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[旧佐賀市][指定文化財 佐賀県 考古資料]は8件登録されています。
旧佐賀市 指定文化財 佐賀県 考古資料
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増田遺跡甕棺墓出土多鈕細文鏡 一面(附) 甕棺 一基(二箇)
重要文化財
増田遺跡は、佐賀市の北西部に位置し、標高8メートル前後の洪積台地上に立地する。現在までの発掘調査で、弥生時代から室町時代までの複合遺跡であることがわかっている。中でも弥生時代の遺構が中心をなし、すでに500基以上の甕棺墓と58基の木棺墓等が確認されている。弥生時代は大規模な墓地であり、時期的には弥生時代前期末から中期前半を中心とするものである。 多鈕細文鏡が出土した甕棺は、中規模の合せ口棺で、上甕は器高45センチメートル、口径35センチメートル程度、下甕は器高65センチメートル、口径45センチメートル程度の大きさである。鏡は割れた状況で、下甕中央の底面付近で検出した。残存状況は7割程度。3箇所に鈕を有する青銅製の舶載鏡で、直径9センチメートル、縁幅1.2センチメートルで、弥生時代中期初頭の所産である。 増田遺跡周辺では、多鈕細文鏡の外に細型銅剣、銅戈鋳型、さらに朝鮮系無紋土器が多く出土しており、朝鮮半島との係わり合いが深いところである。有明海を介して佐賀平野に、大陸文化がいち早く流入したことを証明する上で重要な地域である。
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鍋島本村南遺跡出土遺物 一括
重要文化財
鍋島本村南遺跡は、弥生時代から近世にかけての時代幅の大きい複合遺跡であり、住宅地造成に伴い、平成元年度に発掘調査が実施された。 石製把頭飾(はとうしょく)は338号土壙から出土した。ほぼ完形で全長5.0センチメートル、十字状の飾り部分は長軸が5.0センチメートル、短軸が3.9センチメートルを測る。先端部は一辺2.2センチメートルの平方形をなし、上面、斜面・両側ともに丁寧な面取りが行われる。各コーナーには細い抉(えぐ)りが施されている。 銅戈鋳型は、弥生時代の345号土壙から出土した。残存長9.5センチメートル、幅7.3~8.3センチメートル、厚さ2.6~2.9センチメートルを測る。戈型は、最大身幅4.7センチメートル、最大脊幅0.9センチメートル、最大樋幅0.7センチメートルを測る。鋒部及び元部を欠損し、ほぼ中央部が残存している。内面は熱を受け黒色に焼けており、実際に鋳造が行われている。 細形銅剣は、弥生時代の2号土壙墓から出土した。鋒部を欠損し、全体の3分の2程度が残存している。残存長19.2センチメートル、最大幅3.9センチメートル、茎長2.3センチメートル、茎幅1.15センチメートルを測る。翼両側及び脊には刳込下部に至るまで、明瞭な鎬(しのぎ)が研ぎ出されている。元部においては、脊には鎬は及ばないが、翼両側には緩い研ぎ出しが行われている。関の片方を欠き、刃部も片方は刃こぼれが著しい。 これら3点の遺物は弥生時代中期前半のものと考えられるが、確実な共伴遺物が出土していないため、正確な年代は推定し得ない。しかし、銅剣は型式上、細形銅剣に属する古式のものであり、銅戈鋳型は現在のところ日本最古のものである可能性が高い。 また、朝鮮半島の無文土器にその祖型が求められる擬朝鮮系無文土器群が、ほぼ同時期の遺物として出土しており、上記3点の出土遺物は、この土器群の存在も含め、国内における青銅器生産の開始時期や青銅器生産集団の系譜など、青銅器生産をめぐる諸問題の研究に一石を投じる貴重な学術資料といえる。
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西原古墳出土石製表飾遺物 一個
重要文化財
西原古墳は脊振山系南麓の低丘陵上に築造された、横穴式石室をもつ全長約60メートルの前方後円墳である。 ここからは「石人・石馬」といわれている石製表飾遺物が出土しており、県内では唯一現存するものである。造営時期は、埴輪などから5世紀後半ごろと推定される。 この石製品は、基部を欠き、中央部には個人の庭石に使われていた際に開けられた二次的な孔が施されている。 残存長77センチメートル、最大幅46センチメートル、最大厚13センチメートルである。中央部には横帯を持ち、上部先端は両角とも欠損している。翳(さしば)・盾(たて)・靫(ゆき)のいずれかをあらわしたものである。 いわゆる石人・石馬は、古墳時代中期から後期にかけて北・中九州を中心に分布するものである。西原古墳のものは、その中でも初期の段階に属するものであり、地理的には最も西側で確認されたものである。
