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[旧佐賀市][指定文化財 佐賀県 建造物]は3件登録されています。
旧佐賀市 指定文化財 佐賀県 建造物
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高伝寺釈迦堂 一具 木造釈迦堂 一基 厨子入木造釈迦如来及両脇侍像 三躯
重要文化財
高伝寺本堂に安置されている釈迦堂は、正面1間、側面1間の総欅(けやき)造りで生漆を塗って仕上げている。構造は正面入母屋造り、軒唐破風で妻入り、背面は切妻造りで柿葺(こけらぶき)となっている。柱は上端・下端が中央部に比して細くなっている。建具は桟唐戸で上下を藁座で受けている。 この釈迦堂は、本堂左の三間の室内中央に据え置かれているが、室内の柱間は中央を広く、左右を狭くとっていて、明治建築である本堂が釈迦堂に合わせた設計であることがうかがえる。 厨子は、外側を黒漆、内側を金泥塗りとし、釈迦如来像の頭上に天蓋(てんがい)を吊るしている。 釈迦如未像は、像高42.7センチメートル。脇侍像は、文殊(もんじゅ)菩薩と普賢(ふげん)菩薩で、像高は51センチメートルと50センチメートルを測る。3体とも木造の一木造り、玉眼、素地仕上げ。本体と台座、光背までを赤栴檀(しゃくせんだん)と伝える硬質の広葉樹で作っている。各像の光背には承応(じょうおう)4年(1655)に京の仏師宗仁(林長右衣紋衛門尉国次)陰刻銘がある。 赤栴檀御仏像之書物や鍋島勝茂判物類は、高伝寺釈迦堂が承応4年に制作されたことやそれに至る経緯などが記されている。 釈迦堂は、その制作年代や経緯が明らかで保存状態も極めて良く、近世初期の基準作品としてその価値は高い。 厨子入木造釈迦如来及び脇侍(きょうじ)像は、漆箔や彩色を施さない檀像で、正当な作風と的確な彫技が認められるもので、近世初期の作品として優れている。
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石造肥前鳥居 慶長八年の銘あり 一基
重要文化財
本庄神社の二の鳥居とされる肥前鳥居は、神社の門に通じる石橋の前に建てられており、慶長8年に鍋島直茂によって建立されたものである。 高さ3.8メートル、笠木(かさぎ)の長さ5.15メートルで、笠木と島木および柱・貫(ぬき)はいずれも三本継となっている。島木は形式化して笠木と一体となり、木鼻(きばな)はゆるやかに反っている。柱の上端に台輪があり、下部になるにつれて次第に太くなり基部は埋め込まれており、肥前鳥居の形式をよく備えている。 県内に広く分布している石造肥前鳥居は、地方色のある鳥居として注目されているが、本庄神社の烏居は、古い造立銘を有する鳥居のひとつとして価値が高い。 両柱には、次のような銘が陰刻されている。 大日本國鎮西肥前州佐賀郡与賀荘 本荘淀姫大明神奉建立石烏居二柱 大徳本主鍋鳴加賀守豊臣朝臣直茂 慶長八年癸卯九月廿八日 (願文略)
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旧佐賀城本丸御殿 御座間及び堪忍所 1棟
重要文化財
〈背景・経緯〉 佐賀城は慶長13年から16年(1608~1611)にかけて建設されたが、享保11年(1726)の火災で焼失し、天保9年(1838)に10代藩主鍋島直正によって再建された。 明治7年(1874)の佐賀の乱(佐賀戦争)で滅失を免れた本丸御殿の御座間・堪忍所は、明治42年(1909)から赤松小学校の校舎として利用され、昭和33年には移築されて南水ヶ江地区の公民館(南水会館)として活用されるなど、用途を変えながらも建物の価値を踏まえた適切な維持と活用がなされてきた。 〈特徴〉 本丸御殿の南西部、藩主の日常生活空間にあたる「内(うち)」と呼ばれる区画の南側奥に位置する。 御座間は中奥に相当する藩主の居間(執務の機能もあり)にあたり、西面に座敷飾を設ける24帖間で、西廊下と南廊下、中廊下が凹形に取り囲む。 警護詰所にあたる堪忍所は18帖間で、中廊下東側に配置されている。 〈指定の理由〉 現在確認されるところ、天保9年に再建された佐賀城本丸御殿を構成する唯一の遺構として、多くの情報と歴史性を有するものである。 また、藩主が日常を過ごした内向きの建物である点も貴重であり、天保年間建設の本丸建物遺構として高い価値を有している。