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[富士町][ 地蔵・銅像・石塔]は5件登録されています。
富士町 地蔵・銅像・石塔
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いで(井手)の神
湯の里橋の上部に内野の堰がある。現在はコンクリート造りの立派な堰であるが、大正の初め第一発電所ができる前までは芝の堰であった。そのため、大雨が降るたびに決壊し、その度に大勢の人がかり出され復旧工事にあたった。 正徳3年(1713)、大雨のため堰は流され復旧工事は進まず、人々の苦悩は増すばかりで社寺で祈祷まで行われるようになった。 内野に新吾左衛門という農民がいた。新吾左衛門も毎日工事に出て一所懸命に働いた。ある夜、疲れて寝ていると、夢枕に七郎神が現れて、「工事がはかどらないのは、水神の怒りがあるからで、誰か人柱に立てば水神の心も和み工事は完成するだろう。」というものであった。新吾左衛門はそのことを、翌朝役人に告げた。役人は人柱まではと思ったが、いつまでたってもはかどらぬ工事にとうとう人柱を立てることにし、人々を集めてその話をした。進んで人柱に立とうという者など無く、とうとう役人は仕方なく「左ないのアシナカを履いた者を人柱に立てる。」と言い渡した。左ないのアシナカを履いた者は新吾左衛門一人であった。普通左ないのアシナカを履くことはないので、新吾左衛門は七郎神が夢枕に立ったときから人柱に立つのは自分しかないと覚悟を決めていた。新吾左衛門の犠牲により、さしもの工事も完成し、枯れかけていた田に水が行き渡るようになった。その後、内野の人々は新吾左衛門の霊を慰めるべく浄財を募り石祠を建立し、井手の神と崇めたという。内野の西光寺の過去帳に次のように記されている。義徳浄流居子正徳三巳歳八月十日 内野新吾左衛門事内野堰ニ人柱立セシニ依リ井手神ト祟メ村中ヨリ祠堂銭八貫目施入ス又七郎社託宣ノ冥加ニ付宝殿 ◎殿ヲ建ル也
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読誦塔
特定の教典を読誦した記念に建てたものである。教典はもともと読誦することを目的としたものであるが、何部または何遍読誦したかということを銘文としたものである。「奉読誦大乗妙典一千部」と刻されており、法華経を読誦したものである。
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かいもん屋敷の猫
昔、小城から嘉右衛門という人が杉山にきて屋敷を構えて住み着いた。杉山の人たちは、かいもん(嘉衛右門)屋敷と呼んでいた。屋敷には1匹の年老いた大きな三毛猫がいた。猫は子どもに噛みついたりするので、魔性の猫として、人々から恐れられていた。なんとか始末をしなければと、屋敷に来ていた相撲取りに訳を話し、斬り殺してもらい、猫の死骸を袋にいれ、貝野川の上流から流してしまった。ところが、このあと、不思議なことが起こるようになった。下流の貝野では大水がでたり、疫病が流行ったり、農作物が不作になったりと悪いことが続いた。猫を殺して川に流したという噂がひろがり、これは猫のたたりに違いないと、貝野では丁重に祀ることにした。城山橋を渡って少し登った道の端に祀ってあるのがそれである。猫神さまの祭日を師走の11日と定めたので、十一日神とも呼んでいる。
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池の神さん
日池公民館の横の池の中央に石祠が建っている。池が深く祭神を確認することができないが、地元では牛馬の神さまと伝えられている。10月25日に人々は池の廻りに集まり、立ち祭りをしていた。江戸時代、三瀬や下関屋から三反田の佐賀藩のお蔵に納める年貢米を積んだ牛馬はこの道を通っていた。この石祠の前で必ず止まり、参拝をしていった。もし、牛馬が病気のときは池の向こう岸に茂っている弥次郎竹の葉を食べさせると必ず治ったという。また、騎乗したまま、通りすぎると落馬するとか、馬が転倒するといい、必ず下馬して拝礼したと言い伝えられている。
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一里塚
熊川天水にある。