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上和泉遺跡出土瓦塔
重要文化財
上和泉遺跡は佐賀市の北東部に位置し、脊振山系南麓から派生する洪積台地上に立地する弥生時代から中世にかけての複合遺跡である。 瓦塔が出土した上和泉遺跡9区は、現在の久保泉工業団地の一角にあたる。遺跡の主体をなすのは8世紀後半~9世紀前半を中心とした時期の土坑群で、浅い谷地形の上がり際に群集するという特徴的な占地形態を示していた。また、遺構埋土も特徴的でいずれも人為的に埋め戻されたような状況を示していた。このような土坑群は周辺遺跡の調査においても検出されており、その性格としては「集団墓地」あるいは「土取り痕跡」ではいかという指摘がなされているが、確定はできていない。 瓦塔はこのような土坑群の中の1基から出土した。土坑からの出土遺物は8世紀後半~9世紀前半にかけての須恵器・土師器であり、このことから瓦塔の年代も同様と考えられる。 瓦塔は、組合わせ式仏塔の初重軸部(下から一段目)にあたり、ほぼ完存する。土師質土製品で、器壁の一部に赤塗りの痕跡が認められる。器高37.6センチメートル、基壇幅34.2~35.4センチメートルを測る。平面柱間は3×3間で、四面に開口部を設ける。基壇は二重基壇、柱は四角柱を表現しているものと考えられる。 組物は、尾垂木と持ち送りは一体化した立体的表現がされているが、その他のものについては平面的な表現に省略されている。 瓦塔は、奈良・平安時代を中心に造られた実用型仏塔の一種である。軸部・屋根等の各構成部位毎に窯で焼き上げた後、それを組み合わせ木造高層塔婆模造の中型塔婆とし、屋外あるいは屋内に建立された。 瓦塔の九州内における出土例としては、福岡・熊本両県で数例を確認しているが、佐賀県内では初の出土例である。しかも、初重軸部のみとはいえほぼ完存しているものは九州内において他にはない。 瓦塔は、仏教信仰と密接な関係をもつ遺物であり、仏教文化の地方伝播や当時の思想・杜会情勢を研究する上で重要な資料である。
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古賀穀堂の墓と静古館跡
古賀穀堂は安永7年(1778)寛政の三博士の一人である古賀精里の長男として佐賀城下西精町に生まれた。穀堂は幼年の頃より学問を父精里に学びその英才と識見を称揚せられ後年佐賀弘道館の教授に任ぜられた。文化14年(1817)父精里の逝去に遭い江戸に赴むいたが天保元年(1830)隠居により佐賀へ帰った。晩年この地に家塾として静古館を築いた。穀堂時に天保7年(1836)9月16日享年59歳で死去。遺骸を静古館の所に葬った。今は木や苔が繁茂し当時の遺構は何一つ残っていないが、ただ周辺の閑静なたたずまいだけが当時を偲ばせてくれる。 金立町字大門、金立神社第二鳥居の在り所より道を東に進み5、60mで墓地に達する。 墓地は余り広い区域ではないが大檜樹の下に穀堂先生の墓を第一に左記の如く並んでいる。(其後檜は惜しいことに切りたおしてしまった) 西側より東面するもの北より順に 穀堂古賀先生の墓 燈篭が立ち其の北側には墓碑が立っている。 良密儒人宮富民墓 琴友儒人江口氏墓 古賀坤嗣子蘭秀之墓 同 庶子蘭声之墓 古賀聰関儒人之墓 鳴呼儒子蘭玉之墓 東側より西面ずるもの南より順に 鍋島綾子之墓 素堂古賀先生之墓