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[旧佐賀市][指定文化財 佐賀市 無形民俗文化財]は3件登録されています。
旧佐賀市 指定文化財 佐賀市 無形民俗文化財
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高木八幡ねじり浮立
重要無形民俗文化財
「ねじり浮立は」、以前は11月15目の高木八幡宮秋祭り(お供日)に奉納されていたが、現在は11月中旬の日曜日に実施している。構成は、天衝舞・大太鼓・鉦・モリャーシ(締太鼓)・笛・お謡いなどからなり、鉦打ち・モリャーシがそれぞれ2列になって笛に合わせて「道行」で神前まで進み、神前で舞う祓え=本囃子と「エイヤー」と「まくり」が奉納される。天衝舞は大太鼓や笛に合わせて勇壮に舞う。 この浮立の呼称は、青壮年男子が掛け声とともに、上体をねじらせて鉦を打ち、モリャーシの子どもたちも鉦打ちと同様の所作をして小鼓を打つことから「ねじり浮立」と呼ばれるようになった。また、鉦打ち・モリャーシともに頭の上に「旗さし」を立て、女物の衣装・稚児衣装をまとうところは、勇壮な中にも派手さの混じった舞囃子である。 高木八幡ねじり浮立は、佐賀平野に広く分布する玄蕃一流浮立(天衝舞浮立)で、ねじり浮立という名称の特徴をよく伝えている。高木瀬地区では唯一の浮立であり、貴重である。
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浮立玄蕃一流
重要無形民俗文化財
弘治2年(1556)5月、未曾有の旱魃(かんばつ)を憂い掘江大明神に雨乞祈願のため、神職山本玄蕃がこの浮立を舞ったので、「玄蕃一流(げんばいちりゅう)」というようになったと伝えられる。 玄蕃は自分の年齢47歳にちなみ、大もらし20、小もらし27を以って囃方(ばやしかた)とした。また、カサボコ数本はすべて女性の着物と帯を用いたとされる。 『鍋島直正公伝』に、由来久しき歴史を持つ古い雅の歌舞は華奢のものではないと言うので幕末鍋島藩の大窮乏時代非常時倹約令が出た時も他の歌舞、遊戯は一切停止となったが村々の浮立だけは興業を許して取締まるだけにした。 とある。現在では掘江神社の氏子草場、東神野、西神野の3か町が交替で毎年11月3日の祭典(供日(くんち))に奉納する習わしとなっている。 浮立の構成はほぼ次の通りである。(人数は概数) 天衝舞1、大太鼓打ち3、もりゃーし(締太鼓)20、鉦打ち20、笛方6、謡方3~5。この外宰領、世話人、供人が参加する。天衝舞は、日・月と雲龍を画いた直径1メートルくらいの紙張の前立を頭に被り、たっつけ袴をはき、腰にゴザをつけている。 「道行き」で、神社まで向かい、拝殿前で「本囃子」「まくい」が奉納される。天衝舞人は、太鼓の撥(ばち)を両手に大太鼓を打ち謡につれて舞い踊る。 天衝舞浮立ともいい、佐賀平野部を中心に天山山地から有明海沿岸まで広く分布している。
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小松の浮立
重要無形民俗文化財
天衝舞浮立は、佐賀市を中心に伝承されている芸能で、天衝舞、天月舞、天竺舞あるいは玄蕃一流浮立又は浮立大神楽などと呼ばれており、小松浮立も天衝舞浮立のひとつである。 この芸能の起源伝承は各地異なって一定しておらず、小松浮立は平氏の落人伝説にその起源をおいている。 平清盛が福原に新都を築いたとき、何度島を築いても波のため流されたので、平家の公達1人が人柱に立ち、同時に浮立を演じて完成を祈願し無事に完成することができた。島の名に因んで、この浮立を築島浮立という。平家滅亡後、この地に落ちのびて来た平家の残党が、小松殿平重盛を追慕して、集落名も「小松」とし、この浮立を小松神社に奉納したのが始まりという。 小松浮立が他の天衝舞浮立と異なっている点は、笛が用いられないこと、ゼイが用いられることである。笛を用いない点については、平敦盛の「青葉の笛」の故事に基づき、これを忌むと伝えている。