新着情報 topics
ピックアップアーカイブ pickup
-
丸山遺跡一・二・六・七号墳石室 四基及び出土遺物 一括
重要文化財
久保泉丸山遺跡は、縄文時代晩期~弥生時代前期の118基の支石墓をはじめとする墳墓群と、5~6世紀の12基の古墳群が小さな台地上にまとまって存在していた複合遺跡である。遺跡そのものは、佐賀市久保泉町川久保に位置していたが長崎自動車道建設のため、昭和57年(1982)1月~58年(1983)3月にかけて移設工事が実施された。 1・2・6・7号石室は、そっくり切り取って移設されたもので、1・6・7号墳が竪穴(たてあな)式石室、2号墳が横穴式石室である。竪穴式石室で最も規模の大きい1号墳は長さ1.87メートル、幅0.73メートル、高さ0.76メートルである。2号墳石室は全長3.36メートル、玄室の長さ2.05メートル、幅2.02メートルの平面方形で、短い前庭側壁がつく初期横穴式石室である。玄室(げんしつ)の右側壁に沿って板石が立てられ、幅約0.6メートルの屍床(ししょう)が設けられている。出土遺物は1号墳が石室内から鉄剣2口・刀子(とうす)1点、2号墳が石室内から鉄剣3口・鉄矛(ほこ)1点・刀子1点・カン子形鉄器1点・鉄斧(てっぷ)2点・鉇(やりがんな)1点・鉄鎌2点・鉄釧(くしろ)・勾玉(まがたま)7点・管玉24点・小玉499点・琴柱(ことじ)形石製品4点・砥石1点、6号墳が石室内から刀子1点を出土している。久保泉丸山遺跡古墳群の石室及び一連の出土遺物は、5~6世紀の佐賀平野の発達した古墳文化を代表する質の高さをもち、また移設された石室は野外博物館的施設として歴史教育の面からも大きな成果をあげている。
-
白鬚神社
近江(滋賀県)吹下より勧請されたと伝える白鬚大明神を祀る『白鬚神社』の祭神や勧請年代、十九丸の供奉集団や奉納される田楽の性格考証は「佐賀民俗学」第四号を御覧いただくとして、我が国古代の神信仰と白鬚社の特色について觸れてみたい。 在天の神の降臨道筋に神体山がある。古式の社には、必ず神体山がある。白鬚社の神体山は、社の裏の鈴隈山(昔は清隈と書いた)である。 我々は社に詣るとき、必ず口をゆすぎ手を洗う。昔は境内に入る前に、体ごと清流に身を浸し、罪や汚れを洗い流して初めて境内に入った。 祭典に従事する人は一定期間、堂に籠り、斎戒沐浴し寝食・行動の精進をした。この禊ぎの場を持った籠り堂が中宮で、現在の白鬚社のある所。上宮は社の東台地上に。下宮は県道鳥栖川久保線沿いの石の鳥居の南側一帯であった。この鳥居からが参道で、田楽もここから「道行き」をしていた。〔神上は、上宮(かみや)辺が本当である〕 祭神は、応神天皇・神功皇后・武内宿禰の三柱説と、豊受比売命・猿田彦神・武内宿禰の説、新羅神説とがある。 勧請年代も、肥陽古跡記は金立権現鎮座の時(紀元前210年)、佐賀県神社誌要は継体天皇18年(527)、敏達天皇3年(574)は祭典記録、推古天皇34年(626)は花納丸文書、三代実録では貞観12年(870)とそれぞれ異なっている。 昭和49年に1400年祭が行なわれたのは、敏達天皇3年説による。 十九丸の地名や丸祭の形態からすれば、花納丸文書が重視される。祭祀集団であったか・貴族豪族集団・逃避難民集団・農耕技能集団・或いは渡来外来集団であったか、論議されている。 白鬚の鬚はあごひげ、村徳永の白髯はほおひげ、髭はくちひげ。 現社殿の「流れ造り」は、記録が無いので建造年は不明。 社前の三の鳥居は、木造の「両部鳥居」で、木柱の前後に控え柱が設けられ、本柱と控え柱の間には貫を通し補強された古式の鳥居で、神仏混淆の神社に多い。また、四脚鳥居ともいう。「丸持の家」の祠の祭神には、薬師・不動・観音・地蔵・天神・弁財天・本地阿弥陀が祀られたと寛文11年(1671)の記録が在り、神仏混淆の社であることが窺われる。