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八丁畷の水利形態
八丁畷は、もともと純農村地帯で、国道263号線(以前は往還と呼ばれていた)の東側に5戸、現国立病院の東側に7戸の専業農家があった。 そのほか国道の両側に非農家と商店があり、南に「あかかべ酒造」、製紙会社(当時、マオラン会社)の工場があり、現在の県警機動隊の所に「グンゼ」があった。 農家の基礎収入は米代金で、米作りには水が絶対必要である。この地でも大井手水利組合が設立され、北山ダムの負担金も一部拠出し、ダムの完成で大きな恩恵を受けている。 この地域は小寺川水系と呼ばれ、石井樋から取水、長瀬を経て上高木、下高木の国道西側の県営水路で館橋に至り、ここから東高木に入って兵営の北側から東側を経て八丁畷に達している。 農地は何時頃整備されたのかは定かでないが、東高木から五本の南に流れる水路があった。 第55連隊の兵営が出来たことで、東西の水路に振り分け取水しており、大体が自然灌水であった。 南に下るに従って少し段差があり、水路の要所要所には堰が設けられ、必要に応じて堰止め取水、自然灌水をしていた。(現在、総合庁舎の南には今も水田があり、その状態を見ることができる。) 当時組織されていた生産組合は、この水路の清掃、補修には多大の労力をかけていた。
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多布施反射炉跡
佐賀市伊勢町㈱ミゾタ北側敷地一帯を言う。嘉永6年(1853)6月、米艦が浦賀に来航し通商を迫ったので、徳川幕府では大いにおどろき、日本の国防について種々評議の上幕府の阿部閣老より、同年9月3日に佐賀鍋島藩に命令書が下された。その内容は、鉄製36ポンドカノン(大砲)25門、24ポンドカノン(大砲)25門、及びそれを乗せる車台50台を注文したものである。 そこで佐賀藩では長瀬町の築地(ついぢ)の反射炉だけでは狭くてとうてい間に合わぬため、さらに多布施川畔に大規模な反射炉を築き、鍋島志摩を鋳立方頭人として大砲の鋳造に当たらせた。 何分大きな大砲なので何度も失敗を重ねてやっと安政2年大砲25門を鋳成した。ただちに大坂奉行の廻した順成丸、妙法丸の2隻(せき)に16門を積載して輸送したが途中7月23日紀州灘で暴風雨に遭い順成丸は沈没し妙法丸と乗組員とは勝浦に漂着した。 そこで積み残りの大砲と、その後出来上がった大砲を江戸幕府より廻された昌平丸に積んで輸送し、品川台場に据付けた。佐賀人として誇るべきことであろう。