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丸山遺跡三号墳舟形石棺 一合(附)鉄剣二口 鉄矛一口 鉄刀子四口 土師器十点(四個以上)
重要文化財
丸山遺跡は、久保泉町大字川久保に所在し、狭い範囲に密集した竪穴式石室・横穴室石室・竪穴系横口式石室・舟形石棺・小石室といった多様な内部主体を持つ5~6世紀の古墳群に特徴づけられる。 3号墳は径13.8メートル、周溝まで含めると径16.6~16.9メートルの円墳で、墳丘上には葺石(ふきいし)を持つ。内部主体は墳丘中央部に直葬した1基の舟形石棺である。石棺は長方形の墓壙に埋置されていた。石棺内部には3体分の人骨が遺存していたほか、鉄剣2口・鉄刀子2点が副葬され、棺外には鉄矛1口・鉄刀子2点が置かれていた。また、墳丘上及び周溝内からは土師器甕・高杯・小型壷が出土した。これらの出土遺物から5世紀後半の年代が考えれられる。 石棺の石材は身・蓋ともに阿蘇熔結凝灰岩である。蓋は、全長232センチメートル、頭位幅114センチメートル、足位幅100センチメートル、高さ50センチメートルをはかり、いわゆる四柱屋根形をなし両方の妻には円柱状の縄掛突起が造り出されている。棟部には狭い平坦面を設け、屋根は直線的に周縁部に延び、平縁を有さない。身は、全長235センチメートル、頭位幅117センチメートル、足位幅104センチメートル、高さ56センチメートルをはかり、小口部には円柱状の縄掛突起が造り出され、周縁部には縁辺突帯がつく。側面はわずかにすぼまりながら安定した平底へ続く。内部は平面長方形にほぼ垂直に刳り込まれており、長さ181センチメートル、頭位幅74センチメートル、足位幅69センチメートル、深さ39センチメートルをはかる。蓋・身ともに内面は赤色顔料で塗彩されている。 この舟形石棺と同形式の石棺は、熊本県菊池川下流域と福岡県大牟田市周辺に集中して分布している。このことは佐賀平野と筑後南部・肥後北部との関連を示唆するものであって、5世紀後半における北部九州の社会・政治体制を検討するにあたって重要な資料と位置づけることができる。
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丸山遺跡一・二・六・七号墳石室 四基及び出土遺物 一括
重要文化財
久保泉丸山遺跡は、縄文時代晩期~弥生時代前期の118基の支石墓をはじめとする墳墓群と、5~6世紀の12基の古墳群が小さな台地上にまとまって存在していた複合遺跡である。遺跡そのものは、佐賀市久保泉町川久保に位置していたが長崎自動車道建設のため、昭和57年(1982)1月~58年(1983)3月にかけて移設工事が実施された。 1・2・6・7号石室は、そっくり切り取って移設されたもので、1・6・7号墳が竪穴(たてあな)式石室、2号墳が横穴式石室である。竪穴式石室で最も規模の大きい1号墳は長さ1.87メートル、幅0.73メートル、高さ0.76メートルである。2号墳石室は全長3.36メートル、玄室の長さ2.05メートル、幅2.02メートルの平面方形で、短い前庭側壁がつく初期横穴式石室である。玄室(げんしつ)の右側壁に沿って板石が立てられ、幅約0.6メートルの屍床(ししょう)が設けられている。出土遺物は1号墳が石室内から鉄剣2口・刀子(とうす)1点、2号墳が石室内から鉄剣3口・鉄矛(ほこ)1点・刀子1点・カン子形鉄器1点・鉄斧(てっぷ)2点・釶(やりがんな)1点・鉄鎌2点・鉄釧(くしろ)・勾玉(まがたま)7点・管玉24点・小玉499点・琴柱(ことじ)形石製品4点・砥石1点、6号墳が石室内から刀子1点を出土している。久保泉丸山遺跡古墳群の石室及び一連の出土遺物は、5~6世紀の佐賀平野の発達した古墳文化を代表する質の高さをもち、また移設された石室は野外博物館的施設として歴史教育の面からも大きな成果をあげている。
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佐賀市花納丸古墳出土遺物 一括(附)花納丸古墳出土遺物の記録 一巻
重要文化財
