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高傳寺龍造寺一門と秀の前(波多三河守親の妻)の墓
墓所北部一画に龍造寺一門の墓が並んでいる。これは天文14年(1545)、少貳勢に謀られ、川上與止日女社で、龍造寺家純、家門、純家、祇園原(神埼町)で周家、頼純、家泰の6人が戦死し、龍造寺家壊滅の危機となった出来事があった。この6人の墓が建っている。 同じ区画に静室妙安大姉と刻まれた秀の前の墓がある。秀の前は、龍造寺隆信の養女(実は龍造寺胤栄の女)で、初め蓮池の小田鎮光に嫁し、後、松浦岸岳城主波多三河守親の妻となった。豊臣秀吉が名護屋在陣の時、名護屋に招かれたおり、秀吉の前で懐剣をとり落としたことからその怒りをかい、夫・三河守親は領地没収、常陸国に流された。その後、秀の前は佐賀に帰り、妙安尼と名乗り仏道三昧、妙安寺(川原町)の開基となった。寛永元年(1624)7月晦日、79歳で死去。
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父母寺
・臨済宗東福寺派に属し、両足山父母寺という。 ・開山 : 梅甫和尚 ・敷地 : 2反2畝14歩 御上納地 地米1石1斗8升7合 抱所 ・寄人天神 敷地5畝18歩 御免地 当寺の墓地である通称築山の上に、多々良家と三浦家と2つの豪族の墓地が並んでいる。両家は父方か母方かいずれにしても密接な縁故関係にあり、両家でこの寺を創建したものであり、それ故に寺号を父母寺と唱え、山号を両足山というのも、多々良、三浦両家は両足の如く、父母のごとき関係にあったから、この寺を両足山父母寺となずけたと言うことは素直に解釈される。 開山は梅甫和尚であることは正法寺に残されている記録によっても明らかである。由緒記その他の記録が火災によって焼失しているので詳細は不明であるが明治30年に作成された過去帳はある。歴代和尚の大略は判明する。