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高太郎
足利時代大宰少弐資嗣が佐賀に存りし頃、中国の豪雄大内徳雄なる人物が飯盛城に在住した。飯盛城は本庄村上飯盛の常照院の地であった。 時に事情あって資嗣がこれを攻めた。その時、資嗣は本庄、与賀、川副方面の郷士をつれて夜襲をかけ飯盛城を陥落させた。大内徳雄は飯盛の西方から上松浦を経て筑前に逃れた。その時軍は退却しつつ高太郎に来て潰滅した。その追撃戦に大いに功績をたてたのが小太郎丸、高太郎丸の両名であった。これによりこの地を平定し豪族として勢いを得た。現在の高太郎は領主の名をとって字名とした。 文化14年(1817)の郷村帳によれば、秋丸小路、中ノ小路、舟津小路、蔵床小路、野口小路、唐津村の各集落からなる、かなり広範囲の村であった。
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紺紙金字法華経 七帖
重要文化財
表紙には宝相華唐草文を金銀泥(きんぎんでい)で、見返し絵は釈迦説法や経典内容を金泥で描いている。経文は、金界線を引き、1行17字詰めの金字で書く。経帙は近世の後補であるが、題箋(だいせん)は当初のものである。金剛杵をかたどる象牙の帙(ちつ)留具も当初からのものである可能性が高い。 見返し絵は、極めて謹厳な筆致により細密に描かれていて、経文も力強い。高麗の宮廷工房である金字院の制作の可能性も考えられる。 第7巻の奥書により、至元6年(1340)に沙門淵鑑を発願者とし、柏厳と聡古により筆写されたことがわかり、施主と幹事の名も記される。また,それに続く別筆の施入銘からは、対馬を通じて高麗と交修していた少弐頼尚(しょうによりひさ)が正平12年(1357)に太宰府天満宮に寄進したことが知られ、さらに後に続く再施入銘により尼僧妙安により佐賀龍泰寺におさめられ、寛文3年(1663)に枝吉利左衛門により修理再納されたことがわかる。高麗装飾経の代表作として、美術的価値はもとより、制作から日本に請来された後の伝来事情までを明確に記す歴史資料としても重要である。 (写真:鍋島報效会提供)