佐賀市久保泉町大字川久保字上分にあった花納丸(かのうまる)古墳の出土品とそれら遺物の記録である。今日に伝わる遺物に変形文鏡1面、三環鈴(さんかんれい)1点、管玉(くだたま)11点があり、5世紀後半代に比定される。 記録では、天保11年(1840)11月に花納丸古墳が、破壊された折に、前記の遺物が石室の3隅から出土し、ほかに長さ45センチメートル位の鉄刀と鉄線をよって金メッキしたような釘が発見されたと伝えている。 変形文鏡は、面径9センチメートルの仿仿製鏡(ぼうせいきょう)である。背面の文様は、円座鈕(えんざちゅう)のまわりの内区に8個の乳(にゅう)を配し、各乳を双脚文(そうきゃくもん)が囲んでいる。その外に割り付けの乱れた複線波文・外向きの陽起鋸歯文(きょしもん)をめぐらし、縁は素文である。三環鈴は青銅製で、径3.8センチメートルの環体の三方に径2.7センチメートルの鈴が直接ついている。小型品に属する三環鈴であり、馬具の一種である胸繋飾(むながいかざり)とも推定される。管玉はいずれも碧玉(へきぎょく)製で、孔は片方から穿(うが)たれている。長さは2.3~3センチメートルである。 記録は二葉からなり、現在は巻子(かんす)に表装されている。1葉は、佐賀藩の儒学者、草場佩川(はいせん)(1787~1867)が書いた記録・考証と画家、歌人、古川松根(まつね)(1813~1871)の模写図を入れた版摺(はんず)りで、遺物が出土した翌年冬の刊行である。他の1葉は、佩川の草稿の写しである。記録の公表には国学者、南里有隣(1811~1864)も加わっている。これらは藩政時代の貴重な考古学的資料である。
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関行丸古墳出土遺物 一括
重要文化財
佐賀市久保泉町大字川久保に所在する関行丸(せきぎょうまる)古墳から出土した遺物である。関行丸古墳は、西南向きの全長55メートルの前方後円墳である。 関行丸古墳の内部主体は短い羨道(せんどう)をもつ横穴式石室で、後円丘の前半に位置し北側くびれ部に向かって開口する。石室は長さ4.35メートル、幅2.8メートル、高さ2.65メートルで、石室の奥側半分に板状の仕切石で3つの屍床(ししょう)を造り、各屍床から合計4体の人骨と副葬品が、また、石室の前半部と羨道部からも遺物が出土した。 第1屍床からは熟年~老年男性とともに方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)(径10.1センチメートル)、歩揺(ほよう)と魚形をとりつけた金銅製半筒形装飾具(長14.9センチメートル)1双1具などが出土した。奥壁に接した第2屍床からは若年1体(もう1体か)と、珠文鏡(径7.3センチメートル)、金銅製冠片・貝輪・刀子(とうす)・尖頭(せんとう)工具が、また第3屍床からは熟年~老年人骨と20歳くらいの男性人骨、変形文鏡(径7.6センチメートル)、珠文鏡(径8.8センチメートル)・勾玉(まがたま)・棗玉(なつめだま)・管玉(くだたま)・ガラス小玉・貝輪・刀子・鏃(やじり)・鞘尻(さやじり)状金具が出土した。石室前半の床面からは鏃のほか鉸具(かこ)・鋲留(びょうどめ)金具などの馬具類が、羨道閉塞(せんどうへいそく)の詰石(つめいし)近くから三環鈴(さんかんれい)などが出土した。三環鈴は、外形11センチメートルの大形のものである。中に入る鈴子もそれにふさわしく径2センチメートル前後の丸石である。 関行丸古墳は未盗掘墳であり、石室構造の特徴や鏡・金銅製品・貝輪・三環鈴などの出土遺物からみて紀元500年前後に築造・追葬されたもので、古墳文化を研究する上で価値の高い資料である。
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牟田寄遺跡出土銅印
重要文化財
牟田寄遺跡は、佐賀市兵庫町にあり、標高3メートル前後を測る低平な沖積平野に立地する。当遺跡は、弥生時代、古墳時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代と多岐にわたる時代の遺構・遺物が確認されている。なかでも中心となるのは弥生時代後期で、特殊な柱穴構造を呈した掘立柱建物群等の遺構や、土器・木器などのおびただしい量の出土遺物などから、当該期に大規模な集落が展開していたことが明らかになっている。 また、大規模な谷地形(流路)があることがわかり、この部分の埋土中からは、貝層とともに各時代の土器、石器、自然遺物を多量に出土した。 これらの出土遺物に混じって、銅印が検出された。総高4.3センチメートル、印台高0.45~0.6センチメートル、印面方3.4センチメートル、重さ105グラムで、文字の解釈は確定していない。この銅印の所属する時期は、同一層位から出土した土器から判断すると9世紀から10世紀のものと推定される。 年代と印形態がほぼ合致すると考えられ、古代銅印の発達史を知る上でも貴重な資料である。