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[旧佐賀市][指定文化財 佐賀市 書跡・古文書]は7件登録されています。
旧佐賀市 指定文化財 佐賀市 書跡・古文書
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副島種臣の書 二幅
重要文化財
副島種臣は、文政11年(1828)、佐賀藩士の家に生まれ、幕末、明治維新にかけては国事に奔走し、新政府のもとで参議、外務卿、一等侍講、宮中顧問官、枢密院副議長、内務大臣等を歴任した。また、号を蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)といい、詩書にすぐれ、その書は創造力豊かで、極めて格調の高いものとして評価されている。本書は、明治26年 (1893)、種臣65歳の時の揮毫(きごう)である。 これは、願正寺裁松上人の13回忌法会にあたり追悼の詩2首を、用紙を中国に求め、椽大(てんだい)の筆をもって揮毫し贈られたものである。
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島義勇の旅日記 一巻
重要文化財
慶応4年(1868)2月26日から始まって、同年5月6日に至る109日間の記事である。多忙な間に書いたものだから、なかには単なるメモに過ぎないところもあるが、江戸城明渡しを中軸とする前後の世相と義勇自身の動静を知ることのできる貴重な記録である。 殊に義勇が接触した人物は、明治維新史に現われる主要人物の大部分といってもよい。それが日記に明記されている。特に、個人の遺墨としては書画の類が多いのに義勇の旅日記は異色である。 島義勇は、佐賀藩士で明治維新に功績のあった人だが、明治7年(1874)の佐賀の役に江藤新平とならんで、首領であったことが有名である。 義勇は、文政6年(1823)有師(ありみつ)の長子として、佐賀城下西精に生まれ、弘化元年(1844)家督をついだ。はじめは皇学を学んだが、弘化年代江戸にでて、佐藤一斎の門に入り陽明学を学んだ。郷里に帰ってからは藩命によって国学指南となった。明治2年(1869)7月には蝦夷開拓掛を命ぜられ、同年9月石狩国府に赴任して開庁している。北海道開拓には義勇は非常に力を入れ、今でも追慕する人が多いという。
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大興寺所蔵大般若経 一括
重要文化財
大興寺所蔵の大般若経は、600巻(欠本10本)で全巻を通じて見れば筆者も数名を超え、筆写の時期にもかなり大幅な年代差があるが、大半は僧慶雲、同玄詮の両人によって天授3年(1377)から同4年にかけて筆写されたものでこれが中核を成している。天授年号は南北朝時代、長慶天皇の代に当たり、南朝号は衰微、九州における南朝方征西将軍府も次第に衰退しつつあった時ではあるが、この写経の奥書にはほとんど南朝年号を記している。 慶雲、玄詮の写経にまじって僧寛海等の写経も若干あるが、寛海筆の永和4、5年(1378、79)筆写の奥書がある。永和は、北朝(将軍方)の年号であって、永和元年は天授元年に当たる。また、同じ慶運筆の写経の奥書にも天授4年1月24日までは、天授年号を用いているが、2日後の1月26日の奥書には、北朝年号を用いて永和4年と記している。 当時の政治的情勢の変化を反映して歴史的興味が深い。室町時代や江戸初期の補巻も2、3あるが、ほとんど南北朝時代の写経であって、時代的にいえば県指定を受けている高木瀬正法寺の写経に次ぐものである。なお、若干の経巻には寄進者の名が記してあるが、それらには、高木瀬村、三溝村等の居住者名が多い。これらは、江戸時代の人々である。写経の大半が南北朝のもので奥書が多く当時の歴史を考察する上で、仏教遺品としてその価値が高い。 残念ながら、平成18年2月13日未明の失火により、一部が焼失し、焼失を免れた経巻は佐賀県立博物館に寄託されている。
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有田家文書 九〇通
重要文化財
有田家の出自と歴代については明らかでないが、有田家に伝来している有田系図によれば、松浦氏の祖とされている久に出て、12代ののち政に至り、さらに次のような世代を経て茂成・紀に至っている。 政―親―盛―茂成―紀 茂成は龍造寺隆信の弟龍造寺信周の子で、家名を有田と改めた。鍋島氏に仕え、寛永2年(1625)7月7日死去した。紀は寛永5年(1628)の着到によれば知行1700石を領している。 文書は鍋島直茂以下、勝茂・忠直・光茂・綱茂等を始め、勝茂夫人高源院などの書状(手紙)や覚書類のそろっていることが有田家文書の特色である。 殊に勝茂の書状、覚書は慶長初年(1596)から明暦年間(1655~1657)にわたって総数38通に達し、佐賀藩の歴史を明らかにする上に価値の高い資料である。
