種臣は文政11年(1814)9月9日佐賀市赤松町にて生れる。枝吉南濠の二男で、神陽の弟である。幼名を二郎といっていた。 種臣が32歳の時副島利忠の養子となられ、副島姓を名乗られた。 種臣が後世に名をなしたのは、実に勤王家石井松堂の薫陶のしからしめたものである。種臣は蒼海・一々学人の号があり、学問該博、識見高邁、詩文に巧みで、明治天皇の侍講となられた。書は六朝を研究して妙を得、書聖中林梧竹翁と親交があり、梧竹翁が再三中国に渡り書道を研究したのは、偏に先生の書かれた書を見て発奮されたのである。「私は今度こそ、貴方に負けまいと支那(中国)に渡って研究して帰ってみると、先生の書は私より上手になって居られる。どうして支那にも行かれずに上手になられますか」と問われたのに対し種臣はただ笑っておられたそうである。 梧竹翁は書道においては種臣に一歩譲っておられた。しかし種臣はまた翁の書は実に見事だと賞讃して、明治天皇に梧竹翁の書を献上された程である。 種臣は維新の際国事に奔走され、明治元年初めて参与職制度事務局判事に任ぜられ、次いで参与職に補され、明治2年7月参議同3年5月外務省御用専務を経て、11月外務卿に任ぜられた。明治6年征韓の論が起った際議あわず辞職された。 明治17年伯爵を授けられ、明治25年松方内閣成立の時内大臣となられ、また枢密顧問官に任ぜられ、明治38年1月78歳で死去された。 墓地は東京青山及び高傳寺にある。