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鍋島直正夫人盛姫
盛姫は11代将軍家斉の最も愛する姫で15歳のとき、12歳の花婿直正に文政8年(1825)12月27日輿入をなす。直正は天保元年(1830)17歳になり家督を相続し、10代藩主となった。当時の藩の財政は度々の風水火災にて窮迫していたので藩政改革を決意した。 天保6年(1835)困窮の佐賀藩に追い打ちをかけるように佐賀城二の丸が焼失した。この時盛姫の斡旋によって幕府から築城費を2万両貸与された。これが基となって天保9年(1838)に新城は完成した。直正が右近衛少将に昇任したのも盛姫の働きによるものであった。 また盛姫は進んで藩の改革節減に協力し費用を節約した。当時の騒然たる社会情勢の中にあって、英明な直正は西洋知識を導入し、長崎警固に励み、維新の人材を生み、数々の業績を残した。盛姫は夫君を助け貢献したが、37歳の若さで、弘化4年(1847)に逝去した。高傳寺墓地内に「文粛夫人」と標された墓がある。
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元忠寺跡
修理田にあり、安養山と号し天台宗の寺院であった。 『肥陽古跡記』に曰く。佐賀郡安養山元忠寺、本尊は大聖不動明王、智澄大師の御作也。如影上人元忠の開基、元和4年卯月中旬高源院殿正真大姉の御願にて、愛染明王の尊形弁聖天の像を作り、一宇の堂を建立し給えり。また万治2年12月18日太守光茂公の御願として、江府山王七社を御勧請有って、同年12月13日この元忠寺の勝地に移し奉り給う…とある。 当時、巨勢第1の寺で、藩主の信仰も厚く、度々ご参詣あり、知行つきであったけれども、廃藩により寺運衰え、明治初年には、十大区の御用取扱所を元忠寺におかれて地方行政の中心となったこともあるが後、廃寺となる。 山王社も神埼町仁比山の山王社に合祀され今は小さな社が残り、元忠寺は住職の墓が林の中にぽつんと残っているのみである。