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龍雲寺(曹洞宗)
開山は、大用宗俊。1532年(天文元年)龍造寺家重が村中龍造寺家和の養子となった於保胤宗(後の八戸氏)の妻などを弔うために建立したということです。 「葉隠」の口述者、山本常朝は、1570年(元亀元年)に、龍造寺氏との争いで戦傷死した八戸宗暘の子孫です。常朝は、1719年(享保4年)に61歳で没しました。墓地には「旭山常朝菴主」と彫られた墓とその一族の墓があります。 常朝の墓の背後にある顕彰碑は、葉隠研究家の中村郁一が建立したものです。 また、ここには儒学研究の資料となる「多久安輝の墓誌」(佐賀市重要文化財)があります。 龍雲寺一帯は、室町時代八戸一帯に勢力を誇っていた豪族於保氏(のち八戸氏と改める)の居館跡である。 ※『佐賀県近世史料第十編第二巻』のp8「龍雲寺本末御除地并無縁地破壊地差出帳」の解題によれば、「龍雲寺はもと済家宗水上派に属す慶聚寺といい、天文元年(1532)大用和尚中興地で、八戸の地に移り、慶聚山龍雲寺と改める。開基は悦心妙慶大姉(功(剛)忠公姫)、開山を大用の先師奇伯和尚(長州太寧寺)とし、二世中興大用和尚とする。天文十六年まで住持を務める。」とあり。
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唐河神社
社号 唐河大明神 祭神 天児屋根命 神体 青石 神紋 三ッ寄十二菊花 平安時代末期の久寿元年(1154)、藤原鎌足11世の後胤藤原兼家9世の孫で、禁守護北面の士、大和国の住人藤原式部少輔兼基は、西国鎮撫のために肥之国に下向したが、乱が鎮まった後この山内に来住し、柳野山に陣を築いて城主となり、一帯の数ケ山を掌領した。そうして、生国大和国の春日大明神を勧請して柳野山早馬大明神を建立し、領地の氏神として祀った。 その後、嫡男大和守兼隆は、建保元年(1213)に柳野山の地名を薙野山と改め、姓を薙野氏と名のった。そうして、社殿を薙野川辺の岸高に造営して天児屋根命を祀り、社号を唐河大明神と号した。同時に矢房大明神と七郎神もここに合祀した。 それから358年後の元亀2年(1571)3月3日の夜、池田村の住人傅寿という者の枕辺に春日大明神が現われて「池田邑の池の中に神体がある。探し求めて祭祠せよ」という夢の御告げがあった。早速村人と相談して池の中を探したところ、当地には産しない壱個の青石を発見したので、これを御神体として神社に斎き祀った。 その後、享和元年(1801)9月に拝殿堂宇を修築して鳥居を建立、近代になって大正10年(1921)に700年祭を執行、昭和28年(1953)5月24日神殿拝殿の再修築、昭和49年10月3日750年祭を行ない今日に至っている。 親神の春日大明神(春日神社)は、元明天皇の平城京造営(710)にさいし、藤原氏の一門が従来奉じてきた神を三笠山のふもとに祭ったのが起源で、藤原氏の氏神として伊勢神宮・加茂神社についで重んじられた神社である。 祭神は4座で、第1殿に武甕槌命(鹿島神)・第2殿に経津主命(香取神)・第3殿に天児屋根命(枚岡神)・第4殿に比売神(枚岡神)を祭ってある。 上四柱の祭神のうち天児屋根命が藤原氏の祖先神である。 当地唐河神社の祭神が、春日大明神を勧請したにもかかわらず天児屋根命1柱になっているのは、藤原式部少輔兼基以下、一族領民の氏神としてこの祖先神だけを祭ったからであろう。 天児屋根命については、天照大神を天の岩屋(戸)からさそいだす祭典のとき、布刀玉命と力をあわせて天の香具山の雄鹿の肩の骨をそっくり抜き取ってきて、天の香具山の朱桜(木の名)をたいてその骨を焼き、祭式の次第をどのようにするかを占い、式典がはじまると大神を迎えだす尊い祝詞をあげてはたらいたことが神話に伝えられている。また、天孫降臨のときには、五つの部曲の長をつとめる五柱の神の一人として瓊々杵尊にお仕えして天降って来た。 土地の人の間には、火の安全を護って下さる神様であると言い伝えられている。