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佐賀県立佐賀農学校
JR長崎本線の多布施川鉄橋付近で、多布施川は本流と天祐寺川に分かれる。この分岐点の三角地に佐賀市内で最も閑静な高級住宅地「緑小路」がある。その昔この場所に寄宿舎をもち、広い実習農園と圃場(現在の佐賀工業高等学校敷地)をもった佐賀県立佐賀農学校があった。 この学校は文部省令に基き、明治28年3月1日佐賀県令により佐賀郡神野村大字多布施128番地に佐賀簡易農学校の名称で創設され、簡易の方法により農学と実地技能を授け、県の農事の改良進歩を図ることを目的として、対象者を県内の住民で田畑5反歩以上を所有する者およびその子弟に限定して入学させた。この学校の終業年限は2年であった。 明治31年4月1日、簡易農学校は僅か3年間で廃止され、新たにこの学校のすべてを引き継いだ佐賀県立佐賀農学校が設立された。終業年限は3年に延長され、入学定員は50名となった。 その後27年間に751名の生徒が卒業し、卒業生はそれぞれに学校創建の理念である「農は国の本なり」を旨として幅広く地域農村の模範的指導者として活躍した。 平成6年10月に同校校舎跡地に建立された同校創立100周年記念碑の碑文には、「思えば、当時の農村は、伝承的農業に甘んじる風潮があった。これを科学的に啓蒙して本県農業を飛躍的に発展させたのは本校卒業生諸賢の尽力に負うところ多しと言えます。」と刻まれている。 大正8年11月21日、佐賀県議会は学校の杵島郡白石への移転を可決、これに生徒一同が猛反対、佐賀商工会議所も反対を表明、佐賀市は公会堂で佐賀署警察官監視のもと移転反対の市民を巻き込む市民大会を開催。佐賀市議会も移転反対を可決、行政裁判に訴えている。 この移転問題では、当時の憲政党と政友会とが激しく対立し、佐賀県政を2分する政争になった。この後、この学校は大正11年11月7日に白石に移転し、戦後の学制改革により佐賀県立佐賀農業高等学校に引き継がれて今日に至っている。
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権現神社(権現さん)
開成二丁目の権現社の創建の年は定かではないが、ご神体に安永8年(1779)創建の記録があるところから推察すれば、享保12年創建の記録がある開成三丁目のお地蔵さんより以前の享保年間初期(1716)の頃に新村の創始者達により新村の鬼門の守神として祀られたものと推察される。 昔、村内の若者たちが軍隊入営や太平洋戦争に出征する時には、村民総出で社前で盃を酌み交わし武運長久を祈り、社前より日の丸の小旗を振り軍歌を歌いながら鍋島駅まで見送りしていた。 また、凱旋、退営の場合も村民と共に社前に額づき無事の帰還を報告していた。その後戦争が激しくなり、凱旋する者もなく終戦での報告会はなくなった。 また、境内の北の堀端には直径1m以上、高さ約40mの松の大木があり、その天辺に太平洋戦争期間中、日の丸の旗が掲げられ、出征兵士の武運長久を祈って、はためいていた。 当時は、見渡す限りの水田地帯で、遠くから日の丸の旗を見ることができ、鍋島駅からの出征の時には、遠く汽車の窓から見て涙したことが思い出される。 昭和20年の終戦を期に日の丸の旗は降ろされ、また、松も昭和23年の台風と松食い虫により枯れてしまった。戦後の混乱期とはいえ何か手当てが無かったかと、悔やまれてならない。 また、各家では鬼門(家の北東)の方に家の中央さんやお稲荷さん等の石仏を厄除けに祀る風習があった。近年は昔のような信仰心も薄れ、祀ることが大変で粗末に成るので、権現社の境内が神域ということで、大松の根元辺りに預けてお祀りしてあった。また、自分の屋敷内の大きな樹木を切る時には、その樹木の代わりに小さい木を境内に献木として植えて、自分の家の切る木の霊を慰めていた。