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[旧佐賀市][ 銀行]は4件登録されています。
旧佐賀市 銀行
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西肥銀行
馬責馬場の凌皮膚科東側角に現在福島薬局があるが、昔の西肥銀行の面影はなく写真のように『明治橋』が昔日の銀行を偲ぶのみである。 また、すぐ北則の『明治橋』は、明治37年10月佐賀馬鉄がここを起点として諸富まで、はじめて走ったところで、また、ここから近くの南には、佐賀米穀取引所もあって大変賑わっていた。西肥銀行は、米麦取引業者を中心に融資していた米穀金融会社の一つであって、大正5年9月、久保田の大地主森山定太郎と、その親戚関係にあった神埼郡三田川町の地主、橋本栄治が中心になって、久保田町徳万に資本金50万円で本店を設立し開業した。大正5年11月三田川出張所を、大正6年1月神埼支店を、さらに大正7年7月水ケ江佐賀支店を開設し、創業以来順調な推移をたどったが、9年になって橋本栄治が事業に失敗したので銀行経営は、完全に森山一族に移った。そして大正12年6月には、本拠地を県庁所在地の佐賀市に移すため、佐賀支店を本店に変更した。大正9年の恐慌、関東大震災と続く全国的な不況で、大正15年には古賀・神埼実業両銀行の取付け、休業という厳しい状況の中で、住友銀行に経営権の委譲を打診、両銀行間に了解が成立し、住友銀行から新役員を迎える段階になったが、当時の佐賀県知事が買収に強く反対したため、支配人の派遣を受け入れるにとどまった。その後約9ケ月の冷却期間をおいて、常務取締役を迎えたが、昭和3年4月には住友銀行の内地連携銀行の佐賀百六銀行と合併し、これに住友銀行が経営参加する形となった。
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佐賀百六銀行
明治9年の国立銀行条例の改正後、各地に国立銀行設立の気運が強くなった。鍋島家東京本邸でも深川亮蔵が中心になって設立計画が進められ、明治10年12月には県出身の士族有志が資本を拠出し、東京第三十国立銀行が設立された。深川亮蔵はこれと並行して、佐賀鍋島家にはたらきかけ、佐賀県にも銀行設立を企図した。 明治10年6月、設立趣意書を各方面に配布すると同時に、水ケ江の宗龍寺に創立事務所を設け、出資金を募集したところ短期間で集めることができた。明治12年2月認可申請書を提出、ときの大蔵卿大隈重信の認可を受けた。 佐賀第百六国立銀行の設立は旧佐賀藩主、東京鍋島家の銀行類似業務の仕法方(出納係)深川亮蔵(東京第三十国立銀行頭取)らの援助のもとに、鍋島茂智らの旧藩士のほか、伊丹文右衛門、古賀善平ら旧藩御用商人によって、明治12年4月1日、本店を北堀端2103番地にて開業した。開業と同時に県の公金取り扱い指定を受け、明治16年7月には、国庫金出納事務を扱うなど、県下最大の国立銀行となった。 明治31年4月1日付きで、株式会社佐賀百六銀行に変更し、佐賀馬車鉄道株式会社(明治34年設立)広滝水力電気株式会社(明治39年設立)など県内主力企業の育成に積極的に力を貸した。 大正13年4月肥前銀行を吸収合併し、同年9月には本店を肥前銀行跡の佐賀市呉服町28番地2・3(元佐賀玉屋北)に移転した。 住友銀行に営業権を譲渡、第一次大戦後の反動恐慌に続く慢性的な不況により、大正15年には、県内2大銀行の取り付け休業騒動等が発生し、同行の経営も厳しくなった。昭和3年1月、同行は住友銀行に経営を委譲する方針を固め、持株の割合も住友銀行が86%を占めいわゆる住友銀行の内地連携銀行となった。 住友銀行佐賀支店は、昭和16年9月1日、1県1行主義による銀行合同の流れにしたがい、唐人町、水ケ江等の各支店を佐賀興業銀行に譲渡し、同行の本店は、住友銀行佐賀支店となった。 昭和45年11月八幡小路2-3に支店を移転し現在に至っている(※)。 ※2001年に合併により住友銀行は三井住友銀行となる。支店は駅前中央1丁目に移転。
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肥前銀行
佐賀・柳河両藩の御用商人で、かたわら酒造業、両替業を営む県下屈指の富豪で、『金善』の屋号で知られていた弥富寛一およびその一族によって、大正4年5月27日資本金50万円で設立し、川副町早津江に本店を置いた。 大正6年2月1日呉服町に佐賀支店を開設した。大正9年2月1日に佐賀支店を本店とし、旧本店を早津江支店に変更し、その後神野に出張所を設けるなど営業基盤の重点を佐賀市に移し始めた。 米麦取り引き業者を中心に融資していたが、折しも、第一次大戦後の不況に続き関東大震災が起こり、先行きを考慮し、大正13年4月佐賀百六銀行と合併した。この合併は、佐賀百六銀行を代表する鍋島家と、肥前銀行の弥富家とが幕末から明治期にかけて深い関係にあることと、両行がともに杵島炭鉱に出資したことがあげられる。 大正13年9月には、佐賀百六銀行の本店を北掘端から肥前銀行本店のあった呉服町に移した。
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佐賀中央銀行
現在、旧佐賀銀行呉服町支店となっていたところは、かつて、昔ここにあった佐賀中央銀行と、現在佐賀銀行本店のあるところに佐賀興業銀行本店があったが、この県内を二分していた両銀行が、昭和30年7月11日歴史的大合併をしてここに佐賀銀行が誕生した。佐賀中央銀行は、唐津銀行と西海商業銀行とが昭和6年8月に合併して、新しく誕生した銀行である。明治18年10月、佐賀市柳町に本店のある三省銀行は、唐津支店の営業を譲り受け、店舗は三省銀行の支店を引受け、11月2日に開業し頭取は、弱冠26歳の大島小太郎が就任した。 同銀行は、大商家が軒を並べる繁華街で立地条件にも恵まれ、順調に滑りだし、資本の増資や役員を増し経営陣の強化を行い、明治24年には純利益が、佐賀県下で一番になった。また、唐津銀行役員を中心とする30有余名の有志が、唐津鉄道㈱を設立し唐津から厳木まで開通したり、相知炭坑が機械化、火薬の使用、有望な炭層の発見などの条件に恵まれ経営が発展していった。明治45年4月、創立以来28年にして唐津の中心地に新築移転した。建物は、唐津が生んだ有名な工学博士辰野金吾が監督し、設計は清水組の田中実工学士、京都高島屋が装飾を受持1年7ヶ月をかけて竣工した。この西洋風の広壮雄大な建物に唐津市民は大変驚いた。以後今日まで当時の面影を残し、文化財的価値を高めている建物である。福岡県前原町の糸島銀行本支店6店を大正10年に合併し、また、唐津町に本店を置く相互銀行を大正13年に吸収合併した。関東大震災後、佐賀市の伊丹一族が経営する栄銀行が、深川造船所の破産により大きな打撃を受けていたので、両者の旧知である松永安左衛門の仲介もあって大正14年5月唐津銀行が栄銀行を吸収合併した。第一次大戦後不況の長期化により、銀行経営環境も悪化し、国県の意向も受けこれまで同じ唐津で明治後半以来のライバルであった西海商業銀行と合併し、昭和6年8月、佐賀中央銀行を新設した。昭和21年12月本店を唐津市から佐賀市呉服町に移し、昭和30年佐賀銀行呉服町支店となった。