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[旧佐賀市][ 歴史的建築物]は5件登録されています。
旧佐賀市 歴史的建築物
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山口亮一旧宅
旧宅の主屋は、山口亮一画伯の養祖父にあたる梅堂が10代藩主鍋島直正公の御典医としての地位を得た天保期に、白石の須古にあった建物を解体し、現在地に移築したと伝えられている。建物は、平成4年に佐賀市に寄贈された。 主屋の屋根は、寄棟造り茅葺きの上屋を桟瓦葺きの下屋が巡る形式である。 外壁は、街路に接する面に腰高の竪板をはめ、上部を漆喰で塗込めている。 明治期に大幅な増築や改造が行われ、戦後、市の所有となるまでの間に明治期に増築された人力車庫、茶室等も解体され、移築当時の姿を伝えるのは茶の間、納戸のみである。 しかし、複雑な経緯を辿りながらも、明治期の佐賀を代表する洋画家として知られる山口亮一画伯が生活した住居としての由緒、街路と屋敷構え、そして水路が一体となった歴史的環境としての価値は高い。
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柳町の民家・中原洋三家
中原家は、柳町の東部にあって昔の長崎街道沿いに建てられたものでその昔は、上今宿町と呼ばれていたところで、思案橋の『蔦屋』から北に行ったところに中原家があり、その向い側には大坪佐八家がある。また、すぐ北にある追手橋付近までには古い民家の町並みが見られ往時の長崎街道の面影を色濃く残している。 中原家は、『古手店、(ふるてや)貸書林を営み、唐物座札を商っていた』と古書に記されている。 循誘校区にはこのほか材木町や下今宿町など古い民家や商家などを見ることができるが、佐賀市は幸いにも今度の戦争による被害が少なく、したがって古い民家が市内各地に数多く残って、全国的に見ても珍しい建築遺産として注目されている。下今宿町付近も、佐賀藩唯一の河港として、かつては数多くの商家が建ち並んでいる豊富な民家の町並みであるが、県道の拡幅工事で姿を消して行くのはまことに残念で、鬼瓦等の一枚でも残していくように配慮をお願いしたいと思う。 九州の三大歌人といわれる人は、柳川の北原白秋、宮崎県延岡市の若山牧水、そして佐賀市久保泉町の中島哀浪氏である。 中原家の故中原勇夫氏は佐賀大学文理学部の教授をされるとともに、中島哀浪氏が主宰した『ひのくに』を継承されるとともに、幾多の歌集を出版され中でも『今泉蟹守歌文集の出版、その他万葉集の研究や杵島山に万葉杵島曲歌垣碑、中島哀浪歌碑の建設など幅広い活動を進められた。その為数々の文化功労賞を受賞され、佐賀県短歌界の発展に不滅の業績を残された。
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楊柳亭
楊柳亭は、明治15年(1882)5月、岸川平左衛門が創業し、屋号は『新川崎屋』と呼んでいた。初代佐賀県知事鎌田景弼は政務に多忙であったが、無類の左党で鋭気を養うためよくここに通っていた。しだれ柳の多かった場所にちなんで『楊柳亭』と同知事が命名した。この鎌田知事は、熊本出身で弱冠42歳で5年2ケ月の在任であったが、豊かな実力と豪放の性格で、県政発展に尽くした人であった。なかでも、当時博多久留米間の鉄道開通について努力し、『佐賀にも一つ位駅がなければ』とのことで鳥栖駅が設置されたといわれている。楊柳亭では知事の肖像写真のほか『酔石景弼』の銘入り花瓶が大切に保存されている。なお、佐賀市大和町川上宝塔山内には『鎌田景弼先生の碑文』という記念碑がある。また、第25代の吉村哲三知事は、徹底して楊柳亭通いをしていた。この飲代は、知事給与の大半を使っていたという。まさに豪遊、それでも夫人の実家が富豪で毎月の生活費は、妻の実家から届けられていたとのことである。この知事の任期は僅か8ケ月だったが、当時県社の佐嘉神社を別格官幣社に昇格させるなどの努力をされた。この楊柳亭には、佐賀で有名なあの座敷唄『梅干し』の記念碑があり、毎年2月同好者が相寄り『梅干し』の唄会が開催されている。この記念碑は、昭和38年城内公園に建てられていたものを、昭和47年楊柳亭に移設されたもので、歌碑には、『しわはよれどもあの梅干しは色気はなれぬ粋なやつ』と書かれいる。この歌は、佐賀市光明寺第12代の住職龍ケ江良俊師の作詞である。昭和24年5月全国を行幸なされていた昭和天皇陛下が佐賀の地にお立ちよりの際、『楊柳亭』に宿泊されたこともあった。この楊柳亭の庭に織部灯籠がある。別名キリシタン灯籠とも云っている。また、本庄の高伝寺や蓮池公園にもこの織部灯籠がある。京都の桂離宮には24基の石灯籠があってその中に約3分の1に当たる7基がいわゆる織部灯籠である。古田織部は、慶長5年57歳で、茶道の上では天下一となっている。また単なる茶道の大家にあきたらず、造園や建築にも非凡な才能をもち新しい芸術をめざしていた建築家であり、総合デザイナーでもあった。建築・造園は古田織部の愛弟子で、当代一流の建築家となっていた小堀遠州が恩師の死をいたみ、それとなく気付かれぬように、桂離宮という景色の中に織部への敬慕の思いをひそかに織部灯籠に託したものと考えられる。この灯籠は竿を地に生け込むことから高さを周囲の景色と調整できるといわれている。(古田織部の世界から)
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佐賀城本丸の建物役割
1.御式台…外からの客の応接 2.外書院…謁見の間 3.大 溜…登城した家臣たちの謁見場 4.大書院…選抜された人の謁見場 5.御料理間…饗応の場(きょうおうのば) 6.請役所…藩政の中心で請役家老のいる所(龍造寺家系の多久・諫早・武雄・須古の各家が交替で勤めた。) 7.能舞台・楽屋…作られたかどうかは不明 8.御座間(お居の間)…藩主の居間。執務室 9.御懸硯方(おんかけすずりかた)…藩主の手許金を司る。軍事費に使用された。 10.長局(ながつぼね)…お局の居室 11.御絵図方…田畑、宅地の測量 12.御付物方…什器等備品及び財産の管理
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さがレトロ館
建物は、明治20年警察部庁舎として現在の佐賀県庁本館付近に建設されたが、昭和11年に警察本部の建て替えに伴い、現在地に移設されている。 その後、佐賀県蚕糸取締所、佐賀地方経済調査庁や視聴覚ライブラリーなどとして活用されてきたが、平成21年3月29日から佐賀レトロ館として、スローフード中心のカフェレストランとして活用されている。