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上林家文書 一〇五六通
重要文化財
江戸時代の初期以来、宇治において茶の栽培と製茶に従事して、皇室や将軍家を始め、諸大名その他を対象として、手広く茶業を営んだお茶師仲間の中の一団があり、御物仲間と称して特に格式を誇ったといわれる。上林三入(かんばやしさんにゅう)家はその御物仲間8家(のち11家)の中のひとつであって、鍋島勝茂以来、鍋島家とは深い関係のあった家である。この家に伝わった古文書は、佐賀市呉服元町で茶を販売する商店に保存されている。そのほとんどは各方面からよこされた書状であって、勝茂以下鍋島直正に至る鍋島家歴代を始め、熊本の細川三斎・仙台の伊達政宗・沢庵宗彰・千宗易・金森宗和・小堀遠州・柳生宗矩等、多彩な顔ぶれを含み、その数も千数十点に及んでいる。 ただ佐賀におけるだけでなく、日本の茶業史ないし茶道史上、貴重な史料である。
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末代念仏授手印
重要文化財
略して「授手印」ともいう。浄土宗の開祖法然上人(源空)相伝の念仏往生の正義を明記し、手印をもってこれを記したものである。法然上人の死後、その教義について、徒弟の間に異なった多くの解釈が行われたので、これを統一するため、高弟の一人弁長(又弁阿、聖光房鎮西上人)が法然の教義を選述し自ら手印を押したので、これを授手印というのである。 弁長の書いたものを、更に書写したのが8巻であったと伝えられるが、現存するものは次の5巻である。 肥後 往生院所蔵 聖護本 佐賀 大覚寺所蔵 唯称本 博多 善導寺所蔵 円阿本 筑後 善導寺所蔵 極楽寺本 京都 清浄院所蔵 善弁本(断簡 この中に大覚寺所蔵のものもあるわけで、唯称本というのは、唯称という人によって伝えられた意味である。一説には唯称が書写したともいう。巻尾に朱の両掌が押されている。なお、貞和(北朝)2年(1346)6月全寂、文政3年(1820)4月豊怐の後記がある。 伝来は明らかではないが、大覚寺開山が持ってきたのではないかとも考えられるが、ともかく浄土宗にとっては貴重な存在であることは、大正15年(1926)9月1日宗宝に指定されていることでも明らかである。 授手印を遺した弁長は、筑前遠賀郡香月の生まれ。承安5年(1175)14歳で仏門に入り、36歳の時法然上人に侍して浄土門の秘奥を伝承。師の死後安貞2年(1228)10月、九州に下り肥後白川往生院に住して、この記述をなしとげた。入寂は暦仁元年(1238)3月29日。ときに77歳。 大覚寺の創建は慶長11年(1606)。開山天誉上人は、もと肥前の多久長信が大旦那となって現在の境地を喜捨し、神野の極楽寺を移した形で建てられた。寺号は勅によって大覚寺と改め今日に至っている。
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長尾山年譜
重要文化財
『長尾山年譜』は、第1巻、第2巻、第3巻の上、第3巻の下、第4巻と区分され、全5冊からなっている。本年譜は「肥前之州、佐嘉県、河副江上、護国長尾山福満寺年譜序」より書きはじめてあり、当寺の開基の由来、各世代住持における出来事、皇室や武将との関係とその信仰状況、伽藍再建の模様、寺領及び寺有地の内容、各種の年間行事仏事法要などについて詳細に年代順にしたためてある。 本年譜には、各巻の巻末奥附に記録年号が奥書してあり、第1巻は「貞享三年九月初七夜染毫」とあるので貞享3年(1686)9月から、したためたものである。したがって、それ以前の開基より鎌倉、室町、桃山の各時代の年譜は、その当時、当寺に所蔵されていた各種旧記や文書、伝承によって記されていた各種旧記や文書、伝承によって記されたものであろう。 第2巻は、貞享3年9月に書かれたものを汚損甚だしかったために「享和元年夏五月住諦観識」として再写してある。したがって、最初に記録されてから150年後享和元年(1801)に再録されたものである。 第3巻の上は「貞享三丙寅十月二十一日書了」とあり、第3巻の下と第4巻は「貞享四年正月十三日書了」とあるので、2年にわたって記録された年譜である。