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佐賀龍谷学園発祥の地-願正寺
西本願寺の第21代、明如門主は真宗教学の振興、青少年の育成のために、新しい学校制度を促進した。その一環として佐賀でも県内の真宗寺院が協同して、明治11年4月に、願正寺内で小教校が発足した。はじめは振風教校と名付けられたが、西肥仏教中学となり、さらに第五仏教中学に改められた。生徒数が増え、校舎が足らなくなったので、明治36年に、現在の水ヶ江の地に移転した。その後明治41年4月からは私立龍谷中学校として新たなスタートを切った。 「龍谷」の校名は、願正寺第11代住職の熊谷広済初代校長が、京都東山にある親鸞聖人の御廟(大谷本廟)に詣でた折、「龍谷山」とある山号の扁額を見て決めたということである。この「龍谷」の校名は、その後、京都の龍谷大学(大正11年命名)以来、旭川龍谷高校、札幌龍谷高校など、真宗関係の多くの学校に付けられたが、佐賀だけは、佐賀の地名を入れず、龍谷中学、龍谷高校と称している。最初からその校名であり、他校がそれと区別して校名の最初に地名を付けているのである。 昭和53年には創立100周年を記念して、当寺参道に「振風教校跡、佐賀龍谷学園発祥地」と刻まれた記念碑が本学園より建てられている。
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小林鍵次郎
氏は中野吉で、真島貞二郎の二男に生まれ、9歳の時父親に死別した。7人の幼児を抱えた母の悲壮な姿が忘れられないという。進学をあきらめた氏は、高等小学校卒業後農業を手伝ったが、通信教育を受けて勉学を怠らなかった。大正7年、福岡の簿記学校に学び、40人中5人の採用試験に合格して当時の福岡銀行に入社した。 大正10年、日本の大不況に不安を感じた氏は、どんな辛苦をなめても学識を広め、事業を起し身を立てようと決意した。氏は銀行をやめて上京し、東京神田紺屋町の境野香料店に就職した。会計係を勤めながら、日本大学商科夜間部に入学、大正14年3月卒業し、同年4月日本橋四丁目薬品商小林鍵次郎の養子となった。 昭和14年、香料商を独立開業し、薬品商を廃業した。開業当初は天然香料の産地調査、成分、調合香料の研究に没頭し、販路の拡張など人知れぬ苦心と努力をかさねた。 昭和25年、養父の遺志を継いで2代目小林鍵次郎を襲名した。昭和48年、日本橋本町に8階建のビルを改築して本社を置き、別に株式会社小林香料化学研究所、小林不動産株式会社を設立経営している。氏もまた郷土が産んだ立志伝中の一人である。 昭和9年5月、東京香料商組合理事に就任以来同会の理事、相談役を勤め、その他各種団体、地域公共の役員に推挙され、功労者として幾多の褒賞を受けたが、昭和45年に勲五等双光旭日章を授与された。 氏の長男は東京大学を卒業後、フランスソルボンヌ大学に2年留学後現在東京大学の教授である。他の2子もそれぞれ立教大学経済学部、学習院大学経済学部を卒業し同社の専務、取締役として活躍されている。 氏は郷土を思う情に厚く、小、中学には二宮金次郎の銅像、グランドピアノ、放送機具、体育館の引幕などを寄贈され、またプール建設や図書館移転拡充の時にも多額の寄付をされている。兵庫農協が資金に窮した際に相当の資金を融通してその再建に貢献された。中野吉の地区公民館の完成は主として小林氏の寄付によるもので、地区住民は深くこれを感謝し、公民館の敷地に氏の表彰碑を建立した。