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[久保田町][ その他]は5件登録されています。
久保田町 その他
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善隣会佐賀教会
善隣会の本部は現在、福岡県の筑紫野市原田にある。その発祥の地は久保田町の大立野東といわれている。この大立野東で生まれた力久辰齋が、昭和22年(1947)に多久市 原で立教。この人が善隣会の教祖(御神尊様)となった。 その後、本拠を神埼郡三田川町、佐賀市水ヶ江に移転したのち、昭和31年(1956)に筑紫野市原田に本部を構え、現在に至っている。 久保田町大立野の生家は、現在、善隣会佐賀教会となっており、西岡千代子氏が世話役をしている。 久保田の教会にも多くの参拝者があるといわれている。
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沖の島信仰
有明海沿岸一帯に、オーガンさん、オンガミさん、オオガミさん、オシマさんという神社、石祠がいたるところに祭祀されている。これらは有明海唯一の島、沖の島の信仰にもとづくものといわれる。沖の島は、鹿島市大字飯田字江福の箱崎から東方5km余りのところにあって、男島・女島の2島からなる小さな岩礁の島で、満潮には姿を没し干潮には姿を現す。現在は灯台が設けられている。潮の干満にあわせて姿が見え隠れする沖の島に神秘さを感じ、神が存在すると考えたのは、当然のことであった。 祭神については一定した見解がないが、次にいくつか資料を示しておく。 鹿島藩4代藩主鍋島直条の著した地誌『鹿島志』によれば、 浜津の東海上七里余に小島あり。御髪と称す。古より藤津郡と称す。周回数百歩、潮盈つれば則ち隠れ潮ひけば則ち出づ。俗伝に、昔神あり其の髪を剃りて之を海に投ず。留まりて島と為る。因て之を名づくとあり、さらに余按ずるに吾邦興玉尊を以て船魂神となし、あるいは興神と称す。此の島は海舶の往来する所、故に往昔興玉を祭れるなり。俗に興神と御髪と倭音近きを以て誤りて此の説をなすものか。未だ知るべからずとある。 大木惣右衛門が著した『肥前古跡縁起』(寛文5年-1665)によれば 沖の御神は天照太神宮の御弟素盞鳴尊也、水神にて御坐ける、國中の貴盞雨乞の祈願を掛て専ら願ひを成就す、立願は浮立也、大船小船に取乗て彼の島の四方に押寄せ、太鼓、鼓を打立て神慮を冷め奉る。不思議也忽風吹出雨降國土を閏し侍る喩如何なる大風にも此の浮立の船は子細なく陸に着侍ける。潮の引きたる時には此山岩3つに現し、其上に石のほこら即沖神の御神體也、是は鍋島甲斐守直澄の建立也、此のほこら建立の時神變を一々に吉田殿へ申されければ即ち萩原殿沖神の祝を遊ばし直澄へぞ與へ給ひける、是ぞ石のほこらに彫付て感應に備ふ、霊験新にして利益殊に明白成。 さらに『太良岳年祭勧化略縁起』には、 和銅年中行基菩薩来て、自ら彌陀・釈迦・観音の3躯を制作し、本地として太良岳三所大権現と尊崇す。尊体を太良岳に納め、左髪を武雄の領内へ投し黒髪山と崇め、右髪を海中に投し化して島と成ると云う。今の御髪大明神と唱える瀬是なりとある。 オシマさんと称されていることについては、次のような言い伝えがある。 昔、お島という娘が老父と2人で暮らしていた。ある年、干ばつで農民が困っているを見かねて、お島は神に雨乞いの願をかけ、有明海に身を投じた。その後、お島の体は沖の島に流れついた。お島の願い通り、雨が降り、豊作となったので、農民たちは島を豊作の神として祀り、沖の島をお島にちなんで、オシマさんと呼ぶようになった。 以上のように祭神については一定ではない。 信仰については、古くは航海神、水神として漁家の信仰が中心であったが、時代をへるにつれ、水を必要とする農業神としての性格を持つようになったのである。
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えびす信仰
えびすは恵比須、恵比寿、蛭子、戒、夷などと書く。ふっくらとした笑顔に風折烏帽子をかぶり、右手に釣り竿、左手に鯛を抱えて座した姿で現されている。 一般的にえびすは、海の幸をもたらす神として漁に携わる人々の信仰をあつめ漁業の神と言われているが、商業・農業などの生産活動の神とも言われ福神として広く信仰されるようになった。 蛭子とする説は、記紀神話で伊弉諾尊と伊弉冉尊の第3子が蛭子尊で、3歳まで足が立たなかったらしく、そのため葦船に乗せて流し棄て、摂津国西宮の浦に流れつき、そこで祀られてえびす神となったのである。 戒、夷は異邦人を意味するもので、元来、異郷から訪れて豊漁をもたらすものという信仰があった。屋敷神としても信仰されている。
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南京ハゼ
昭和28年頃の干拓入植当時、クリークの護岸のために植えられたもので、10月の終わり頃になると紅葉し見に来る人々をメルヘンの世界へ誘います。豊かな自然との共存を願う本町にとって、このメルヘンの世界を創造することは、町民にやすらぎと働く意欲を再生しています。
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新聞と久保田
久保田藩士本野盛享は子安峻及び柴田昌吉と相談し、明治5年に読売新聞社を創設しています。盛享は、徳万町東の八田家に生まれ、後養子として小路の本野家を継ぎました。新聞社の初代社長は子安が務め、明治22年に2代目社長となり、明治42年12月死去するまでの37年間にわたって、わが国三大紙の一つに数えられる読売新聞社の基礎を築きました。 また、郷土紙佐賀新聞社の今日を築いたのも久保田出身の中尾都昭(伊八)です。都昭は、明治27年4月6日に久富に生まれ、腕白盛りを久保田で過ごしています。大正15年に農村青年新聞、昭和2年に佐賀自由新聞、昭和6年に佐賀毎夕新聞を創刊し、昭和13年に財政難に陥っていた佐賀新聞を合併、新生「佐賀新聞」が誕生しました。その後、幾多の困難を乗り越え今日の佐賀新聞の礎を築いています。